何故保育園は足りなくなるのだろうか。何が問題かについて考えてみよう。

 

 考えられる価値判断はいくつかあるが、共通するのは次のようなことである。人間が行う行動にはお金を理由に諦めていい問題と諦めさせてはいけない問題がある。例えば、お金がないなら思想の自由なくても仕方ありません、あるいは例えば、お金がないなら呼吸が出来なくても仕方がありませんということにはならない。子供を産むという活動はこれと同様の問題だという考え方がありうる。音楽を嗜むや、運動を楽しむとは考慮すべき事情が根本的に異なるという話である。子供を産むことがお金を理由に諦めていい問題ではないとすると、子供を育てられない人はどうすればよいということになるのか。国は助けなければいけない、より具体的には、お金がある人、みんなで援助しなければいけない、と考えることになる。

 このように国が、また直接子供を産むわけではない他人が援助をしなければならない理由は何なのか。子供を産むことがお金で諦めてはいけない問題だと考える理由は何なのか。考えられる一つの価値判断は、人間に根源的に保障される権利である、といったものである。漠然として何を言っているか伝わりづらい。簡単に言うと、そういう行為を認めようとするのが日本あるいは人類の文化、道徳、多数派大衆の共通見解だ、ということである。人間として当然でしょう、それを保障しないでどうする、といった話である。これは結局、当然の自由としてどれくらい国民が他人に協力的であることができるか、日本の国民はどれくらい心が広い人々かという話である。文化的水準の高さと言ったような話になる。心が広い文化ほど水準が高いと評価されやすい。

 もう一つ、子供を産む人を援助する理由として考えられるのは、国家、あるいは共に生きることを求める共同体としては、将来活きていくために子供が必要だということである。つまりは、現在生存している最も若い者が生きるためには、その者が老いたときに生活を支えてくれる存在、すなわち子供が必要となる。ここから、国家の目的から子供を産むことを推進する必要があるという考え方につながる。これは窮極的には、子供を産むことを義務化してもよいという考え方にはつながる。これは子供を産むことを推進あるいは強制する必要性がどれくらいあるのかという計算をすることになろう。

 

 以上の価値判断は、前回までの検討で基礎としていた、自由であればなんでもよいという価値判断とは異なる。これに伴って、実は保育園の存在理由も異なっている。前回までで検討していた保育園は保育をすることで利益が上がることを念頭に置いていた。つまり商売の一態様として考えていたものである。そして、その利用者は、子供を預ける料金より多額の収入を少なくとも得ることが出来るという、中級階級の層を対象としてた。

 しかし、国が援助すべきという価値判断から産まれる保育園はこれとは異なる。まず、利益を上げる目的で存在する施設ではない。子供を産み育てる国民の活動を援助するために国から与えられる施設である。またその利用者も中級階級に限られてはならない。階級関係なく下から上まで利用できるものでなければならないのである。

 そうすると、保育園を利用したいと望む者らから利用料金をあまりとれない、ということになる。また極端に言えば利用料金はとるべきではないということにもなる。これが保育園の無償化である。

 この保育園の存在意義から生まれる弊害が、保育士の給料の向上が需要の量に沿わないということである。給料が上がらないのであれば保育士になる者が減り、保育園が減る。これが保育園が足りないとされる理由である。

 

 では、保育士の給料を向上させればいいのではないか。そもそも無償化した場合、保育士の給料はどこから出るのか考えれば、それは国家あるいは街全体であるという話に他ならない。しかし、国や町は多様な事項にお金を使う必要がある。子供を産み育てることを促進するより優先課題が存在しているとすれば、給料の向上もままならないということになるだろう。

 

 保育園の増えない理由を説明するならば以上のようなことになる。国家の間の政策として何が優先されているかをここで議論するのはやめておこう。

 

 

 最後に、ここまでの検討にあげられていない価値判断があるやもしれぬし、時の魔術師自身がいずれかの価値判断を支持するものではないことを付言しておく。