2015年 2月 26日 ハレルヤ!
今日も命が与えられ、一日が与えられました。全てを私たちの神である主に感謝して、いつも喜んで、絶えず祈り、主と共に歩みましょう!
今日の聖書箇所はサムエル記第二21~22章です。共にデボーションしましょう。
☆今日のみことば☆
ダビデの治世に、大ききんが三年も続きました。 そのため、ダビデは特別に時間をかけて祈りました。 神様からのお答えはこうです。 「ききんの原因は、サウルとその一族の罪にある。 彼らがギブオン人を殺したからだ。」 そこで、ギブオン人を呼び寄せました。 ギブオン人はエモリ人の末裔で、イスラエルには属していませんでした。 もともと、イスラエル人は、彼らを殺さないという誓約を立てていたのです。 にもかかわらず、サウルは熱烈な愛国心から、彼らの一掃を図ったのでした。
その時、神様はついに祈りを聞いて、ききんを終わらせてくださったのです。 (サムエル記下 21:1-2, 12-14 JLB)
☆コラム☆
血の呪いというのが実際にあることがわかります。
この場合は初代の王、サウルの罪です。平和条約を結んでいたギブオン人を滅ぼそうとしたからです。
何年もたってからききんがその子孫にふりかかるのです。恐ろしいですね。
ダビデはギブオン人と話し合い、その血の代償として7人のサウルの子孫を差し出しました。彼らは処刑されさらしものにされました。
そしてその時殺された者の母リツパはその期間である半年もの歳月をずっと昼も夜もその死体が獣に食べられ無いように守りました。リツパは本当に、辛かったでしょう。
これをみて神は心を動かされききんを終わらせました。
罪の代償は死です。神はあわれみ深く愛のお方ですが必ず罪は裁かれるお方です。先祖が罪を犯している場合はその四代先まで呪いがあると書かれています。
みな、死ななければならないのでしょうか…。
この旧約聖書の時代にはいけにえを捧げその代償によって一時的に罪をないものとされ神との関係が回復されました。
現代も神と愛の関係を保つには牛などいけにえを毎週日曜に教会に連れて行って捧げなければならないのでしょうか?
それは、イエス様が十字架にかかられて全ての罪の身代わりとなられたおかげでその必要はなくなったのです。
イエス様の血の代償によって贖われた(あがなわれた)のです。 ハレルヤ‼️
しかしイエス様を信じた後も礼拝を捧げ、自分の祈りを、自分の心を、賛美をいけにえとして捧げつづけなければなりません。
罪の性質が残っているからです。
私達は日々、聖い者へとなっていかなければなりません。また自分の中の人を許せていない部分とか…。怒り、妬み、嫉妬、憤り…などなど。罪の性質を悔い改め手放さなければなりません。
先祖の中にも大きな罪があるかもしれません。代わりにあなたがその先祖の罪を告白し悔い改め、聖めなければなりません。悪霊が働く全ての要因は打ち破らなければなりません。先祖の霊的問題は簡単ではないので個人的にお話しします。または教会の牧師先生にご相談ください。
しかし、先祖の前にまず、あなた自身の罪を完全に告白し悔い改め、あなた自身が聖い、捧げものとして主に心を捧げる事が大切です。
今日はちょっと長いけど22章のダビデの詩を読んで見ませんか?
以下に貼り付けました。声に出すとより良いです。それが主への賛美となり霊的空気を変えます。
神様が、サウルや他のあらゆる敵から救い出してくださった時、ダビデは神様にこう歌いました。
「神様は私の岩、 私のとりで、救い主。 私は神様のうちに隠れよう。 神様こそ私の岩、隠れ家、 私の盾、救い、 避難場所となる高い塔。 すべての敵から救い出してくださった 救い主に感謝しよう。 私はこのお方にすがろう。 神様には賛美がふさわしい。 すべての敵から救い出してくださるお方だからだ。 死の波が私を囲み、 悪の洪水が襲いかかった。 罠にかかった私は 死と地獄でがんじがらめ。 苦しみの中で神様を呼び求めると、 神様は神殿でその叫びを聞かれた。 叫びがお耳に達したのだ。 すると、地が揺れ動いた。 天の基もおののき震える。 神様のお怒りのせいだ。 噴煙がその鼻から立ちのぼり、 火が口からほとばしり出て あらゆるものをなめ尽くし、 全世界を火だるまにした。 神様は天を押し曲げて、地に降り立たれ、 黒雲に乗って進まれた。 神様は栄光の御使いの背に乗り、 風の翼に乗って来られた。 暗やみが神様を取り囲み、 厚い雲がたれ込めても、 地は神様の輝きで、まばゆいばかりにきらめいた。 神様は天から雷鳴をとどろかせ、 すべての神々にまさるお方の雄叫びが響き渡った。 神様はいなずまの矢を放って 敵をかき乱された。 その息吹によって 海は真っ二つに裂け、 海の底が現われた。 神様は御手を伸べて 大水の中から救い上げてくださった。 強敵から、 憎む者から、 とても太刀打ちできない者の手から、 神様は救い出してくださった。 災いの日に、 やつらは襲いかかって来た。 しかし、救い主が私の味方だ。 神様は私を救い出し、鎖をといてくださった。 私を喜びとされたからだ。 私が正しかったから、手を汚さなかったから、 報いてくださったのだ。 私は神様から離れなかった。 神様のおきてを心に刻み、 ひたすら守り通した。 神様への完全な従順と 罪との訣別。 それが 豊かな報いにつながった。 神様は私のきよさをご存じだ。 恵み深い者には恵み深く、 非の打ちどころのない者には 非の打ちどころなく現われてくださる神様。 きよい者には ご自身のきよさを示し、 汚れた者には滅びをもたらされる神様。 神様は悩みのうちにある者を救い、 高慢な者の鼻をへし折られる。 神様の目は一挙一動を見のがさないのだ。 神様は私のともしび。 目の前の暗やみを照らし出される。 神様の力を受けて、私は敵を破り、 神様の勢いを借りて城壁を飛び越える。 神様の道は完全、 神様のことばは真実。 神様は、すべて身を寄せる者の盾。 神様をおいて神はなく、 救い主もない。 神様こそ強固なとりで。 そこでは安全に守られる。 神様は岩場に立つ山羊のように 正しい者の歩みをしっかり支えてくださる。 戦いのために私を鍛え、 青銅の弓を引く力を養ってくださる。 神様の救いの盾は私のものとなり、 神様の慈愛は私を強くする。 足を踏みはずしたりしないよう 神様は私の歩幅を広げてくださった。 私は敵を追って滅ぼし、 全滅させるまで手をゆるめなかった。 手ひどくやられた彼らは 二度と立ち上がれず、 私の足もとにうずくまる。 神様は戦う力を私に与え、 すべての敵を 征服させてくださった。 また、しっぽをまいて逃げまどう敵を 私は残らず滅ぼした。 呼べど叫べど、彼らを助ける者はない。 神様に叫び求めても、 何の答えもなかった。 私は彼らをちりのように払いのけ、 道ばたのどろを落とすように 粉々に蹴散らした。 神様は反逆からも 守ってくださった。 また、諸国民のかしらとしてのゆるぎない地位を 保たせてくださった。 外国人も私に仕えるようになる。 私の権勢を耳にした外国人は たちまち従って来る。 まるで何かにつかれたように 震えおののきながら、 隠れ家から出て来る。 神様は生きておられる。 すばらしい岩。 私の救いの岩、神様をほめたたえよ。 敵を滅ぼしてくださる 神様をほめたたえよ。 敵から助け出してくださる 神様をほめたたえよ。 そうだ、彼らの手の届かない所で私は無事守られ、 彼らの暴虐からも救われている。 神様、どうして国々の中で 感謝しないでおられましょう。 お名前をほめ歌わずにおられましょう。 神様はすばらしい救いを王に示し、 油注がれたダビデと、その子孫とに あわれみをかけてくださる。 とこしえまでも!」 (サムエル記下 22:1-51 JLB)
ハレルヤ‼️私たちの素晴らしい神をほめたたえ感謝します!アーメン
あなたの上に神様の豊かな祝福がありますように
☆あきら☆
次回の晴れる家cafeの礼拝が決まりました
3/21土曜日13:00から 「クリスタルビーズ ゴスペルコンサート&礼拝」ぜひご参加ください
http://s.ameblo.jp/hareruya-cafe/entry-11994394180.html
初歩的な聖書の学びをブログにアップしています
「バイブル・カフェ」
http://ameblo.jp/possible-dream/
☆後半☆
長くなったので読める人だけ読める時に読んでくださいね。
若きメッセンジャーありさ姉妹のガイドが
とても素晴らしかったので紹介します。
【マナメール】主が私を喜びとしている(2サム21, 22)
■S:今日の聖書の言葉
サムエル記 第二 22章20節
★主は私を広いところに連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。
■O:今日のコラム
「主が私たちを喜びとされた」
主は私たちを喜びとしてくださっています。
主は私たちのことを喜んでいるのです。
私たちは、いつも主を喜ぶ者であり(1テサ5:16、ピリ4:4)、主を喜ぶことが私たちの力(ネヘ8:10)です。
そして私たちも、いつも主を喜びとすること、いつも喜んでいることを求め、歩んでいると思います。
しかしながら、私たちは、どれほど主が私たちを喜んでおられること、主が私たちを喜びとしておられること、そして私たち自身が主の喜びであることを知っているでしょうか。
私たちが主を喜ぶ以上の喜びで、主は私たちを喜んでくださっています。
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」ゼパニヤ3:17
主は私たちを愛し、喜びを持って私たちを楽しんでくださっているのです。そして、高らかにうたって喜ばれるほどに、私たちを喜んでくださっているのです。
ある有名なワーシップリーダーの方の証を聞いたことがあります。彼女は、私はいなくても良かったんじゃないかという思いを持っていたそうです。ところが彼女はあるとき、幻の中で、主と出会う体験をしました。そのとき、主に促されて、「主は私をどう思っているか、私が生まれたとき主はどのような気持ちだったのか」という質問をしたそうです。
すると、目の前で主が満面の笑みを浮かべて、大はしゃぎで喜んだのです。それは、気が狂っているほどまでの大はしゃぎで飛び跳ねて、走り回って、声を上げて喜んでいて、どれほどに彼女を喜んでいるのかを表現してくれたのです。
主は、私たちが思ってもいないほどに、私たちを喜んでおられるのです。
なぜなら、主は私たちを喜ぶあまりに、十字架までも忍び通されたお方だからです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」へブル12:2
主は十字架にかかるときも、ご自分の前に置かれた喜び―自分が十字架にかかることによって、ご自身が喜びとしている私たちと交わることができること、隔ての幕がなくなり、いつでも私たちと出会うことができること―のゆえに、ご自身の喜びである私たちのゆえに、十字架を忍んでくださった方です。
私たちを愛し喜ぶがあまりに、喜びである私たちともっと交わりたいがゆえに、ご自分のいのちを犠牲にしてまでも、私たちを喜んでくださったお方です。
なので、復活された後のイエス様の一言目は、「喜ぼう!」だったのです。
「すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。」マタイ28:9
原語のギリシャ語聖書では、「おはよう」は「カイロ―:喜ぶ」という言葉が使われています。「いつも喜んでいなさい」と同じ、「喜ぶ」という単語です。
主は、復活された後、私たちと出会える喜びのゆえ、「喜ぼう!喜びなさい!」と言われたのです。
私たちはいつも喜ぶため、そして主を喜びとするためには、まず主がどれほど私たちを喜んでおられるのか知る必要があります。
もちろん、主が私たちを喜びとしてくださるために、主に喜ばれることは何であるかを追い求め、主に喜ばれる、主のみこころにかなった歩みをすること、主を喜ばせることを求めて生きることも必要なことです。
しかしながら、主は私たちが何ができても、できなくても、計り知れないほどの愛で私たちを愛してくださっています。私たちを愛し、喜びとしてくださっているのです。
私たちがイエス様を信じ、主を愛する前から、十字架でご自分を奉げるほどまでに、私たちを愛し、喜びとしてくださっているのです。
私たちの喜び、真の喜びは、主がどれほどまでに私たちを愛し、私たちをどれほどまでに喜びとしてくださっているかを知ることからくるのです。
■A:考えてみよう
主がどれほど私を喜んでくださっているのか、主の喜びを知ることを求め、今朝御前に進み出て、「私をどれほど喜んでおられのか」主に聞きましょう。
■P:祈り
主よ、あなたが私を喜びとしてくださっていること、命を捧げてくださったほどに私を愛し喜びとしてくださっていることを感謝します。どうぞ、あなたの私に対する計り知れない愛、喜びをもっと教えてください。どれほどにまで、あなたが私を喜んでおられるのかを知り、経験し、私も主をいつも喜ぶことができるようにしてください。主が十字架の上で、喜びを前に置き、喜びである私たちを前に置いてくださったから、私もいつも主よあなたを目の前に置き続けます。今日一日もあなたを目の前に置き、あなたを喜びます。愛するイエス様の御名でお祈りします。アーメン。
【 ありさ 】
■■ God Bless You !!! ■■
今日も皆様の祝福を心からお祈りしています。