先が見通させるということは幸せなのか、不幸せなのか。
どう頑張ったとしても可能性がないことを悟ったら、どうするだろうか。
そこで諦めてほかの可能性を見いだせればよいが、そうでなかったから。
何も知らずに頑張り続けることのほうが幸せなのかもしれない。
結果を取るか努力の過程を取るか、過去を取るか現在を取るか未来を取るか。
未来が決まっておらず、努力次第で変えられるからやる気が出る。
先が見通させるということは幸せなのか、不幸せなのか。
どう頑張ったとしても可能性がないことを悟ったら、どうするだろうか。
そこで諦めてほかの可能性を見いだせればよいが、そうでなかったから。
何も知らずに頑張り続けることのほうが幸せなのかもしれない。
結果を取るか努力の過程を取るか、過去を取るか現在を取るか未来を取るか。
未来が決まっておらず、努力次第で変えられるからやる気が出る。
人はなぜ他人のために手助けや優しさをかけるのだろうか。
さまざまな理由があるだろうが、何かしらの見返りを求めているのであれば、
見返りが手に入らないことでいいことをしたにもかかわらずストレスが溜まるだろう。
例えば、何かをしてあげて貸しを作ったと思っていて、自分が困ったと時に返してもらおうとしたが、
それが叶わなかったら、怒りを覚えるか惨めに感じるだろう。
その場で感謝されるだけでも喜びを感じるという人でさえ、相手が思ったより反応が薄いとか、
当然と思われたりするとストレスを感じることになるだろう。
ストレスがたまるのは期待値に対するリターンが低かったから。相手の反応はコントロールできず、
不確実だから時にそういうことが起こる。
だから、期待値は低くして、自己でコントロールできるようなポイントをターゲットにすればよい。
いいことをすれば、自分の中の徳が高まるとか、いいことポイントが貯まるとか、すればするほどいいんだ
と思い込む。相手は自分がいいことをするチャンスをくれたんだと思うと、逆に感謝したいくらいだろう。
そうなると、相手に対する期待値はゼロなわけだから見返りがなくても反応が薄くてもストレスが溜まること
はないし、少なくともいいことができたわけだから満足できる。
相手から感謝されたり、困ったときに助けてもらえたりすると、相手は借りを返しているに過ぎないかも
しれないが、自分自身は期待していないのに思いがけずもらった感謝や善意なのでとても嬉しい。
ということで、いいことしたら見返りを期待せずにその場で自己満足してしたことを忘れるといいらしい。
人生においてパートナー選びが幸不幸を左右するとしたら、
1.己を幸せにする人に受け入れられない不幸、
2.己を幸せにする人を受け入れない不幸、
3.己を不幸にする人を受け入れる不幸
のどれが一番不幸なのだろうか?
1はその時不幸を感じるが結局0のままである。
2は本人はその時は不幸を感じることはないし、あとで後悔するとしても0のままである。
3は関係を断ち切らない限り、不幸が継続する。
相手を幸せにする男M1と相手を不幸にする男M2、
相手を幸せにする女W1と相手を不幸にする女W2がいるとしたら、
M1W1は幸せな家庭
M1W2、M2W1はどちらかが我慢している家庭
M2W2は破綻するかしている家庭
と言える。
たとえば、選ぶ選ばないの選択肢があるとしたらゲーム理論では(Mの得失、Wの得失)とすると
M1
選ぶ 選ばない
選ぶ (10,10) (0,0)
W1
選ばない(0,0) (0,0)
M1
選ぶ 選ばない
選ぶ (-10,10) (0,0)
W2
選ばない(0,0) (0,0)
M2
選ぶ 選ばない
選ぶ (10,-10) (0,0)
W1
選ばない(0,0) (0,0)
M2
選ぶ 選ばない
選ぶ (-10,-10) (0,0)
W2
選ばない(0,0) (0,0)
誰もがM1、M2、W1、W2の見分けがつくとするとM1W1の家庭しか生じないので、M2、W2および若干のM1またはW1が残ることになる。
M2、W2がM1、W1であるかのように装ったりしてM1、M2、W1、W2の見分けが全くつかないとすると、選ぶ選ばないの判断はリスクを取るかとらないかの判断になる。
現実的には少なからずどちらかまたは両方が不幸な家庭があるのだから、前者と後者の間にあるということだろう。
とすると、昨今の晩婚化、非婚化は
・未婚者の相手を見分ける知識や能力を保有率が高まり、M2、W2が余っている。
・一人でも十分楽しいリスク回避的なM1、W1が相手の見分けがつかなくて選ばない。
・M2、W2がM1、W1を装う努力をしなくなってきた
が原因ということか?
優しさには2種類ある。
自発的優しさと義務的(規則的)優しさ
自発的優しさは大きさはどうあれ、相手に好意をもって楽しませたり、喜ばせたり、苦しみや悲しみを軽減させたりする。
一方、義務的優しさは好意の有無によらず、仕事上のマニュアル、しきたり、一般常識に従った形の上で親切な行動である。
店員がお客にありがとうと言ったり、訪問する際は手土産を持っていったり、飲み屋でお酌をするなど。
義務的優しさはルールの教育だったり、失敗して気まずい経験をするなどしながら身につくだろう。
それは、危険回避的行動に基づく適応であり、心がこもったものではない。むしろ面倒くさい、できればやりたくないという代物である。
自発的優しさは相手が喜んだり、楽になる様子を見ることによって、満足感が得られるので、それを再び行う欲求が強化される。自発的優しさは回数を重ねれば重ねるほど欲求が強化されるので、実践することによって身につくものと言える。互いに自発的優しさを持ち合わせていれば、相乗効果で好循環となるだろう。
優しさをもらうばかりの人は自発的優しさをかけずとも満足感が得られるので、自発的優しさが身につかないかもしれないし、甘やかされれば義務的優しさすら身につかない。
そんな人に対して、自発的優しさをかけたとしても思ったより喜ばれない。すると期待程満足できない、むしろ不満がたまることになるだろう。
すなわち、自発的優しさを掛け続ける人は相手の反応に対する期待を如何に低く抑えるかが自らの幸せの鍵となるわけだ。大した反応がないというスタンスを維持しながら、良い反応があった時に大いに喜ぶことによって、満足度を最大化できる。