長谷寺・古河公方館(鴻巣館)跡①@「城主のたわごと」2015-05② | 平将門・千葉常胤・古河公方

平将門・千葉常胤・古河公方

↑しばらくこれで行ってみようか(笑)
(旧「ぽたこのブログ」←ドエライ違いだがっ!!)
放置の多いブログです(^_^;)。通常は本拠「こたつ城」におります。HPです。アドレスはプロフでご覧下さい。
(ここしばらく消えてましたが、今また書き加えました)

今回のを下書き中、お庭に来てくれたピグ友さんが、ブログの応援してくれたの(^O^)!
ありがとう!とっても嬉しかったデス♪
「こたつ城」以前よりの方は勿論、アメーバに進出してから、ピグで会う方、ブログで知り合った方にも見て頂けるようになってきて、大変感謝しております。m(__)m<ガバッ

てわけで、続き(^^ゞ
いよいよ「古河公方館(鴻巣館)跡」。

今回も~中略~がいっぱい入るんで、元ソースはこちら→「城主のたわごと(2015-05)
(ちなみに、ホムペのトップページは→「戦国放題こたつ城」です)

尚、写真は面倒ッチイんで、今は省略するけど、後日チョイチョイ追加計上するかもしれんです(せんかったらスンマヘン(^_^;))。(↑元ソースでは写真いっぱいだから良かったら見てネ)

あと、そうそう、いつもなら、過去にあげたデータをリンク貼るんですが、本サイト「今週のご挨拶とお知らせ」および「城主のたわごと」本文ではお断りの通り、現在パソ乗り換え中にて、関連リンク貼りが遅れております。
元ソース(城主のたわごと)の方は、後から追い付いて貼ると思いますが、ブログは一度出したら出しっぱなしなので(^_^;)、今貼ってある限りにて、後日追加のリンク貼りはしないと思います(スイマセン)。



<「長谷寺」(長谷観音)>

~中略~(^。^)

古河とその周辺の寺社で、古河公方に関係するものは、

①古河公方が来る前からあった寺社
②古河公方が古河に移った際、ともに鎌倉から来た寺(鎌倉から勧請してきた社)
③古河公方によって開基された寺

この三つがあると思うが、今、注目するのはで、長谷寺も該当する(^_^A)。


~中略~(^。^)

成氏は1497年に亡くなったので、明応年間(1492~1500)と言えば、最晩年と言えるだろう。
また、成氏が古河に来たのは1455年であるから、それまでの37~42年間、長谷寺は、依然として鎌倉に在った……という事になる。
(ちなみに現在も鎌倉に「長谷寺」はあるが、今いうのは、「古河に来なかった」の意味ね(^^ゞ)


~中略~(^。^)

鎌倉から古河に来た寺社の話は、↓この後も続きます)


<古河総合公園①「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>

~中略~(^。^)

「この地にも館を設けたという」といった、まどろっこしい書き方になるのは、この「古河公方館」が、古河公方初代・足利成氏が、先ほどの「古河城」を本拠と定めて住む前に住んだ、とは推測できるものの、古河城が代々の古河公方が住んだ事がハッキリしてるのに対し、この「古河公方館」は、その後どう使用されたかわからないからだろう。

そもそも古河城と古河公方館跡は、それぞれ独立した城なのか、或いは両城が一繋がりだったのか……。
先ほどの「古河城」跡の歴史博物館あたり(地図)と、ここ「古河公方館跡」(地図)は、距離にして、だいたい1.5キロぐらい、博物館は東にせり出した出城(諏訪曲輪)跡だから、南端部にあった城域からだと、1キロぐらいか……。

繋がってたとすれば、かなり巨大な敷地となろうが、渡良瀬川の改修事業によって古河城の遺構が失われ、さらに戦後の埋め立てによって、ここ古河公方館跡も一部しか無い今となっては、全容は掴みにくいかもしれない。

ただ、五代 ・義氏の娘・氏姫が、小田原征伐によって豊臣秀吉に接収された古河城を出て、この古河公方館跡に「鴻巣館」を営んだ事をもって、「初祖・成氏の住まい(古河城の前身)」と推測されてるんだろう(^^ゞ。

氏姫は、それを前提として移り住む……つまり「古河城を引き払う事に同意した」という事だと思う。

同意も何も、後北条氏についた者、つまりほぼ関東じゅうが小田原征伐によって有無も言わさずアッサリどかされたんだが(笑)、実は氏姫だけはそうはいかなかった(笑)。

この氏姫の件は後に触れるとして、何しろ氏姫の時代までに、成氏の居館跡が判らなくなってしまった……という事は無さそうだから、「成氏の最初の居館」という解釈でイイと思う(^^ゞ。

~中略~(^。^)

かつて、古河公方が「敗北して逃げて来た」「仕方なく来た」というイメージが強かったらしい。
が、古河で買った本には、それらが誤解として否定され、「古河の重要性をよく認識し、迷わず入部した」「選び取られるだけの理由が数多くあり」と主張されていた。

私もこの点は大いに同意したい所で、その後に続いた多くの説得材料(折に触れ、述べる事もあると思う)についても、「なるほど!」と強く惹かれた(^^)。
が、今の所、私にはそれを論じ切る程の知識も自信も無く、ただ何となく成氏について、「鎌倉に未練を感じてない人」「むしろ鎌倉を捨てた男」という印象を持つに留まる。

強いてその論拠を問われれば、恐らくそれは、成氏が鎌倉で育った人でないからだろうと思う。
同様に、成氏に至るまでの4代と比べると、成氏には、何かそれまでの鎌倉公方と違う所があるように思える。

特に、その父・持氏と大きく違うと感じる。

生まれながらに権威も高く、軍事力にも恵まれた父の持氏と、幼児の頃から監視や流転の境遇に曝され、関東公方の座についてからも、持つべきを制限されたに相違ない成氏。

これだけでも大きく違うのに、前者は挙兵後1年も経たずに死んで滅び、後者は30年近くも朝敵とされながら、しぶとくその生命を繋ぎ止め、かつ最後までには和睦に漕ぎつけた。
歴史博物館で買った本にも、この不思議に触れて、「大きな違い」と言及されていた。

まず成氏の父・鎌倉公方四代・持氏永享の乱(1438年)に敗れ、鎌倉で自害する。

(2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降←永享の乱は、いつも出す「千葉県の動乱」には無く、こちらにしか書いてないので、これを読んでネ(^_^;)ゞ)

京の六代将軍・足利義教の命で、やむなく持氏を討伐する側となった、関東管領・上杉憲実は、続く結城合戦(1440年)でも、持氏の遺児・安王丸春王丸の挙兵に対し、渋々ながら討伐側に廻った。

しかし憲実は、持氏の死の直後から自身の死に至るまで、長く主君・持氏への背反を苦にした事で知られる。
その後は隠遁して関東管領職への再任は引き受けず、自身が諸国行脚などして過ごすのみならず、自分の子らへも出家させるなど牽制手段を講じて、その就任を固く禁じた

結城合戦の後、逮捕連行された持氏の遺児は三人いた。
このうち安王丸・春王丸は、連行の途次、美濃の垂井、金蓮寺で処刑され、残る一名(「建内記」に4歳、「永享記」に6歳)について処刑すべきか注進中、持氏追討の主指示者・足利義教嘉吉の変で、赤松満祐に討たれて死去。

こうして、他の遺児には追及の手が及ばずに済んだ(^_^A)。
連行された三人目の遺児は、やはり美濃までは送られたが、土岐家に保護され生き延びた。

以前はこれが成氏と言われていた。
安王丸・春王丸の次の弟が成氏だった。幼名は万寿王(旧来は千寿王とも伝わっていた)。

が、どうもこれは後に示す定尊(又は尊 伸攵(2文字で1文字))という、成氏の弟ではないか、と見られている。
(成氏が結城合戦に参加したと伝える書もある一方で、成氏は参加せず、信州の佐久に逼塞していたと見る説も有力のようだ)

成氏の生年は不詳だが、父・持氏の死亡時(1493年)、5歳だったと言う。
結城合戦の翌1441年、処刑された春王丸が12~13歳、安王丸は10~11歳といい(各記録にもよるが)、数えだと実年齢は2歳下と考えれば、やはり1441年に8歳を越えてはならない事になる。

安王丸より一歳ぐらい下かな~ってな見立てによって、1434年以降の生まれ、と考えておく。

以後、成氏に関する初めの記録は、1444年、信州の大井氏の元での「御代始」の儀式。(~10歳)
次が1447年の「鎌倉公方五代目)就任」。(~13歳)
1448年、鎌倉下向(~14歳)
1449年、「成氏」の諱を8代将軍・義政(義政に成る前、「義成」と名乗っていた)から貰い、左馬頭に補任。元服。(~15歳)

成氏が来るまでの間、鎌倉は上杉氏(および上杉氏の家臣)が取り仕切っていたらしい。
上杉氏の奉行の名(力石氏など)が書類に見えるそうで、これらに主導的な役割をしていたのは、上杉家宰の長尾氏であろう。

が、名目にせよ責任者は上杉氏であったハズで、これが憲実の子・憲忠なのだ。
「あれほど、関東管領になるな、と言ったのにヽ(`Д´)ノ!」と、憲実は怒っただろう。
憲実は憲忠の就任を知ると、憲忠と父子の縁を切ってしまった

案の定、1450年(1451年とする史料もある)には、長尾景仲太田資清道真(道灌の父))が、成氏を急襲し、江の島合戦に発展……と、早速騒動が起きてしまう(^_^;)。。

成氏は、安房・上総にまで難を逃れる想定で江の島に至ったが、小山・千葉・小田・宇都宮などが加勢に来てくれ、双方討死を出しながら引き分け、上杉憲実の弟の禅僧が間に立って、和談が成った。

千葉氏は持氏の最期に、上杉との和解を説いたが聞き入れられず、やむなく上杉についたのが、成氏政権は最初、上杉憲忠を関東管領にしてたので、当主・胤直の叔父・馬加康胤の薦めで、成氏に奉公した。

そして、1454年の享徳の乱の発端で、成氏が憲忠を討つ段でも、やはり「亡父の復讐」と語られる事が多い。

ただ、成氏の挙兵を「持氏の仇討ち」とするのは、上杉憲実の側からの見方という気がする。
自分が成氏の父・持氏に対して兵を挙げ、自害に至らしめているのは事実だし、憲実はその罪悪感に苛まされる晩年を送ったから、「成氏の恨みが自分達父子に向く」と思い、あるいは人にもそう語って当然だろう。

また成氏自身、上杉に対して旗挙げするのに、実際に「父の仇」と謳った可能性はあると思う。

が、上杉の背後にある幕府にも戦いを挑む事になる以上、多くが納得する尤もらしい大義名分を掲げる必要があるからで、これは頼朝も使った手だ。
だが成氏の思いが、「亡父の仇討ち」に終始してたとは、とても思えない(^_^;)。

永享記」では、上杉憲実が主君を失った世を憂えて諸国行脚の旅に出るや、狙い澄ましたように一門や家来が、子の憲忠をそそのかして関東管領に就かせる様子が仄見える(^_^;)。

新関東管領の憲忠は、成氏と殆ど同年齢のまだ幼い子供だった。
だから上杉憲実の弟・清方が代行したとか、彼らの不足を補うべく、扇谷上杉持朝が後見したとも言われている。

成氏自身、京幕府の管領・畠山持国に、江の島合戦の報告として、
憲忠がまだ若輩なのをいいことに長尾が専制し、太田と示し合せて(自分を)急襲した」
「憲忠は元々誤りが無かった。出仕できず不憫。出仕するよう命じて頂きたい」
憲実に関東の政務を執るよう命じて頂きたい
と言って、憲忠を庇い、憲実を頼りにしている様子がうかがえる。

これが1450年であるから、これより4年後の1454年になって、急に「父の仇!ヽ(`Д´)ノ」と気付いて(それまで気づかず)成氏が憲忠を殺害した、というのは、ちょっと不自然かと(^_^;)。

むしろ……。。
上杉憲実が頑なに辞職し隠遁していたがため、 返って留守を守る家宰(長尾・太田)の暴走を招いたのではなかろうか。。
新・鎌倉公方・成氏に良かれと、不和・騒動を避け、或いは二度と主君一家に叛くまいと、今さら身を引いた事が、返って皮肉な結果になったのかもしれない(^_^;)。。


~中略~(^。^)



<古河総合公園②旧民家(中山家と飛田家)>

~中略~(^。^)



<古河総合公園③「公方様の森~天神橋」>

~中略~(^。^)

古河公方初代・成氏の話に戻ろう(^^ゞ。

先ほど述べて来た通り、成氏が管領・上杉憲忠を討ったのが、「父(鎌倉公方四代・持氏)の仇討ち」で無く、しかも上杉憲実・憲忠父子に対し、当初は敵対感情を持ってなかったのなら、何が原因で敵対へと至ったのだろう。

1451年、成氏(~17歳)は従四位下に叙任され、左兵衛督となる。
江の島合戦は1451年とする史料もあるが、1450年のようだから、合戦後に畠山持国に申請した成氏の説明が受け入れられ、無事に昇叙を果たした……という事じゃないかな(^^ゞ。

この畠山持国は、成氏贔屓(てゆうか反義教派:笑)で、この持国と京政権でライバル関係にあった細川勝元が、新たな管領として台頭してきた事が、このあと一転して成氏に不利に働くようになったともいう。

1453年には、成氏(~19歳)から幕府へ申し入れをする場合は、関東管領の上杉憲忠が副状を付けないと幕府が返答しない状態になっていたという。

この副状の件は、永享の乱以降、既に鎌倉公方の権限がそれほど劣化していたように書かれる物もあるので、成氏が畠山持国に上杉憲忠の弁護をしていた時と事情が変わった、と見なせるのかは判らないけど(^^ゞ。

それと成氏の就任前から、京の幕府側には、持氏の遺児ではなく、前将軍・義教の子(七代義勝や八代義政の兄弟)から新しい鎌倉公方を出す考えがあった。

これと関係するのか、江の島合戦が和解となった後も、相変わらず関係修復がギクシャクしたと思われる要素として、これより述べる結城氏などの問題の他に、「鶴岡八幡宮若宮別当」問題への指摘がある。

これを先ほど「長谷観音」でちょっと話した、「
鎌倉から古河に来た寺社」に絡めてみようと思うが、この「古河総合公園」の後に、もう一ヶ所お寺巡りをするので、その時に話そう(^^ゞ。

ここでは今言った、結城氏の問題を先にやる。
成氏は公方に就任すると、まず、父・持氏および、二人の兄・安王丸・春王丸に忠義を尽くした者達に対する、論功行賞を開始している。

特に結城氏は、安王丸・春王丸に頼られたが故に、結城合戦では一方的な敗者・賊軍となってしまった(>_<)。。
当主の氏朝は討死、三歳だった子の重朝は、家臣によって佐竹に落とされ、今は結城に戻って、成氏に諱を頂戴し、成朝と名乗って復帰した。

この成朝の鎌倉出仕を許可するかに、長尾・太田は反対した事が考えられ、結城氏と上杉氏が、北関東の地を巡ってライバル関係にあった点が小さくない、と見られている。

ただ成氏は、父や兄の味方をした者だけ優遇したわけではないようにも思う。

持氏に対して敵対的な挙動を取った千葉氏武田氏武田信長)などまでが成氏の就任以後、成氏への忠勤ぶりが目覚ましい。
つまり成氏は敵味方によらず、父や兄によって損害を被った者達への手当を行なった(行なおうとした)事が考えられる。

さらに、成氏に寄せられた期待には、父・兄がらみの戦乱犠牲者の他にも、多くの支持があったと推測できる。

当初は長尾・太田といった上杉側の者達も、上杉憲実が支持する以上、持氏の遺児が鎌倉に復帰する事自体に異論は無かっただろう(あっても憲実相手じゃ逆らえなかったろう(^_^;))。

が、復帰して来た成氏が出会った現実は、父持氏の起こした永享の乱の冷めやらぬ内に、上杉氏の者達に土地を強奪された者達の悲哀だった。

成氏が憲忠を庇ったり、憲実に復帰を望むのも、全て、「アンタら上杉が、押しこみ犯の長尾・太田のボスなんだから、きちんと指導しなさいヽ(`Д´)ノ」と指示したいからだ。

ところがこの後、上杉憲忠が対処・指導した形跡は全く見られない(^^;)。。

「鎌倉大草紙」になると、憲忠が「和談して長尾はお許し頂いたので、没収された一味の領地は返して下さい(^o^)」とか、シャアシャア訴えに来る始末(・・;)。。
成氏がそれを許さずにいると、長尾側は寺社の荘園に押し入って自分の家人に与えたため、あちこちの国から訴訟が耐えない(^_^;)。。

成氏は再度「長尾を処罰しなさいヽ(`Д´)ノ」と憲忠に言うんだが、又々スルーなんだ。。(汗)

この後に続く段階と思われるのが、「上杉家文書」にある、成氏派(野田・小田・簗田・一色・長沼らに)よる押し入り行為の頻発で、彼らにすれば「取り戻し」のつもりでも、上杉は京幕府と繋がってるので、成氏派は幕府から「強入部」「押領」と受け取られてしまう(^_^;)。。

ここで扇谷と長尾は、本拠の上野国で一味を集めて計略を練る。
この陰謀を察知した成氏派は「一刻の猶予も無い\(>o<)/」と成氏にチクる。

そこで成氏らは綿密に計画を練りあげ、1454年の年末、長尾景仲が上野国に行った鎌倉不在を狙って、上杉憲忠を西御門御所に招き、武田信長・結城成朝らに、憲忠長尾実景父子を含めた上杉主従まるごと謀殺させ、 上杉氏の居館に夜討ちをかけた。

いわゆる享徳の大乱の勃発である。30年に渡って、成氏が朝敵となる動乱である。

以上、挙兵に至った理由は、「殺らなきゃ殺られる」と思ったからで、これは1450年の江の島合戦で急襲を受けた前例で充分だよね(^_^;)ゞ。
憲忠を討つに至った直接動機は、長尾・太田に対し、処断を下さなかった事だと思う。
江の島合戦の決着に際して出した条件を守らなかった事、とも言えそうだ。

それにしても、成氏派のこれほどの大逆襲・謀略、持氏の時代だと、即効で上杉憲実に知れてしまったものだ(^_^;)。
憲実は、おめおめと上意討ちの濡れ衣を着せられるのを避けて、あれこれ細心な画策を施したものだ。

それが成氏に代が替わると、上杉側の謀略はバレバレ( ̄▽ ̄;)で、逆に成氏側の計略に憲忠が陥り、まんまと殺されてしまうというのは、率直に言って、成氏派の情報が漏れなかったから……と見るしかないだろう。

翌月(1455年1月)には、成氏は各地の武士に軍催促を発送、一斉蜂起を促した。
奉行は勿論のこと、結城・里見・世良田・小山・村上・印東・一色・武田・岩松・筑波など、多くの外様勢力も成氏に就いた。

後に発給文書については触れるが、このスピードも、兼ねてより用意してあったと考える他ない(^_^;)。

実は決行前の1454年8月、成氏は、鶴岡八幡宮の社頭で演じられた、本土寺(千葉県松戸市)の猿楽舞を観賞している。
本土寺の猿楽は当時、東国の代表的存在で、成氏に披露した猿楽士として、鞍掛の長命大夫の名が残っている。

先にも触れた通り、鶴岡八幡宮若宮別当成氏の弟定尊)がいた事を思うと、もしかしたら、こんな場も諸将の会合密談に用いられたかもね(^_^;)。

対する上杉側は、殺された憲忠にかわって、憲忠の弟・房顕を擁立。
扇谷上杉持朝(憲忠の舅)や太田資清は相模国の島河原合戦で、長尾景仲は武蔵国の高幡分陪河原合戦犬懸憲顕・扇谷顕房が戦死)で、上杉の敗退が続いた。

幕府はいち早く、上杉支持を打ち出し、成氏を朝敵にすべく朝廷に奏上。
しかし、めくるめく進展する関東の戦乱拡大に対し、これらの工作は遅れを否めない。

3月、成氏はこの古河を訪れる。初めに居したのが、ここ鴻巣である(^^)。
館を建設するとともに、関宿簗田氏野田野田氏を置いたともいう。

続く4月、小栗合戦でも、上杉は敗退を繰り返す。
成氏が古河に落ち着いて最初の戦いは、5月の大袋原合戦と見られている。

何とか後花園天皇から綸旨が下された上杉側は、在京していた上杉房顕が鎌倉へ出発。上野平井城に入る。
続いて、幕府側からも、桃井氏などと下向した今井範忠が、6月に鎌倉到着。
そして、今川範忠は鎌倉に乱入。御所・神社仏閣の悉くを焼き払い、鎌倉は焦土と化した。

転戦中の成氏は、これで鎌倉に戻れなくなったのは確かだろうが、その後も下野天命、只木山などで合戦し、以後、騎西城合戦など、古河を本拠と定めた動きが濃厚となる。

これより成氏は、古河公方初代となり、成氏とともに古河に陣した弟・定尊も、以後、「鶴岡八幡宮若宮別当」として、古河における「雪ノ下殿」初代となる。(成氏の孫・小弓公方義明もこの尊称を受け継ぐ)

一方、この辺りで、成氏が朝敵となった事が知れ渡ったようで、千葉・宇都宮・山川・真壁など、上杉側に寝返る者も出始めた。

もっとも千葉氏は、この頃すでに成氏派上杉派分裂して、いわゆる「市川合戦」の真っ最中だった。




<古河総合公園④「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>

~中略~(^。^)

そもそも上杉派だった千葉胤直は、叔父・馬加康胤の薦めで成氏に従ったものの、上杉との抗戦必至となると、成氏を離れ、上杉側についた。
ところが、分家の馬加康胤と重臣・原胤房が結託して胤直を攻め(市川合戦)、この後にその弟・胤賢や子・胤宣まで滅ぼしてしまう。
(「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455~1456)><武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455~1456)>

以後、房総千葉氏は、古河公方派として登場する事となる。
本家筋の子孫は武蔵に逃れ、上杉氏の支援を受けて、武蔵千葉氏となる)

古河公方×上杉の攻防では、両派の間を行き来する、こうした氏族をちょくちょく見掛ける。
千葉氏は鎌倉大草紙にも中心的に描かれ、各種の手掛かりがあるから詳しい事がわかるが、他氏も代替わりによって就く勢力が変わるなど、同じような事があっただろう。

以後、
1456年、岡部原合戦。
1458年、六代将軍・義教の子・政知(八代将軍・義政の兄)が下向。鎌倉に入れず堀越に留まり、堀越公方となる。(堀越御所)
1459年、太田庄合戦、上野羽継原合戦、海老瀬口合戦。
1466年、北根原合戦、南多賀谷合戦。
~1471年、毛呂島合戦、網取原合戦、館林合戦。

……と、成氏の戦闘の経過は長く厳しく続いたが、京では、1467年から応仁の乱が勃発。
東国討伐どころじゃなくなった(^_^;)。。

成氏はこのように運に恵まれた人でもあった。
長兄・義久は永享の乱で、次兄・春王丸・安王丸らも結城合戦で命を落とした所で、敵ボスの将軍義教が頓死したため、彼一人が命拾いした事でもそれは言える。

が、運だけの問題で無い感じがするのは、いつも、どこからともなく援軍が現れて、成氏を助けてくれる場面がずいぶん多い気がするからだ。

父・持氏が幾度か修羅場に遭った時も、同じように家臣やらが助けてくれただろうから、関東公方の役得と言えるのだが、持氏は結局、三浦氏などに見捨てられた(てか裏切られた)から、どうも結果が違う。

1471年、幕府や上杉氏の方針に沿って送り込まれて来た、6代将軍・義教の子・堀越公方・足利政氏を追い落とそうと、成氏派の結城・小山が箱根山を越えて、三島に向かった事がある。

が、この時は逆に上杉側に撃退され、討死を数多く出し、痛い敗退を喫した。
今度は上杉側から、弱った古河公方側に追い討ちをかけようと、古河城に討って来る。
成氏は持ち堪えられず古河城を落ち、結城に守られながら、千葉の千葉孝胤(馬加康胤の孫)を頼った。

しかし1年経たずに、1472年には、野田・簗田・佐々木など奉行や、成氏与党の那須・結城とともに出撃、みごと古河城に復帰できた。
このように成氏の与党は、半ば自発的に成氏の敵を求めて、遠国にまで決死の戦いに出ている。

彼らがこうした行動に出るのは、関東公方の権威を嵩に着て、やりたいようにやっている、という指摘も当然出来る(笑)。
しかし笠に着るその「権威」は、この当時、長々と「朝敵」の汚名の下にいる人なのだ(^_^;)。。

あと百年経たずに戦国時代となり、朝廷も幕府も失墜、官位は金で買え、綸旨も御教書も「絵に書いた餅」状態になるから(笑)、成氏の動乱をその走りと見て納得すべきなのか……。

いや、やはり上杉禅秀の乱上杉禅秀と言い、永享の乱の父・持氏と言い、結城合戦における春王丸・安王丸・結城氏と言い、京の幕府から追討を下された途端、雲霞の如く大軍も、手のひら返し、背を向け、蜂の子を散らしたように霧散してしまった現実を振り返ると、なぜ人々は成氏だけは担ぎ続けたのか……と首傾げずにはいられない(^_^;)。

その答として、「古河の歴史を歩く(古河歴史シンポジウム実行委員会編)に、成氏はその前の関東公方と比較して、御判御教書が少なく、書状形式(御内書)を圧倒的に多く発給した公方だったとある。

御判御教書が年号入りで花押のみなのに対し、御内書は年号を省いた日付のみで公方の諱が自署され、前者に対して後者は、発給相手に対し、やや丁寧な姿勢を取るという。

発給される側にとって公方の文書は、自分のランクを知る重要なソースだから、この形式を変えるなどタブーに等しいものを、こうした事をアッサリやってのける所に、成氏政権の特殊性が現れている、と評価されていた。

権威の象徴である鎌倉を飛びだし、古河に御所を構えるという行動も、それを見た人々がガッカリする可能性の方が、当時としては遥かに大きかったハズだ。

しかし結果的に、古河公方はその後、五代の長きに渡って受け継がれていった。
それは、それまでの鎌倉公方には無かった、独特の柔軟性が功を奏したのでは……といったような説明・解釈だった。

確かに戦国前期、イキナリ下総に出現するこの軍団は、宮殿らしきも持たず、絶えず馬の疾駆する戦塵とともにあって、広いステップ(草原)に唐突に出現した、強健な騎馬民族国家の如きである(^_^;)。。

年号と言えば、私はどうも成氏と言うと、「享徳の大乱」と思ってしまう(^_^;)。
享徳」と呼ばれるのは、父の持氏が京の改元に従わず、古い年号を使い続けたのと同じで、成氏も謀叛を決行した時の「享徳」の年号を使い続けたからである。

ただ、30年も「俺は逆らってますゼ( ̄ー ̄)」なんて態度の書状だと、千葉氏みたいに、困る立場の人や嫌気が差す人もいるかもしれない反面、逆に「享徳のままでイイ!」「持氏の流儀を貫いて欲しい!」と思う反上杉派の人もいるかもしれない。(難しい所よね(>_<))

だから、もしかして、わざと年号を省く「御内書」の形式を使った……という事もある(^^ゞ?
だって年号を書かない書式なら、成氏がどっちのつもりか判らないもんね(^o^)v

さて、千葉孝胤の保護を受けてた成氏も、1472年には古河に復帰できた。


これには、実弟の尊 伸攵(2文字で1文字)が準備を整えた事が遠藤白川文書から確認されるそうで、これが後にも書く「鶴岡八幡宮若宮別当」、すなわち「雪ノ下殿」と呼ばれる人で、先に成氏とともに古河に来た、定尊の弟と見られている。
定尊は恐らく亡くなり、尊 伸攵がその跡を継いだ、と見られている。


4年後の1476年に、長尾景春の乱が始まり、上杉体制に綻びが出始め、強気の上杉も和議に応じ、京(幕府+朝廷)とも、1482年に和解が成立した段取りは、ちょくちょく話す通りだが(^^ゞ、この交渉にも、尊 伸攵が活躍したようだ。



「保存できません」が出ちまった(>_<)。。
あと、ちょっとのトコだったんだけど、この後を入れるとキレが悪いので、ここで一旦切ります。
でもここまでの所がメインで、あとは枝葉っぽくなるんで、しばらくこれを出しておこうかな(#^.^#)。