今回気づいたブログ機能に「複製」てのがあって、前回(1月)は無かった気が……(「編集」「削除」の二つだけだったような)

 

これは、なかなか便利(゚¢゚ )。

ホムペ(自サイト「戦国放題こたつ城」)からコピペしてるんだけど、使用タグがアメブロと一致しないから、html表示でいじりながらの作成になって、面倒だし時間も無いので、遠のきがちなんですね~。

 

基本は同じような文字列の使いまわしに過ぎず、内容だけ変える事が多いんで、前の複製を使えると助かる(^o^)。

 

さて、1月から書いてないんだ(゚.゚)。これも驚きますわ~。

今年は忙しかったんで、ホムペの更新も多くないけど、一応それでも日頃は「戦国放題こたつ城」におります(^^ゞ。<宜しゅう♪

 

今回も前回同様、「城主のたわごと」(「戦国放題こたつ城」→「城主のたわごと」)をいってみま~す♪

2015年11月号、の続きから(^o^)。

 

まず、本題ひきつぎ↓

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「足利」という地名から、普通そこに何があると思うだろう?
足利に旅行……それも史跡をメインに旅行するとしたら、どんな所を見て、どんな旅になると想像しますか?(笑)


今回の旅はこの問いそのものがメインテーマだった気がする(笑)。
その事を含めて、すごく有意義な旅行だったと思う。

 

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次に、前回は「足利学校」から始まったが、足利学校の創立という観点から、話が中興の祖の上杉憲実の方に行って、それは完結できたけど、足利学校じたいの話が脇道に逸れがちだった(^_^;)。

 

ただこの件は、前回も述べた通り、現在に継続されている足利学校というのは、かつての姿から遠いため、前回書いた話の方が「足利学校」と題するに相応しかった気がする(^_^;)。

 

特に、「老荘の学」が儒教などと同等に学科に入っていた点が重要だった。

 

そこから、その後の戦国期の需要に応じて、占筮・兵学・医学なども隆盛したり、やがて徳川幕府による保護で史跡保存はされたが、統制も受けて、徳川幕府(歴代将軍)ご用足しの場みたくなった(^_^;)。

 

そういうわけで、色々あった学問の中で、儒教の色合いのみ残ったような感じがする。。

 

↑このように断ったうえで、前回は省略した事も少し触れて、次に移りたい(^_^A)

 



<「足利学校」①、外観~「入徳門」~「稲荷社」>
 

~中略~


この足利学校に入ってきた時に、受付(売店)で扱っていた書籍には、論語など孔子関係の物が多かったし、訪れる人も、そうした本をドンドン買っていくのを見て驚いた!

「僕はこれ何冊買ったよ」
と言ってる人もいて、付近の古本屋にも、孔子関連の書籍のポスターなどが多く貼られていたし、「この土地にとって、孔子にまつわる物を見たり買ったりするのは、一種の信仰となりえているんだな~」という感想を持った。

この件は、後に「釈奠」(せきてん)について書くときにも触れよう。
 

~中略~

 



<「足利学校」④、「方丈・庫裡・中庭・北庭」> 

 

~中略~

 

一つだけ、この足利学校に今も続く儀式だけご紹介したい。

儀式名は「釈奠」。
江戸時代、1668年に建立された大成殿(孔子廟)で、孔子を祀る儀式が行われた。大正期に復興し、今に継続されている。
 

~中略~

 

「釈奠」(せきてん)は、孔子の他、その高弟の顔子・曽子・子思子・孟子も祀る。

先ほど、学校門付近の孔子像の所で、孔子への祀りが土地の信仰なりえている事を書いた。

前回の最後、ホテルの温泉で居合わせた中国の方が、「ここに何度も来ています」と、感慨をこめるように言われていたのも、孔子廟とこうした祀りに理由があるのかな~と思った。
 



<「足利学校」⑤、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>

 

~中略~

(「宥座之器(ゆうざのき)」「欹器図(ききず)」「衆寮」「僧房(学生寮)」「サエンバ(菜園場)」「木小屋」など、全般的に略します)

 

さきほど、途中まで出した説明版の続きを提示しよう。
 

そして、応仁元年(1467)大名長尾景人が、学校を現在の地に移建した。(←この後ね(^^ゞ↓)

漢学・儒学・経学・易学・占卜・医学・兵学などが講ぜられ、再興世代の庠主(校長)九華のころは、学徒三千人といわれ、フランシスコ・ザビエルは、『日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学』といい、『四方より攻学の徒雲集す』と、耶蘇会に報告している。
江戸時代にも、学燈は受けつがれ、刀剣などもうたれ、文人、学者の来訪はしげく、古書、珍籍の秘庫として、遠く、中国にもしられた。
現在、入徳門、中門(学校門)、杏壇門聖廟、などがのこり、字降松歴代庠主の墓石もあるが、明治初年までは東小学校の敷地に書院、御祈祷殿、寮舎、文庫、倉庫、庭園、裏門があり、東西約135、南北約120メートルの長方形状に土塁をもって全体を囲繞していた。いま足利学校遺蹟図書館には、宋刊本『文選』・『尚書正義」など、国宝、重要文化財指定の書籍をはじめ、和漢の書1万3千余冊を蔵し、毎年晩秋の一日、儒祖孔子を祭る釈奠の儀式が行われている。


上杉憲実は、享徳の乱の最中の1466年、長門国の大寧寺で亡くなった。
その翌年(1467)、京でも応仁の乱が起こったため、京とその周辺は戦乱による疲弊で大荒廃し、貴族らは居場所を求めて畿内を離れ、地方大名を頼るなどした。

京にとっては不幸だった反面、貴族らの身を寄せた地方では、彼らを取り巻く文化の残り香が後世にまで影響した。
坂東の足利学校にも実に全国から多くの学徒が集った。隆盛を極めた一要素に、こうした影響はあろう。
(2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内←2015/11/11後追リンク)

 

 

戦国期の足利学校は、時代の要請に沿って、占筮・兵学・医学が盛んになった。
1549年に来日したザビエルも、その14年後に訪れたフロイスも、足利学校を日本有数の大学機関と認め、キリスト教伝道における最大のライバルであるかの如く報告している(笑)。

『甲陽軍鑑』では武田信玄が、家臣・長坂長閑に「徳ごん」なる占筮師を推挙されて、「占いは足利にて伝授か」と問い、足利学校の出身でない事が判明すると、徳ごんを退け、長坂長閑を厳しくたしなめたという。

足利学校は、九世の庠主・閑室元佶三要・1548~1612)の頃が最盛期だったが、小田原征伐(1590年)以後は、北条氏足利氏の滅亡により保護者を失い、豊臣秀次に宝物や書籍を召し上げられ、上洛させられた。
1595年に秀次が高野山で自刃すると、閑室元佶は1597年から徳川家康に従い、その側近として重んじられ、寺社政策なども任された。関ヶ原合戦では陣中でを立てたという。

しかし儒教は、藤原惺窩林羅山の江戸朱子学が幕府公認となってゆき、足利学校は、日本最古の学校として幕府に保障されたものの、内実は名所旧跡の保護に落ち着くのみとなった。

 

庠主(校長)も幕府による任命制となり、寺社奉行の支配下に置かれて、学問や組織運営は、幕府の文教政策の下で制限を受けた。
幕府の宗教政策は、寺院での仏教学以外の研究や学習は認めず、足利学校の五山文学的な特色、特に禅僧による学問や、私立大学的な中世学問の性格は大きく後退した。

 

1868年、足利藩主・戸田忠行は官軍に恭順の意を示すと、足利学校の復興を願い出た。藩校を学校内に置き、役員をまわして蔵書の寄進を行った。
が、1871年の廃藩置県で戸田の藩知事は廃され、足利学校は廃止。1873年には敷地の半分が小学校となり、藩校も校舎に転用、書庫の蔵書は役場に移して放置された。

蔵書の返還は1876年に実現。足利藩士・田崎草雲らの運動があったと言い伝えられる。
以後、地元の有志の募金活動などにより、残された聖廟(孔子廟)や門の修繕が行われ、1915年、ようやくこの遺蹟図書館が出来た。明治以後、廃止されていた釈奠も、この期に毎年継続的に復興されるようになった。

1921年には史跡の指定を受け、戦後は、1965年、文化財愛護モデル地区に、関東では鎌倉市とともに第一回の指定を受ける。
1982年、敷地の半分を占めていた小学校が移転したのを機に、保存整備事業の発掘調査が行われ、1985年から外構工事、1988年からは復原建物に着工、1990年に復原の全てが完了した。

以上、関連事項は(2015/11/11後追リンク)
2008年7月「千葉県の動乱」vol2
2013年6月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>内以降
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降
2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内以降
2015年5月<古河総合公園①「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降
2015年9月<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>以降

 



<門前通り> 

 

~中略~


いよいよ鑁阿寺の前まで来て、ふと左を見ると、「足利尊氏の銅像が立ってて、思わず「おおっ!」と言ってしまった(笑)。

これは現地における表現が興味深かろうと思うので、そのまま出す(笑)↓

 

足利尊氏公
西暦1305年~1358年
八幡太郎源義家の流れをくむ源姓足利氏は、永く当地足利の領主として、また鎌倉幕府にあっては、将軍に次ぐ武家の名門としての地位を得ていたのである。
ここに当地ゆかりの足利氏を顕彰し、過ぎし昔をしのぶよすがとするため、歴代の中で室町幕府の創設者として最も名声の高い尊氏公を選び、束帯姿の像を建立するものである。
尊氏公は、天性慈悲深く、人を憎まず、和歌や書画などにも通じ、また幕府十五代にわたる基礎を築いた偉大な政治家であった。
この像は、「ふるさと足利づくり事業」として平成元年に国から交付された資金を活用し、市民から募集したアイデアをもとに尊氏公の事績を永く後世につたえようと建立したものである。
なお、この像は本市出身で日展会員の中村宏光生の制作による。
平成3年3月   足利市


上記の文はとてもよく出来た紹介文だと思う。(ちなみに平成3年(1991)は、NHK大河ドラマ太平記」の年(笑))

ここで、今回の冒頭に立ち戻って、もう一度。

「足利」という地名から、普通そこに何があると思うだろう?
足利に旅行……それも史跡をメインに旅行するとしたら、どんな所を見て、どんな旅になると想像しますか?(笑)


日本で幕府といえば、鎌倉幕府・室町(足利)幕府・江戸(徳川)幕府の三府である。
鎌倉にいけば、頼朝北条政子を発起とした後継者たちの遺跡が多く、御家人たちの名も多く見かける。

東京とその周辺になると、古代から戦国期までの史跡や逸話は殆ど見聞きせぬのに、江戸時代の痕跡は無尽蔵に溢れているし、その頂点たる徳川松平の名を冠した人物名となると、ゲップが出る程よく見る(笑)。

だから足利と言えば、室町時代を創設した足利幕府が真っ先に浮かぶのが当然だと思う。

私も行ってみる迄、正直どんな所かは想像がつかなかった(笑)。しかし漠然と、「太平記とか?」というイメージがやはりあった。

それは前に新田に行ってみて、新田義貞の新田氏の史跡があちこちにあった点から想像した面もあった。
足利に「太平記館」なる建物が出来た話を聞いたから、というのもある。 *宣伝効果(笑)*

南北朝の名場面から、「足利尊氏の故郷」と思ってるのもある。
特に、大河ドラマ「太平記」では、その幼少期から始まり、成人して足利氏の惣領となり、都に挙兵するまでの間、主人公を生み育んだ土地として“存在”する。

子供の尊氏は、まだ少年の新田義貞と出会って憎まれ口を叩かれたり、子供同士で菩薩像かなんかの所在を確認しに、洞窟を冒険するシーンが確かあって、局部的に足利の里が出て来たような気がする。

しかし実際の舞台としては、太平記に足利の里ってどれぐらい出て来るだろう?
大河ドラマの尊氏もその一家も、よく思い出すと、鎌倉にばかりいた気もする(笑)。
その後の将軍幕府(宗家)は京に行ったまま帰ってこない。よく考えたら、肝心の幕府の名が、そもそも「京の室町」から来ている(笑)。

片や、この足利の地にとって、尊氏の系譜すなわち源姓足利氏の前に、藤姓足利氏が領した時期も短くない。(両氏は共存してた時期も長い)

以上の通り、結論から言うと、足利に足利尊氏に縁の深い場所はあまり無い気がする(^_^;)。

しかし、では足利尊氏いがいの足利氏って、普通の人は何人ぐらい知ってるだろう?
普通の人が尊氏しか知らないのは当然としても、じゃあ歴史に詳しい人なら、どうだろう?

それと尊氏という人は、足利氏にとって、「中興」ぐらいに位置する↓

(八幡太郎)
 源義家┬義親-為義(源)┬義朝-頼朝-┬頼家
      |           └義賢(木曽)  └実朝
      ├義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川)
      |   └義康(足利)┬義清……(仁木・細川)
      ├義時……(石川)  └義兼┬義純(畠山)
      └義隆(森・岩槻)       └義氏(足利)┬長氏(吉良・今川)
                                 └泰氏(足利)┬家氏(斯波・最上)
                                          ├義顕(渋川)
                                          ├頼茂(石塔)
                                          ├公深(一色)
                                          └頼氏(足利)-家時┐
 ┌------------------------------------┘
 └貞氏┬尊氏①┬義詮②-義満③┬義持④-義量⑤
      └直義  |           └義教⑥┬義勝⑦
            |                 ├義政⑧-義尚⑨
            |                 ├義視-義植(義材・義尹)⑩
            |                 └政知┬茶々丸         ┌義輝⑬
            |                     └義澄⑪--┬義晴⑫┴義昭⑮
            └基氏(鎌倉公方)-氏満-満兼┬持氏┬義久  └義維-義栄⑭
                                 └持仲├春王
                                     ├安王
                                     └成氏(古河公方)-政氏┐
 ┌-----------------------------------┘
 ├高基-晴氏-義氏=(喜連川)国朝(養子)←┐
 └義明(小弓公方)-頼純-国朝------┘

ちょうど歴史の中間に位置する点をもってしても、歴代から尊氏を代表として立たせる意義は小さくないと思う。

 

~中略~

 



<鑁阿寺>

 

↑境内に掲げられる案内板には、鑁阿寺の前身である「足利氏宅」について、
「平安時代後期、源氏の祖、八幡太郎源義家の子義国、その子足利義康(足利氏祖)の二代にわたって堀と土手を築いて邸宅としました」
と紹介されている。

義家はもういいよね(^_^;)。。<いっぱいになるから(笑)

義国は「鬼足利」といわれたそうで、長兄の義宗が早世、次兄の義親(頼朝の曽祖父)が討伐され、弟(四男)の義忠は暗殺という中で、三男・義国が義家の後を継ぐべきところ、義親の子の為義(頼朝の祖父)が相続したので、内心に憤悶を持ってはいたという。

 
義国については、
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内
2014年8月<「花園神社」③本殿>◆義光④、結局地元(身内)の抗争に身を投じるの段(^_^;)◆内

などにも書いた(^^ゞ。

特に、2014年8月にも書いた通り↓

この「義国」だが……、「常陸合戦」と、「藤原実能邸、焼き打ち事件」を並べて、「粗暴」「勅勘を被った」と表現されがちだが、記述の誤りがない限り、「常陸合戦」は1106年、「藤原実能邸の焼き打ち」は1150年、間に44年も開きがある(^_^;)。

wikiで見る生年(1091年)を信じると、常陸合戦は義国15歳、焼き打ち事件は59歳。
少年時代と老齢期の騒動に連続性を感じるには無理がある(^_^;)。
が、在地に根を置く根拠として、中央政府との齟齬があるという事なら、共通性はあると言えよう。


足利市のお隣、太田市(群馬県)の新田氏の郷には、この義国を祀る「義国神社」(地図)がある。
義国の長男・義重は、新田氏の祖である。
義国は晩年、新田に進出して没したとする話も散見する。

一方、義国の次男、足利義康は、足利庄を父・義国から相続し、鳥羽法皇に寄進の末、安楽寺領の荘官となり、やがてこれは八条院領になる。
(2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内・2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内以降←2015/11/11後追リンク)

(八幡太郎)
 源義家┬義親-為義(源)┬義朝-頼朝-┬頼家
      |           └義賢(木曽)  └実朝
      ├義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川)
      |   └義康(足利)┬義清……(仁木・細川)
      ├義時……(石川)  └義兼┬義純(畠山)
      └義隆(森・岩槻)       └義氏(足利)┬長氏(吉良・今川)
                                 └泰氏(足利)┬家氏(斯波・最上)
                                          ├義顕(渋川)
                                          ├頼茂(石塔)
                                          ├公深(一色)
                                          └頼氏(足利)-家時┐
 ┌------------------------------------┘
 └貞氏-尊氏

 

実は、ここ鑁阿寺にも、御霊屋(赤御堂)に義国足利義康のものと伝わる二基の墓があるようだが、これが誰のものかはハッキリしないらしい。
こうして源姓足利氏初代となった義康は、源義朝(頼朝の父)の妻(頼朝の生母)の妹(熱田大宮司秀範の娘)を娶って、1154年に、二代・義兼を得る。
だから頼朝と義兼は母系の従兄弟なんだね(^^)。

そして義康は、義朝とともに保元の乱(1156年)を勝ち残ったものの、翌年(1157年)に31歳の若さで没した。

イキナリ私見で恐縮だけど、時代背景と足利市の寺を把握しやすいので言うと、私は足利市にある三つの寺が、岩手県の平泉にある奥州藤原三代三つの寺に相当すると見ている。

 

 
奥州藤原氏(平泉)
源姓足利氏(足利)
1代目
清衡 中尊寺 義康 鑁阿寺
2代目
基衡 毛越寺 義兼 樺崎寺
3代目
秀衡 無量光院 義氏 法楽寺


(2010年2月<中尊寺・参道、1(八幡堂)>・同3月<中尊寺・参道、2(総門~本堂~讃衡蔵)>以降
同5月<「毛越寺」①、表門~南大門跡>以降
<えさし藤原の郷・⑥「伽羅御所」、1>内・同6月<無量光院跡>以上2015/11/11後追リンク)


ちなみに、初代・義康は、奥州藤原氏3代・秀衡とほぼ同世代。
奥州藤原氏の三寺は、建立した人の代と寺の関係づけが取れているのに対し、源姓足利氏の三寺は、義兼(2代目)に至って立案したようだ。

でもまぁ両氏とも、意図する点は似たようなモンだと思う(^。^)。
「平泉の浄土庭園つき三寺みたいのを自分の所でも建てたい」←これだよね(笑)。
今はもう無いけど、鎌倉の頼朝政権も似たような寺を建ててるから、当時の武家社会の間で、「平泉しようぜ!\(^O^)/」は、一種のブームだったんだと思ってる。


そんなわけで、義兼が父・義康のために建てたのがここ鑁阿寺地図)、その義兼がその後に建て、自分を埋葬させたのが樺崎寺地図)、これはこのツアーの最後に行った。
そしてその子・義氏の墓所が法楽寺地図)で、これは次回にはレポできそう。
この三つの寺には、かつては浄土庭園があったといわれている。

以上、イキナり私見でスイマセンでした。(でもちょっと把握しやすくなったかな(^^))

 

~中略~


ここ鑁阿寺の建立は、二代・足利義兼によるもので、案内板には、
足利義兼(尊氏より七代前)が、鎌倉時代初期(1190年代)邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗・金剛山・鑁阿寺を設立しました」と時代が続く。

ちょうど平安末~鎌倉初期にかけて、邸から寺へと変貌を遂げたわけだ。


義兼は、頼朝が鎌倉に幕府を構えると、早くから信任を受け、頼朝の妻・北条政子の妹・時子北条時政の娘)を妻に迎えて、三代・義氏を得る。
よって義兼は頼朝従兄弟であるとともに相婿にもなり、義氏になると、祖母と母の二代を通して、義朝・頼朝父子と親戚の誼を持ち続ける間柄となっただけでなく、その後の実力者・北条氏とも親戚になっていたのだ。

(義兼の妻で、義氏の生母・北条時子については、ちょっと後にまた触れる(^^ゞ)

 

~中略~


そしていよいよ本堂にお参り(^^)。
大御堂」は、建久7年(1196)に足利義兼が建立。正安元年(1299)再建。本尊は大日如来
明治41年(1908)と平成25年(2013)、国宝に指定。創建以来、これまで一度も火災にあわず、多数の重要文化財を蔵している。
「中御堂」は「不動堂」で、寺伝によれば、足利義兼の創建、文禄元年(1592年)生実御所国朝の再修……と書かれてあるが、小弓公方義明の嫡孫・足利(喜連川)国朝のことだろう(^^ゞ。
国朝は古河公方五代・義氏の娘・氏姫と婚姻したが、姫に先んじて死去し、弟の頼氏が氏姫と婚姻して、嫡子・義親をもうけ、喜連川藩の初代となった。
(「千葉県の動乱」vol2<北条氏の終焉(~1590)>・2015年5月<古河総合公園⑤「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>内←2015/11/11後追リンク)

 └貞氏┬尊氏①┬義詮②-義満③┬義持④-義量⑤
      └直義  |           └義教⑥┬義勝⑦
            |                 ├義政⑧-義尚⑨
            |                 ├義視-義植(義材・義尹)⑩
            |                 └政知┬茶々丸         ┌義輝⑬
            |                     └義澄⑪--┬義晴⑫┴義昭⑮
            └基氏(鎌倉公方)-氏満-満兼┬持氏┬義久  └義維-義栄⑭
                                 └持仲├春王
                                     ├安王
                                     └成氏(古河公方)-政氏┐
 ┌-----------------------------------┘
 ├高基-晴氏-義氏=(喜連川)国朝(養子)←┐
 └義明(小弓公方)-頼純-国朝------┘

こちらの本尊は、千葉県の成田山から、興教大師の作と伝わる不動明王を勧請した。
堂の右側に、800年前に足利氏が居住し、使用した古井戸の跡があるそうだ(゚.゚)。
本堂が国宝に指定されるまでは、この不動堂と廊下でつながって、「四度加行の護摩法の道場」として使用されていた。商売繁昌と、酉年の守本尊の祈念がされる。

お次が「経堂」↓で、現在の建物は、応永14年(1407)、鎌倉公方3代・足利満兼により再建↓
……これもここには、「関東管領」と書かれてあるが(^^ゞ、鎌倉公方はよく「関東管領」とも書かれるんだよね(ややこしいよね(^_^;))。
「経堂」は、二代・義兼妻の供養のため、一切経会を修する道場として創建したといわれ、一切経二千余巻が収められている。
昭和11~12年(1936~37)に解体修理、と平成16~17(2004~05)年に屋根修繕。

義兼の妻といえば、北条政子の妹・時子の事かと思うが、実は時子に関しては、「自害した」という伝説が残されてて、それが右の「蛭子(ひるこ)」の由緒となる。

蛭子堂は「時姫堂」とも称し、時子の法名をとって、「智願寺殿」ともいわれる。
案内板には、「(時子の自害)にまつわる逆さ藤天神足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は足利七不思議の伝説の中の白眉の物語」とだけ紹介され、「栗のいがより栗が軽くもげる」ように妊婦の安産に効能があると謳い、本尊の蛭子女尊が「手に栗のいがを持つ」と紹介されているのみである。

……(^_^;)、気になったので当然、検索した、m(。。)m<カチャカチャ

法玄寺の歴史・開山の由緒」(@「浄土宗・法玄寺」より)

この逸話には多岐の異伝もあるらしいが、井戸水を飲んだ時子の腹部が膨らみ、讒言によって妊娠・不義密通を疑われる(・・;)。潔白を示すために死後解剖を頼んで自害。解剖の結果、大量の蛭が腹部より出て来た(*o*)、というのが概要のようだ。

案内板にある「足利又太郎」というのは、藤姓足利忠綱であるらしいが、これが時子の密通相手として討ち果たされる、とする話もあるようだ(^_^;)。。
(2013年1月<東北道~北関東道>内←2015/11/11後追リンク)

「蛭子堂」は平成5年(1993)解体修理。
永享4年(1432)、公文所奉行の再建といわれているが、現存の棟札では宝暦2年(1752)、22世・満慶の時の再修で、42世・忍空の時に、宝物は他へ移して、足利家に伝来の大黒天を祀った。
昭和55年(1980)、半解体修理。

鑁阿寺にも、鎌倉公方府による再修の経歴(1407年・経堂、1432年・校倉、1592年・中御堂)が伝わっている点は興味深い。

ところで一個前に触れた北条時子の逸話は、何とも奇妙な伝説だよね(^_^;)。。
だいたいこういうのは、保食神の神話か信仰と関係あるんだろうけど、個人的にはこの話を聞いて、何となく二つのエピソード(二人の女性)を思い出した。

一人は史実の人で、藤原宮子(聖武天皇生母)。藤原氏初の天皇生母である。
藤原氏は、聖武・孝謙(称徳)へと、2代続けて藤原不比等の娘から天皇を生ませたが、宮子は聖武を生んだ後、重い鬱病を病んだことで知られる。

時子の生んだ義兼の嫡子・義氏も、また北条氏から妻を迎えている。北条泰時の娘である。
北条氏は時の政権中の最高実力者であり、足利氏も元は将軍と同じ清和源氏で、頼朝の血筋が絶えた後は、将軍候補格と言えた。
その両家の結婚で、初めに嫁いだ方の女性に悲劇が訪れている点、夫の家が仏道にのめった点などがそう思わせる。

もう一つは、丸きりフィクションだが、大河『北条時宗』で、安達泰盛の妻・梨子が、平頼綱と密通したと言いだす回を思い出した(^_^;)。
真相は、梨子の兄・長時を暗殺した下手人が頼綱で、その暗殺を指示したのが夫・泰盛であったため、梨子が二人に復讐を仕掛けた(戦わせようとした)もの。

無論ドラマ上のフィクションと受け止めつつ、私はしつこく「元ネタは何だろう(^_^;)、似たような伝承があるのでは」と思ってた(笑)。
他にも、金沢実時の妻が離縁を苦にして自害するシーンが確かあった。
蛭子伝説のような、幾つか複数の伝説を束ねたり分けたりして作られたエピなのかもね(^^)。

以上、関連事項は、(2015/11/11後追リンク)
2008年7月「千葉県の動乱」vol2
2010年2月<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内
   〃   <中尊寺・参道、1(八幡堂)>
2010年3月<中尊寺・参道、2(総門~本堂~讃衡蔵)>以降
2010年5月<「毛越寺」①、表門~南大門跡>以降
   〃   <えさし藤原の郷・⑥「伽羅御所」、1>内<無量光院跡>
2013年1月<東北道~北関東道>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内
2014年8月<「花園神社」③本殿>◆義光④、結局地元(身内)の抗争に身を投じるの段(^_^;)◆内
2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内以降
2015年5月<古河総合公園⑤「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>内

 



今回はここまで(^^ゞ。
鑁阿寺はまだ残りがあるので、次回はこの続きから始めたい。

今回大きく目算がズレてしまい、次回の予告をする自信がないが(^_^;)、旅程だけ書いておく。

鑁阿寺の後は、太平記館、勧農城跡、長林寺、法楽寺、心通院、樺崎寺跡と行った。
 

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以上です~。(今回は字数に引っ掛からなかった~(^_^A))

この続きも、また折を見て載せたいと思います!