80年代の半ばから、後半にかけて“ダイハツ”と言うメーカーは実に好き勝手な車を作っていたものだ。
どうあがいてもトヨタの子会社、けれども時はバブルへ向う頃、本体の経営が順風満帆だったためか、
好きにさせていた? のかもしれない。
好きにさせれば、ダイハツと言うメーカーは実に素晴らしい車を世に送り出すものである。
この、実に素晴らしいに関しては、そのまんま受け取られたくはないのだけれど・・・
その意味で言えば、1987年を境に、彼らの暴走は始まる。
ミツキーロークのCMで華々しく新型シャレードをデビューさせるが、出てきた車は何ともいえないデザイン。
ミッキーの映画、ナインハーフの不可解さと無理すれば共通する様な車だった。
シャレードの、直線基調のデザインは捉えどころの無い球体へと変化した。
デ・トマソで折角掴んだ若者のハートは逃げそうな雰囲気をかもし出して、若者は離れた。
さらには往年のコンパクトベーシックを好んだコンサバ層にも、丸くて肥大化したデザインは嫌われた。
悪いことずくめのシャレードには実は、隠れたお化けが用意されていたのだけれど、これは後で述べる。
一方で、ミラターボは、相反してデ・トマソシャレードを踏襲する、コテコテエアロの洗練したイメージでこれは
文字どうり売れた売れた。スズキがアルトワークスを出すまでは、独占ハイパフォーマンススポーツ軽貨物だったのだ。
新型シャレードの流れを受けた、軽自動車は、とんでもない形で現れる。
リーザと命名されたこれは、卵を半分にしてタイヤをつけたものだった。
女子受けを狙って、狙ったモデルだったが、可愛いィ~ という言葉が市民権を受け始める創世記でもあり、可愛い
よりも、変なの・・ と言われる。
問題は、可愛い、変なの、どちらでもいいけれど、売れ行きは今ひとつで、街をあまり走っていないので、何とも
皮肉な物体になった。
今井美樹のホンダ トゥデイが女子のハートをキャッチし、経済的な強みで、小林麻美のアルト48万円とも、相撲
にならず配線処理車になった。
当時のダイハツは、CMもマーケも一歩も二歩を先を行き過ぎて、最終的に最後はだれもたどり着けない領域に一人
で走りこんで孤立した感じだった。
この時代のダイハツは、クリエイティブに尖りすぎて、台無しの典型だった。
ツーサム ソロサピエンス 等の言葉遊びも、軽自動車ユーザーとは別次元の浮きようだった・・・
当時のダイハツは、まるで、美大の先生が、農協で講義するみたいな状況だった。
大方、真面目で健気なメーカーの人間を、大手の広告屋が“あの手”“この手”で炊き付けたのだと思う。
よく解からないまま、メーカーも金をかけたのだと思う・・
そんな中で1987年 今にして思えば晴海最後のモーターショウが行われた。
新入社員、初めてのイベント仕事
華やかな、景色、そして裏方の景色
光と影と
笑顔と涙
そして真実と嘘
理想と現実
その総てがそこにはあった