五木先生が1992年に書いた小説。
『レッスン』
ガウディに夏と並んで最高の小説だと思う。
面白い
なんと、今の時代の通販をみたら、2008年発効になっていた。
これには驚く、文庫か何かの発行日がそのままでているのだろうか?
そんなことはどうでも良いのだけれど。
先生とは仕事で一度だけ接点があったが、大ファンですとも言えず。
まして、このところの清く正しく美しい先生に、この時代の作品が大好きでとは言えなかった。
先生にはご丁寧にサイン本まで頂戴しながら、それでも
我が憎しみのイカロスが好きだとは言えなかったし
にっぽん退屈党といい、先生のボルボと言う車を作品に反映させる手法が大好きだ・・・
とは言えなかった。
最近とあることで、このレッスンに関して考えることがあった。
主人公の、20代後半の男は、なぜ同世代の綺麗な恋人手前の女性ではなく、30台後半の
所謂準主役の女性にあれほど弾かれたのか?
もちろん、男たるもの何処かで年上には絶えず魅力を感じるのだけれど・・・
それだけかな?? と考えた。
そして、多分 ・・・じゃないか?? という結論に行きあたった。
僕は、何となくそれを感じて
その日、受け取った側は理解に苦しむであろうメールを数人の人に送った。
とても、親しい人、会ったことはないけれど、このブログを読んでくれている人等
いずれも、女性にだ。
この美しく、賢い女性は具体的に何も小説の中では素性がわからない。
これは作者の創造によるところを大きくした先生ならでわの遊びかもしれないし、また、読み手がすきに彼女を作り上げることで、読む側が彼女に恋をすることも可能だという計らいかもしれない。
最後は、死と言ういうものが扱われることになるが、これもとて僕の好きな部分だ。
死の扱い方なら、ヘミングウエイがその代表だと言う事はここでも何度も書いている。
五木作品も死もまたてても興味深い。
近年では、さよならいつか も死と生を描いた。
どれも素敵な作品だ。
人生は、移動祝祭日のようなものだし、死は必ず避けられないテーマとなる。
流星ワゴンという僕のまた、大好きな作品でも死は描かれ
浅田作品では、角筈にてと言う作品は本当に素敵な作品し、ぽっぽや もまた死が登場する。
今回の話に戻すことにする。
このレッスンで気付いたのは 死は 死でも 小さな死とよばれるものの存在だ。
フランス文学でよく使われる表現小さな死
主人公の男性は、この美しい年上の女性に、他では有りえないほどの小さな死をレッスンされたのではないかと・・・・ 僕はそう考えた。
そして、彼女はそれを彼女の女性としての生き方の中で知った。
彼女は、それを快くレッスンされたか否かは、ここは複雑なことではあるが、いずれにしても彼女はそれを知り、彼女はそれを彼にレッスンしたのではないだろうかと、そう勝手に解釈した。
その小さな死とは
何か? これはあくまで、作品を勝手に解釈して、行間を読んだ結果だ。
ただ、この行間の解釈は作者が意図したものではないかもしれないし、作者はそんな想定さえもしていないかもしれない。
いわば、作品と無関係な想像にすぎない。
で、メールにしたかと言えば・・・・
当然の事、ここに書きにくいことだから。
ただ、ここまでの前置きを何一つ書かずに、本題だけを送られたのだから、受けても解る筈はない。
これを読んで、繋げてほしいけれど、メールはかなり前だから繋がらないかもしれない。
あくまでも透明でいて、それなのに
糸を引くような感じとだけ表現しておこう。
興味がある人は、一度 読んでみてほしい レッスンを・・・・・