「無試験」で東大や京大に入れる「私立高校」が昔はあった
――今も名門校として知られる「4つの高校」の名前
武蔵、甲南、成蹊、成城
(設立順)
「自前の大学」よりも
「帝国大学」
私立七年制高校の誕生
「大正自由教育」の担い手たちは、小学校や中学校に飽き足らず、より高度な教育機関の設置を目指した。1918年、公立・私立の高等学校開設を認め、また修業年限を本則7年(中学に相当する尋常科4年・高校に相当する高等科3年)とする第二次高等学校令が制定された。
この法令によって、日本に4校の旧制私立七年制高校が誕生する。
いうまでもなく旧制高校は、東大をはじめとする帝国大学にダイレクトに接続する「予備教育機関」としての役割を担う学校である(天野郁夫『高等教育の時代』)。私立の学校が、制度的に学校体系の最高点にたどりつけるルートを手に入れたことになる。
1922年に武蔵高等学校(東京)、
1923年に甲南高等学校(兵庫)、
1925年に成蹊高等学校(東京)、
その翌年に成城高等学校(東京)
がそれぞれ開校する。
成城の澤柳も甲南の平生も、官立の学校群とは異なる考え方で学校を運営した。
問題は、彼らの学園が帝国大学に直結する高等学校を開設する道を選んだことであった。高校卒業生は、定員以内であれば無試験で
東大や京大に進学できる。
そのことは同時に、文部省の方針から逸脱する教育は厳しく監視され、統制されることを意味する。つまり「大正自由教育」の担い手の理念は、帝大への事実上の進学権と引き換えに、幾分か犠牲にされることになる。
甲南の平生にせよ、成城学園を指導した小原にせよ、究極的には最高学府たる大学を自前で創設することを目標にしていたといわれている。自前の学園で教育を完結しなければ、早晩理念が危機に瀕することは、彼らも承知だった。
だが甲南の場合は、大学設立の発起人にしてパトロンである久原房之助(のち逓信大臣、立憲政友会久原派総裁)の久原商事が第一次世界大戦後の恐慌で破綻し、また伊藤忠兵衛(二代目、伊藤忠商事社長)ら学園経営に参画する財界人も苦境に陥ったことなどが原因で頓挫した(『甲南学園50年史』)。
成城の場合は、「東洋一の大学」を自前で作ることを熱望した小原とは対照的に、保護者から成る「後援会」が大学ではなく高等学校の設立を決議したという経緯があった(『成城学園六十年』)。
「私学出身者は何処に行つても官学出身者より低く評価されるのが日本の社会的しきたりで、この陋習が打破されるのは今明日のことではないといふことも既に見透しがついてゐること」だからである(『成城文化史』)。