【澤柳政太郎】大正時代にかけての文部官僚。文部次官。東北大総長。京大総長。成城学園の創立者。 | 「ポートレート スタジオ ファイン」 =「ファイン メディア コンテンツ ジャパン」

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2021/10/09 

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澤柳政太郎, by Wikipedia

  https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3... / CC BY SA 3.0 #戦前日本の学者 

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澤柳 政太郎

(さわやなぎ まさたろう、1865年5月17日(慶応元年4月23日) - 1927年(昭和2年)12月24日)は、

近代日本の文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。 

大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。 

文代学長部次官。

 東北帝国大学初代総長・京都帝国大学第5代総長・成城学園創立者・大正大学初。

 子の一人に、美術史学者となった澤柳大五郎がいる。 

 

大学の自治をめぐり澤柳事件を引き起こし辞職した。 澤柳の最大の業績は成城小学校での〈教授の実験〉によって、「教育上の問題を実験的に研究して解決する」という近代教育学の方法を確立したことである。 

 

その結果、文字教育における「読み先習の法則」を発見した。 

また文部次官時代には小学校教育から変体仮名を廃止し、子どもたちの文字学習がスムーズに進むような改革も行った。 

歴史的仮名遣いも子どもたちや教員を苦しめていたため、澤柳はその廃止も行ったが、保守派の反対に遭って短期間に終わり、敗戦後の1946年の「現代仮名遣い」制定によってようやく実現した。 

 

信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・澤柳信任の長男として生まれる。 

1875年(明治8年)に長野県開智学校下等小学校から

東京師範学校附属下等小学校(現・筑波大附属小)へ転校。 

その後、東京府第一中学変則科(のちの府立第一中学、現・都立日比谷高校)に入学。

 同級には親友の狩野亨吉、上田萬年、幸田露伴、尾崎紅葉などがいた。

 

 のち、教育令改正のため、第一中学から新制大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に繰り上げ入学をし、

帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学哲学科を卒業。

 同郷の辻新次の誘いにて1890年に文部省に入省、同年に文部書記官となる。

 

 また、東京専門学校(後の早稲田大学)や哲学館(後の東洋大学)で心理学や社会学を講義し、「心理学」(1890年)、「倫理学」(1891年)を出版している。 

 

1893年大谷尋常中学校校長、1895年群馬尋常中学校校長、

1897年第二高等学校校長、

1898年第一高等学校校長を歴任。

 

 1898年11月に普通学務局長として文部本省に戻り、1906年2月まで約7年強の長期に渡り在職し、第3次小学校令にみられる初等・中等教育の整備に尽力する。 

 

1906年(明治39年)から2年間文部次官に就任。 校長歴任中より義務教育の延長を提唱し、文部官僚時代の1907年(明治40年)、小学校令を改正して4年から現在の6年の課程に移行させた。 

また、同年に奈良女子高等師範学校の開設、東北帝国大学や九州帝国大学の創設を決定。 旧制高等学校を増設し、旧来の藩閥の弊から脱却、全国から人材を登用する扉を開いたとされる。

 高等商業学校校長(校長事務取扱 1898年11月24日 - 1899年3月25日)を経て、

1911年(明治44年)3月24日に東北帝国大学初代総長、

1913年(大正2年)5月9日に京都帝国大学総長(第5代)を歴任。

 東北帝国大学では、「門戸開放」という理念のもと、1913年(大正2年)に全国に先駆けて女子に帝国大学の門戸を開いた。 

京都帝国大学では、大学の刷新のため7人の教授を総長の権限で解任しようとして、これがスキャンダルとなる。 その7人の教授(医科大学1名、理工科大学5名、文科大学1名)の中に、大学(分科大学ごと)の自治(人事を含む)を唱える教育学者の谷本富もいた。 1914年(大正3年)春、法科大学(現在は法学部)教授会の抵抗に遭い、逆に自身が京都大学を追われることになる。 「沢柳事件」と呼ばれるものである。 

 

その後、陸軍士官学校の予備校として名高かった成城学校(現・成城中学校・高等学校)の校長に就任。

 

 文部官僚時代の澤柳は、官尊民卑に基づく官公立学校至上主義によって私学の排斥を行っていたが、野に下ってからは積極的に私学も奨励した。

 

 同校内に新教育の実験校として、1917年(大正6年)4月4日、成城小学校を創立した(成城学園の起源)

 

 ここに広島から、

長田新の推薦により小原國芳を訓導として招聘し、

以来、成城学校は大正自由主義教育運動の震源地となる。 

 

沢柳も1898年(明治31年)にドゥ・ガンの『ペスタロッチー伝』を訳したり、1909年(明治42年)には『実際的教育学』を書くなど、新教育の指導者としての役割を担った。 1916年...