僕の大好きな作家の話は、何度もこのブログに書いてきた。

今日のタイトル 「エンドマークからはじまる」もこの人の短編集のタイトルだ。

40代半ば以上の人にはかなり有名だと思うのだけれど・・・

ま、わたせせいぞう と同じく僕の人生の2大バイブルと言って間違いない。


彼の物語の中に登場する女性達と

僕の人生に登場した女性たちの最大の差について書いてみたい。

このブログを20代30代の女性が読んでくれているケースは皆無だとは思うけれど。

もし居たら、ぜひ探しでも片岡義男は読んでもらいたい。


彼の作品は当時でも、内容が無いなんて酷い事を言う同世代も多かった。

それは、多分 内容が無いと言う発言をした人には、文章から得られる空気が得られなかったんだと思う。その空気とは、切なさであり、強さであり、美しさであり、理不尽なものなのだ。

理不尽、この表現が正しいかは難しい。

もっと的確に言えるなら、しかたのない事柄と訳すのがベストだと思う。


さて、本題だ。


彼の作品に登場する女性は決まって美しい

そして、とても素敵だ。


僕の人生で出会った女性たちとは決定的に違いがあると言ったのは美しさではない。


例えば、今日まで本当に快適に同棲をしていた恋人が居るとしよう。

この同棲が何年続いたかに関係なく。

夜中にふと、今の生活が疑問になり、そのことを次の晩い切り出すとする。

「何も不満はないのだけれど、僕はここを出いこうと思う。」

この言葉に対して なぜ? と聞き 

僕が「本当に理由なんてないんだ ただその方が今の僕にはより快適なんじゃないかと思うから」

と本心を言う。


彼の作品の女性は、それを聞いてこんな提案をする。

「解ったわ その方が快適だと貴方はそう思ったのね」

「そうだ そう思った」

「私はどうすればいいのかしら」

「君は今度会う時までに今のままの良い女で居てくれればいい」

「いつここをでるのかしら」

「週末のは出たいと思う、車で先ず西に行く」

「先ずは旅なのね」

「そう、先ずは旅をする」

「送らせて欲しいの、最初のインターまで貴方のステーションワゴンに着いて私は自分のクーペでついて行くわ そして、そこで貴方を見送るのよ」


と彼らはこんな感じだ。


根掘り葉掘り着たりせず、勝手な想像と詮索で問いただしたりもしない。


そして最大の違いは、再開だ。


偶然にしても、約束をしての再会でも、二人の素敵な関係が、まるで冷凍食品の解凍のように

再開の瞬間から自然に繋がると言うところだ。


別れに恨みも疑念もなく、別れ そして再開する 時には再開が無い場合もあるが・・・


僕の現実は違う

別れた女性達は、別れる時に簡単に離れてはくれないし、無理に離れれば人生の中で、他人より問題のあるマイナスの存在になってしまう。


大体において、恋愛を 始める 楽しむ 苦しむ 悲しむ 罵る 別れる


という様なプロセスを重んじる女性が実に多かったのが悲劇だ。


これを読んで、「何勝を手がことを と独り言を言っている女性もいるかもれない・・・」


でも、片岡作品の中には、男性に対して同じように切り出す女性もいるのだから面白い。


そして、男はそれを笑顔で見送る 彼女が快適と判断したのなら自分にも楽しい事だと。


中には、そうならない男女のケースもあるが、その恋愛はハッピーなストーリーにはならない。


メインで言いたいことは


人と人が出会い、知り合ったのであれば


二人は無理に他人に戻ることは無く


例えば、同棲を解消しても 結婚と言う関係を解消しても


相手が居る以上、嫌いでなければ、エンドマークを無理に突き付ける事は無い。


好きか 嫌いか づっと一緒か 永遠に会わないか


なぜ、僕のであった女性たちは、そう結論を出したがったのだろうか。


これは、人生の中でとても無意味な事だと思えてならない。


エンドマークから始まる つまり そういう事かもしれない。