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ぽたらか

ぽたらかは20年の歴史を閉じます

おたいらにー普通、『どうぞ足を崩して楽にしてください。』という意味だ。しかし。立席でも椅子席でもよく言う。法事や集会や人が集まった席で、既に足を投げ出している人々の前でも言うから、これ以上どう崩すの?と人は戸惑う。

 人は集まると反対意見賛成意見、他人に認めてもらいたい承認欲求、他人と比較をして優劣を競う。民主主義的に多数決を求めれば少数派が不服を言う。それを和尚さんは人との違いを理解し、公平で建設的な意見を忌憚なく話し合いましょう、という意味を込めて『お平らに。』と言っているらしい。

 お釈迦様は生まれてすぐにかどうかわからないが、『天上天下唯我独尊』(全ての命は個として尊い)と言われた。どんな命も平等である。仏教の大罪である殺生戒は、ただ単に生き物を殺すなという事ではなく、植物にだって命はある。あらゆる生命体は他の命を捕食しないと生存できないものである。だから、無駄に命を奪わないで、感謝して命を頂きなさい、とお釈迦様は仰っておられるのだ。それでないと、漁師や猟師、刑死人は未来永劫浮かばれないのかということになる。だから、仏教が伝来して差別思想が生まれた。それまでは穢れがあったら、祓いがあって神に許しを得ればよかった。

 和尚さんも少年時代に自ら望んで宗門に入ったが、やはり一遍聖絵の中の白装束の犬神人や鹿の皮を被る猟師の男たち、遊女らしき被差別民もが活き活きと描かれているのを見て、「なんとアナーキーな!」(当時そう思ったか知らないが)感動したのが、発心だったそうだ。

「そんな時宗がですよ。昭和28年に宗教法人法が出来て、それまでは宗祖の中で唯一諡号(〇〇大師とか)持っていないのは、一遍上人だけだったんです。それを宗門のばかどもが宮内庁に金を持って貰いに行ったんです。天皇という聖があるから穢が必要になる。一遍上人が女子も含む集団を引き連れて諸国を行脚するときに守ってくれた無数の異類の民のおかげがあるから、今日の時宗があるんです。天皇から頂く大師号なんか、あんた読むんじゃないですよ。」

「あたぼうだい!」そんなことも知らないで和尚さんの弟子が務まるかってんだ。

 私はこの後、入国管理局から仮放免になっている世界各地からきている難民の生活を見ることになるが、イスラム教徒が多いので彼らから話を聞くと、仏教に通ずるものが多くあり、違いを探すより共通するものを見つけることの方がずっと楽しい。ことにイスラム神秘主義(スーフィーイズム)は一遍の『捨ててこそ』に深く通じるところがあって、踊念仏とかひょっとして一遍上人は国家仏教の最高学府比叡山ではなく、大陸からの玄関口大宰府で修行したから、スーフィーに影響されたかなと思えば、楽しいではないか。

 一遍上人は臨終のとき、『わが屍は野にすててけだものにほどこすべき』とご遺言された。そのとき、従っていた時衆はちりじりに全国に散らばり、ある者は高野聖となり、ある者は足利幕府の同朋衆となって、華道茶道能などの日本文化の礎となったり、またある者たちは北陸では藤内とよばれる医者になる。だから、時宗という教団が今日残っているのが、そもそもおかしい。といって、和尚さんも私もそれがわかってて時宗に入ったのだ。時宗は浄土宗の僧侶だった二祖他阿上人が組織化したもの、だから宗祖は二祖上人のことを指し、一遍上人は開祖。

 しかし、この時宗に入ってみたからこそ、高田良幻という奇人と巡り合ったのだし。和尚さんも『善悪を論ぜず、信不信をえらばず、浄不浄をきらわず』といった徹底した自由平等思想の一遍上人の教えに合わなければ、只の変人だった。その土台があって大杉栄や岩佐作太郎の影響を受けて、和尚さんなりの無政府主義ができあがった。

 「お平らに」その言葉は他を認め合って、互いにリスペクトしあって平等な関係を保ちましょうという。イスラムの「アッサラーム」はこんにちはだけど「神の前に私たちは平等」という意味だそうだし。仏教では(民族宗教に関係なく)全ての命に仏になる種がある(仏性)があるとし、仏=神ではないから、対立することもないし。みんなそれぞれ違ったままで平等に。そう考えれば、イラっとはするけど、いい言葉かな。『お平らに』使ってみようとは思わないけれど。