考えましょうー和尚さんはどんなに窮地に立っても、いつも冷静に必ずこう言う。「考えましょう。」
(おそらく、和尚さんの頭の中は『悩む』がなくて、代わりに『考える』が入っているのだと思う。)
西福寺は歴史は古いのだけれども、建物は酷いオンボロで。石段はすり減ってしまってヤモリのように、足裏に吸盤を付けた感覚で登らなくてはいけないし、境内は鳥が運んできた杉の実が芽吹いて成長し、うっそうとしているし、周囲を取り囲んだ山から土砂が流れて池を潰しているから、山の湧き水は行き場を失い、本堂の底をコンコンと流れているし、本尊の頭の上には雨が滝のように降り注いでいるしで、一目で絶望以外の感情しか湧かなかった。
しかし、この寺の魅力は私を離さなかった。境内には『中川順庵先生顕彰碑』が目を引く。杉田玄白とターヘルアナトミアを翻訳した人だ。オランダ語にも長けていてオランダで手に入れた解剖図と照らし合わせながら、時衆聖の手により解体される人体の構造を学んだと言う。小浜藩の藩医なので墓は別の寺にあるが、西福寺には刑死場があり、サンプルには困らない。石段の下には兼務している寺があり、そこでは金瘡医(日本古来の外科医)がおり、産科もこなしていたという。そもそも仏教では血穢をきらうので、産科と外科は儒教か時衆に所属しないとできなかったらしい。中川順庵は西福寺において解剖学を医学生に教えていて、その教本である解剖図なのか、元々寺にあった解剖図なのかはわからないが。和尚さんが入山する前に帝国大学歴史編纂室(今の東大)に没収され、戦後になって催促して返してもらった古文書のうち、その解剖図だけは返してもらえないと当時の総代達が怒っていたそうだ。国家神道政策に伴って歴史が覆りそうな貴重な古文書は返さないという話は全国各地でよく聞く。
返された古文書は寄進帳なので、これを売って寺の修繕に充てませんか?といったのは和尚さんだった。私はどのくらい費用が掛かるか、各業者に見積もってもらいましょうと提案した。まず、境内を埋め尽くしている杉を伐採してもらうため、森林組合に依頼したところ売れる杉は1本もないし、断念しかけたところへ、なんと裏山に樅木の大木が発見されたのだ。その一本で邪魔な杉の木は伐採され、境内に日が差すようになり、なおもヤモリの石段まで真っすぐに直してくれて全て賄えた。
さて問題は本堂。知人の紹介で若いが腕のいい大工さんに頼んだところ、「あんたが俺の手伝いをしてくれれば、見積の半分でいいよ。」「よっしゃー!」ということになり、プロでなくてはできない仕事以外、たとえば古い壁を剥がして塗りなおすとか。私が地道な仕事を一手に引き受けた。それでも、あと100万円はどうしても足らない。そこで、実家の母に頼んで功徳だからとうまく言って出してもらうことにした。
そんなある日、寺を修繕中だというのである骨董屋が「襖の下張りに使われている和紙がありましたらみせてください。」と訪ねて来た。何でも今は古文書ブームで下張りに使われている子供の手習いでも高く売れるんですよ。と言う。それを聞いて私の実家にお金を出してもらう事を気兼ねにしている和尚さんが、「これ、これが売れませんか?」とだして来たのが件の古文書だ。「これがいくらになるか、鑑定してください。」骨董屋はこれはひょっとして3千万円くらいするかもしれませんよ。さ、サン千万!「寺の什物台帳にも載ってないんですから、ね、売りましょ。」「さすがにまずいよ。総代に相談しないと。」と和尚を落ち着かせて、骨董屋には鑑定のため持ち帰ってもらうことにした。
私はこの小浜市に来てからは、直ぐに反原発運動にのめりこんでいた。それも共産党や社会党などの労働組合中心の市民の会ではなく、ごく普通の家庭の主婦を中心とした『原発を考える女の会』を結成した。機関誌を編集したり、集会を開いたりするのに寺を使っていた。和尚さんは共産党に入党して原水爆反対平和行進のアイドルをやっていたけれど、檀家にとっては痛くもかゆくもない存在だった。しかし、家族の中でも反対や推進でも口にすることすら憚れるこの地域では、私の活動の方が生活に影響する大問題だった。
西福寺の総代は「こんなに寺をきれいにしてもらって…。感謝しかない。私らがしっかりしていれば庵主さんのご実家まで迷惑をかけることもなかったのに、本当に申し訳ない。」と頭を下げていたのに…。
とんでもない怪文書が近在の家々から教区の時宗寺院にまで配られていたのだったー。
