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ぽたらか

ぽたらかは20年の歴史を閉じます

こんなもんだと思っていました

 和尚さんの住む寺は国道から108段の石段を登ったところにある。奇しくも煩悩の数だ。もっともこの数は偶然、国道が出来た時になったもので、その前はもっとあったに違いない。小浜藩の処刑場があって、掘り出しても掘り出しても首から下が土に埋まっていく首切り地蔵から石段は延びていた。和尚さんは買い物と銭湯に行ったり来たり、煩悩を出で再び煩悩に帰る毎日を繰り返していた。

 私は近くの別のボロ寺に住んでいて、毎日和尚さんの元に通っていた。寺には電化製品というものはない。ある夏の日、和尚さんはいつものように買ってきた惣菜とご飯を台所で食べていた。それを見て「ん?和尚さん、それ納豆?じゃないよね。糸を引いているじゃないの。」びっくりした。「ご飯が腐っているよ。ダメだよ、こんなものを食べちゃ。」と取り上げると、和尚さんは、「おや、そうですか?あたしゃ、ご飯てこんなもんだと思っていました。」と、ケロッとして言う。まあ、こんなものだと思っていれば、体には影響ないのだろう、多分。

 私は翌朝、下の寺から小さな冷蔵庫を一人で担いで持って上がった。和尚さんはそれを見て、「女の人がそんな重いものを持っちゃいけません。わたしも手伝います。」と言ってきかなくて、端を持とうとするのだが、かえって重たくてたまらぬ。「和尚さん、ちょっと、手を離して…。」何しろ、和尚さんと私は20センチも背が違う。冷蔵庫プラス和尚さんにぶら下がられちゃ、私だってたまらん。でも、女性は守らなきゃ、という精神は迷惑だが、立派な心掛けだ。

 数日後、その冷蔵庫が倒れて、和尚さんが大きなたんこぶを作っていたことがあった。冷蔵庫のせいだけではない、様子がおかしいのだ。直ぐに病院に連れて行ったら、脳梗塞を起こしており、CTスキャンでは、すでに脳の四分の一は真っ白だった。

 直ぐに入院となり、病室に見舞った私に和尚さんは「この人は私を殺そうとしている。私をこんなところに閉じ込めて。」と大暴れを始めた。看護師は「病気が言わせていることですから。」と慰めてくれたけれど。怪物和尚はたった1週間で退院となって、勿論その時のことは覚えていない。1週間で4分の1を占めていた血は自然に吸収され、「こんな患者、始めてです!」と大騒ぎとなっている病院を後に、帰りには食堂でステーキを食って寺に帰った。そして、和尚の汚れと血でこびりついている白い総髪をバリカンで一気に丸坊主にしてやった。

 入院をしているときに、待合室に貼ってある健康の12か条とやらを見ていたら、つくづく『ああ、うちの和尚さん、全部これやっているなあ。』もちろん、反対のことをだ。熱いものはさまして飲め(煮えたぎるようなお茶が好きなんだよな)肉や魚は焦げているものはダメ(炭のようなものがいいって)脂っこいものも好き、甘いものも好き…。酒もたばこも我慢は決してしない。ただ、…痛いのだけは我慢出来なかった人だ。注射を打たれるとき、赤ちゃんみたいに「痛ーい、イタタタターッ。」思わず、他人のふりをしたくなるほど大騒ぎをする。痛がりだし、そもそも我慢をすることができない人だし。だからこそ、人が痛く苦しい思いをすることを見過ごすことが出来なかったのではないだろうか。

 私の郷里に連れて帰っても、「今日は天気がいいから散歩にでも行ったら?でも道に迷うから、行った道の通り帰ってきてね。」と散歩を勧めたら、朝から暗くなるまで帰ってこない。道順を聞くと行きだけでも15キロはある道。それは、散歩とは言わない!

 和尚さんの遺体は岡山医大に献体として提供した。1年後、遺骨を引き取りに行った時、解剖学の先生が解剖所見を説明してくれた。「この方は肝臓癌が全身に転移していましたよ。これだけ癌が広がっていたら、さぞつらかったでしょう。何か訴えられていませんでしたか?」と言われたって、亡くなるその日の朝まで、片道10キロの散歩をして朝風呂に浸かって。機嫌よくロシア語で革命歌を歌って、静かになったなと思ったら沈んでいたんですから。と話したら、先生はケラケラ笑って「そうですね。何があっても、もうすぐ百になるまで元気に生きられたのですから。」

 そう、苦しいとか痛いとかあれほど我慢できない人が、少しぐらい体が動かなくたって、あちこちに痛みが出たって、和尚さんのことだ。きっと彼岸でこう笑っているだろう。「なーに、歳を取れば人間、こんなもんですよ。」