成城学園を高く評価、息子に入学を勧めました。私の父は東京都第二学区から第一学区トップ高校の教諭。 | 「ポートレート スタジオ ファイン」 =「ファイン メディア コンテンツ ジャパン」

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小尾 乕雄(おび とらお、1907年明治40年)7月29日 - 2003年平成15年)2月23日)は、主に昭和時代に活動した教育者である。山梨県北巨摩郡長坂町(現北杜市)出身。

東京都教育委員会教育長学校法人文教大学学園名誉学園長・学園長・理事長文教大学立正女子大学)・文教大学女子短期大学部立正女子大学短期大学部学長財団法人日本青年館理事長、日本私立短期大学協会会長などを歴任する。

 

小尾 乕雄(1907-2003)日本の教育者。

 駒場高校で教諭を勤めたのち、

東京都教育委員会教育長に就任。

 在任中にいわゆる小尾通達を出し、

都立高校の進学指導を中止させる。

 

私の父は、都立駒場高校(府立第三高等女学校)よりレベルの高い、

都立戸山高校(府立4中)から

都立日比谷高校(府立1中)の教諭でした。

教科書、参考書、模試の問題作り。

学研、旺文社、倒産した向上社。

 

 

家庭では父から毎日、

東京都教育長、小尾 乕雄氏に対する批判と嘆きを聞かされました。

 

私は学校群で21群。

新宿、駒場の学校群で、

都立駒場高校に在学していました。

 

トヨタ張富士夫会長、

森山真弓議員

加藤登紀子、

吉永小百合(1年生のみ)氏は

は先輩です。

 

 

父の遺品を整理していた数年前、

父が駒場高校2年生担任に、

「息子が左翼思想で申し訳ない」と謝りの手紙を書き、

担任の先生が「今は左翼思想でもやがて社会がわかるでしょう」との返事の手紙を見つけました。

 

都立駒場高校では、

修学旅行から帰ると

バリケードで学校封鎖、

2年生の半分がストライキ、

勉強はできません。

 

井の頭線駒場東大前駅の北側が東京大学、

駒場東大前駅の南側が、

筑波大学駒場高校、

駒場東邦高校、

都立駒場高校。

 

東京大学の学生紛争の影響を

もろに受けました。

 

考えすぎの私は、

心身ともに参っていました。

 

親友が統一教会・原理運動で行方不明。

学生紛争で、警察につかまって、牢獄の学生もいました。

 

一橋の経済、早稲田の政経、中央の経済、

現役ではすべて落ちました。

 

東京大学も京都大学もマルクス経済学。

東の法政、西の立命館が、

左翼の牙城でした。

 

マルクス経済学ではなく、

近代経済学の大学をめざそうと思いました。

一橋大学と慶應大学が近代経済学。

慶應大学経済学部は苦手の数学が受験科目にあり、やめました。

 

 

週刊誌で、今からでも、願書提出して受けられる大学の記事があり、その中で、もっともよかったのが成城大学。

成城の2期募集に現役でひっかかりました。

 

成城大学は、当時、一橋大学の分校でした。

成城大学の学生でも、理解できるように、

やさしく、丁寧に、教えていました。

「ケインズ経済学」のゼミナールでした。

学部長のゼミナールです。

卒業論文は「現代のインフレーション」

全国的な金融機関に就職しました。

就職ではペーパーテストで合格しました。

 

 

還暦を過ぎたある日、

お茶の水の東京医科歯科大学で、

都立駒場高校の2年生担任のS先生を中心とする駒場卒業生の勉強会に参加しました。

埼玉医大教授である高校3年の同級生からの情報です。

 

約50年ぶりに再会し、

私の高校時代の思想の誤りをお詫びし、

現況を伝えることができました。

 

 

私の父は、できの悪い息子が、

「成城大学」2期募集にひっかかったことを喜び、

私にたいして成城大学に進学することをすすめました。

 

成城学園の教育、

富裕層・経営者が多い環境、

環境が変われば、子供の

生き方、考え方も変わる。

 

父は成城学園の教育を、

高く評価していました。