腹の立つ人も | ぽたらか

ぽたらか

ぽたらかは20年の歴史を閉じます

(いくら張り紙したって、連中読まないし)

反社会性人格障害とも思える人間もいた。わざと放尿、脱糞する。片付けてシーツを交換した後にやるのだ。同じことをやるアルコールで脳が溶けるウェルニッケという病気があるが、それも二、三人いたが、それとも違う。あきらかに人の反応を見ている。

いつかは人に危害を加える、そんな男だった。たまりかねて、担当に電話をしたら、ぽたらかさんで無理な人は他では受け入れません。仕方ないので、追い出してください。

―つまり、路上に返せということ、これは路上に置いてくる他ない。「いくよ。」と、促すと「おう。」とあっけなく了承した。

時々、置いてきた場所にいって様子を見て無事でいることを確かめていた。あるとき、都内の大きな病院で車椅子を押している施設の職員らしい男性を何気なく見ていたら、その車椅子の老人がその置いてきた彼であることがわかった。すっかり、ボケて人相が変わっている。

どんな人間もボケれば同じ、こうなったら引き取り手はあるのだ。安心した。

自分から出て行ってくれた反社会性老人もいた。大騒ぎしたあげく、飛び出してくれたので、やれやれとシーツを片付けていたら、

「なにこれ?」思わず手を引っ込めた。

彼が寝ていた肩の部分におびただしく真っ黒い動物の毛が付着している。人間の体毛ではない、少なくとも彼のではない。

動物霊にでも憑かれていたのか?思えば彼が豹変するときには完全に目がいっちゃってた。こういう人も中にはいる。

霊的な話といえば、子泣き爺がいた。いや、水木しげるの子泣き爺そっくりのじいさんがいた。

ちょうどその時、自分たちでドキュメンタリーを撮ろうと、シナリオを考えていた。そこへ子泣き爺が入ってきた。あまりにも子泣き爺に似ているので名前が思い出せない。

腎不全のため、カリウムが全く摂取できない。手のかかる老人で、おまけに排泄全介助なのに介護認定が降りない。

しかも病気が言わせるのか、おそろしく口が悪い。私がおむつ交換をしていると、

「このくそばばあ、わしを裸にしてどうするつもりじゃ、このすけべ!」

 寒い時におむつ交換をしていると

「早くしろ、風邪をひくだろ。」

憎たらしい。しかし、シナリオには最後に

「ありがとう。」といって死ぬことになっていた。ところが、ついにめでたく入院した。

「もうあの男、受け入れないでください。」

退院前のカンファレンスにいく私に、みんなは懇願した。

 入院するときでさえ、

「このくそばばあは、わしを殺そうとしている。」と病院中響き渡る声でふれまわったじじいだ。あたりまえだ。はっきりと断ってやる。

開口一番、病院関係者にもううちでは受け入れられません、といった。

「そうですか、それは残念ですね。でも、今までこの人に今度はどこに帰るのって聞いても答えられなかったんですよ、他の宿泊所にいたときは。でも、今では嬉しそうにぽたらかっていうんです。びっくりしました。」

「ん……。」(いや、だめだめ。)

ワーカーまでも、追い討ちをかけて

「○○さん、若い時に両親とも失踪して幼い弟さん一人で養ってたんですよ。その弟さんが急死して、それからああいう人になってしまったようですね。」

「……、わかりました。」

 結局、子泣き爺を連れて帰る羽目になった。

 その後も子泣き爺は相変わらず、暴言を吐く。その二週間後、子泣き爺は死んだ。

 息をしていないので救急車を呼んだが、死亡が確認され、また警察が来てグダグダと。死んでまで迷惑かけるじじいだった。

 葬式を済ませ、初七日の頃、夜勤のスタッフが、

「明け方、子泣き爺が出てきたよ。黒い影だったんだけれど。頭をしきりに下げて行った。ありがとうっていいたかったんじゃないか。生きているうち言えって。」

 シナリオ通りには最後までいかなかった。その企画はお蔵入りになった。

 ぽたらかにくるようなのは元ヤクザといってもヤクザに利用されただけの男がほとんどだった。

 荒木さんは足が交差して伸びたまま、ピョコタンピョコタン飛んで歩く。

 なんでも当たり屋をしていたらしくて、そのあがりはみな組織の懐に入るから、本人はこういう体になってもホームレスをして生きていかなくてはいけない。

 ぽたらかの家庭料理をうめえなあ、うめえなあとそれはおいしそうに平らげていた。

 車ではねられて目の前に自分の血が川のように流れていくのに、人はそれを跨いでどけていくだけ、だれも救急車さえ呼ぼうとしてくれない。「こわいぜー、東京って。」

 でも、そんな彼をまだ使おうとするやくざもこわい。ある日、兄(あに)さんという男が来たらしく、ついていったまま帰ってこない。

 そして何年か経って、茨城の病院から

「荒木岩男さんて人、ご存知ですか。ご危篤なのですが、お宅のパンフレットを持っていたので連絡差し上げました。」

と、連絡が入った。とにかく病院に行ってみた。

 連絡してくれた病院の事務長さんは

「もうダメかと思っていたのですが、今朝ほど奇跡的に意識が戻りまして。」

と喜んでくれていた。荒木さんは私の顔をみると涙を流して、

「ポタポタポタ……。」

「ぽたらか帰りたいってか。」

脳梗塞を起こしているんだろう、言葉がでないが、言おうとしていることはわかる。

「帰りなさい。もうあにさんの後をついていくんじゃないよ。退院できるようになったらまた迎えにくるから。」

そう言って彼と別れたのに、一向に知らせもなかった。また病院に電話をすると、荒木さんは留置場で倒れたので、意識が回復したらまた留置場に逆戻りしたそうだ。

 なんでも、軽微な窃盗だそうで……。そりゃ、あの足でピョコタン、ピョコタン歩いて、銀行強盗は無理だろう。コンビニでもまず店内で捕まる。

 あの兄さんというのに何かまた利用されたのに違いない。

その後、また一年ほどして警察病院から、荒木さんという男が退院したら、そちらに行きたいと言っているが、受け入れ可能かと聞いてきた。もちろんいつでもOKだと答えたが未だに帰ってこない。またなにかやらされたのか。

日朝さんという人は、すごい大男で、多発性脳梗塞と糖尿病で、最初のうちは歩くことができていた。うちとは違い、要介護者のいない宿泊所からきたので、一人しかいない施設長兼賄いスタッフが彼のおむつを交換していたと言う。

 それは大変だったと思う。それで給料十三万円じゃ、やってやれるかよ!ってぶち切れて当たり前だ。

 もちろんぽたらかだって、給料は驚くほど低い。ただ、ヘルパー2級の資格をみんな持っているので、入寮者の一部の介護をすることによって副収入が入ってくる。それでなければやってはいけない。無料低額宿泊所そのものがそういう性格だからである。

 日朝さんは糖尿のせいか、大変な量のおしっこをお漏らしする。二段ベッドの上に寝ていたら、『あ、雨だ。』と下の段の者が飛び起きる。やがては歩けなくなり、一階の介護ベッドへ寝かせたが、訪問入浴の浴槽では、ベッド間が狭くて入らない。そこでアパートを借り上げて入れた。

バスケットボールの社会人選手だったらしい。サウジアラビアにもいったことがある、何かのプラントで──色々と話してくれた。

 でもまもなく、全く発語することも食事を咀嚼することもできなくなった。

 入院して胃瘻になり、人工栄養になった。退院したら痰の吸引もしなければいけない。ヘルパーはそういう医療行為はできないので、うちでは退院してからの受け入れは無理だろうと誰もが思った。

 しかし、文字盤でのみ、意志を疎通する方法がなくなった日朝さんはどうしてもぽたらかに帰りたいと訴えた。

 家族しかできないが家政婦だって、痰の吸引ができる。家族のない、家政婦が雇えないものはどうすればいいんだ。

 ここは介護施設じゃない。みんなの家なんだ。スタッフは家族なんだ。

 東京都生活福祉局に直訴した。本人の承諾のもとに、医者の指導を受けて私たちが日朝さんの痰の吸引をやる。―ことを条件にあくまで暫定的に許可が出た。

『社会的退院の受け皿を第二種社会福祉事業宿泊所が担っている現実をなんとかしなければいけませんね。』

 という、担当者の意見が添えてあった。

 日朝さんは医者の立会のもとに私たちに痰の吸引をお願いする、と文字盤で意志を表示した。それで、いよいよ退院し、ぽたらかに帰れるとわかったとき、笑いが止まらなくなった。そんなにいいのかなあ、こんなむさい連中より若い看護士さんに囲まれている方がよっぽどいいだろうにと思う。

 日朝さんの痰の吸引は日に三度、ベッドからはみ出す大男の体位交換もしなければいけない。肉体的になかなかきつかったが、約半年間続けて、日朝さんの体調もこれ以上、在宅は無理ということになり、都外の療養型病院に入院した。死ぬ迄『ぽ・た・ら・か』と文字盤を指していたらしい。

 最近はボロ雑巾の塊のような人は少なくなった。まる子ちゃんという全盲のおばあちゃんくらいか。

 一応、女性なので髪を結っているつもりなのか。一見、帽子に見える。髪というものはほっておくと、フェルト状の板になる。私はしゃれたベレー帽かと思った。

指の爪も水虫になると厚さが五センチにも成長し、何か別の物体になることをご存知だろうか。

 バリカンや爪切りが役に立つうちは可愛いもので、のこぎり、ペンチ、裁ちばさみ、家でも建てるのかという道具がいる。

 橋の下から連れてこられた秋田さんはそこまでではなかった。おそらく、案外、おしゃれな人だったのだろう。

 食器洗剤を頭にふりかけて泡だらけになったかと思うと、くしゃみをして出てきた鼻水をこれまた、頭に塗る。

おそらく、卵の殻にくっついた白身がもったいなくて、ポマードがわりに髪につけたのが、始まりだったかもしれない。整髪料なんて貧しくて買えなかったから。ねばったものは、なんでも頭につけるという、悲しい習性。

 いつの頃から、橋の下にいたかは記憶が定かではない。昔は会社の寮にいた。その内、会社が潰れて、仕事と住むところをなくした。  

安アパートに入ったこともあるけれど、すぐに家賃が払えなくて、それから……?

 それから、記憶がなくなった。認知症が始まったらしい。親は早くに亡くなった。兄妹は東京に出てきてから、連絡は取っていない。

「会えるものなら、会いたい……。」

 これだけははっきりと言った。

 戸籍はわかるので、役所の方から兄妹へは本人確認の連絡がいっているはずである。

 兄妹といってもそれぞれ家族もあるだろう。

経済的な援助をしなければいけないのか、色々考えてしまうのだ。

 秋田さんだけではなく、ただ、一目生きているうちに家族に会いたいだけなのに、本籍地を頼りに手紙を出しても、返事のこない人がほとんどである。