さて今回のプラン、ここからが本番です。


実は、各武将の陣地を体験すべく、歩く予定になっていました。

レンタサイクルもあるのですが、戦国の距離感を実感するべく、あえての歩きです。


まずは、記念館近くの東首塚へ。


これまでに関ヶ原を何度も通っているし、なんなら林間学校で関ヶ原自然の家に子どもの頃に宿泊していますが、普通に関ヶ原古戦場を歩くのは初めて。

林間学校は、薄暗い山とかばっかり歩くから。


小学生の頃には

「⚪⚪の部屋はお化けが出る!」

なんて怪談で宿泊前には盛り上がったものです。

(実際はお化けではなく、網戸の大きな穴から侵入した大きな蚊の出現に悩まされましたぼけー)



しかし記念館で受けた説明によると、家康の命により関ヶ原の領主である竹中氏が東軍西軍関係なくしっかり弔ったため、これまでそういった話はないそうです。


その弔った場所の一つが東首塚。

実は井伊直政と家康の四男の陣を置いた場所です。



関ヶ原の戦いでは、家康から福島正則が一番槍の約束をされていたそうです。


しかし豊臣子飼いの大名に戦端を切らせることによる戦後の発言権など、影響を危惧した井伊直政が、家康の四男と諮って、偵察の名目で戦端を開いたそうです。



関ヶ原といえば、東西ともに大軍勢で、天下分け目の決意に満ちた大戦のイメージです。


しかし実は、東軍は家康の直轄軍は少ないのでやや不安(息子の秀忠の軍は真田に足止めを受けて間に合わす)。


一方西軍は、総大将の石田三成は石高も軍勢も少ないため発言力が低い上に嫌われていて、指揮権がしっかり確立されていない、いわばお義理で集まった軍勢(しかも調略を受けていて、裏切り者を内包)。



石田三成が負けた後、居城である彦根の佐和山城が陥落した時に、そこがあまりにも質素で何もないことに攻め手側が驚いたって聞いたこともあります。

(彦根と関ヶ原ってめっちゃ近いです。)


質素倹約、欲が少なく、お堅く義理がたいっていう「真面目ないいやつ」だったのかもしれません。


でも力を持たないものは、理想があれどもいざというときに意見を省みられず、大切なものを守れないということですね。


(ここら辺、世界の中の日本の立ち位置とかとダブって考えさせられるものがあります。)



それはともかく、両軍ともに不安を抱えていたと思うと、見え方が変わりますね。




約束と違う!ムキーと怒った福島正則がその後に突っ込んで本格的に合戦がスタートしたそうです。


私たちはこの東首塚のある井伊家の陣跡から次は家康が最後に陣を置いた場所まで歩きました。


歩いても10分もかからない程度の距離。

ほんの目と鼻の先です。



そこは記念館の真横。

床几場と呼ばれています。


記念館の展望室からは、最初に陣を置いた桃配山も、烽火場である丸山(竹中家陣跡)も、石田三成の笹尾山もちょうど中央部のようになってよく見えました。



そしてまた少し歩いて岐阜市方面に向かうと細川家の陣跡です。

ここは小さな川沿いで少し高低差があります。

今では児童公園になっていたのですが、ちょっと低くなっているせいか、やや暗い印象でした。


細川家といえばもちろん、キリシタンである妻の細川ガラシャが、光成に人質にされることを避けるために自殺まがいの死に方をしたことが有名。


明智光秀の娘で、宣教師も書き残すほど大変な美女だったガラシャ。


(光秀の妻も元は美人だったけれど、結婚前には病気で容貌が変わってしまったとか。それでもその女性を選んで、愛妻家として有名だったあたりに、光秀の人間性も見えますね。)


夫である細川忠興には、愛されていたけれどねぇ。


そもそも父親も最初の頃はド貧乏!

大河の麒麟がくるで、日々の生活に困るシーンもありましたね。


父親の信長への謀反(というより下克上か?)でお咎めから守るためとはいえ山奥にがっちり閉じ込められる生活して、心が病んじゃってたみたい。


しかも夫は嫉妬深く、とんでもないモラハラ野郎(妻と目があっただけの庭師の首を斬って、ガラシャの膝の上に投げたとか何とか?

ちなみにその血まみれの着物をずっと着続けたガラシャも強者!)だし、もう苦難の連続。



戦国のお姫様は、江戸時代のお姫様と違って叩き上げが多いからさすがに根性が違いますよね!



もちろん妻への執着をしていた忠興は、光成絶対に許さん!という怒髪天の状態。


笹尾山にもかなり近い布陣ですし、ヤル気満々だったんだろうなぁと感慨深いものがあります。



そこからは竹中、黒田家の陣跡の丸山に登りました。


竹中家は関ヶ原の領主だけあり、他の武将たちの配置がきれいに一望できる場所で、なおかつ石田三成の笹尾山にも近い絶好の位置取りです。


右斜め下には件の細川家の陣営跡地。

右前方側、はるか奥の松尾山には小早川秀秋の陣地が見えます。

(その距離感とか山の高さを見ると、小早川やる気ねぇなって感じます。)


そこからハイキングルートで池を回ってしばらくすると、最終決戦地と石田三成の笹尾山です。


これも徒歩10分ほどでしょうか。



笹尾山の麓では、地元のおもてなし武将とおぼしき黒い甲冑姿の侍が仁王立ちして写真撮影に応えていました。


最初は動かなかったので、撮影用のマネキンかと思っていましたが、ちゃんと人間でした。


この日はまさに五月晴れで、気温もぐんぐん上がっていたので、全身黒づくめは大変だったと思います。


ちゃんと島左近さんの名前の旗が立っていますね。


この島左近さんの背にしている小山が笹尾山。
登って5分ほどで陣地に到着です。

そこには見晴らし台と布陣図が設置されていました。


そこには同じくおもてなし武将の小早川秀秋さん(小柄な女性)がいて、関ヶ原合戦の解説をしてくれます。

小早川秀秋は西軍を裏切ったのではなく、もともと東軍についていたことにめちゃめちゃ力を入れての解説でした爆笑笑い

いや、ご本人なだけに、気持ち良いほどの小早川秀秋びいき!

今年の大河ドラマは家康だし、関ヶ原合戦で小早川秀秋がどう描かれるのか、楽しみにされているそうです。

それをいえば、今年の明智光秀が足利義昭と共に思いきったくそヤローなんですが、麒麟がくるを見ていたし、なんだかモヤモヤします。

これが、麒麟がくるで出来たイメージを裏切るためにこのテイストで最後まで行くのか、実は…とどんでん返しがあるのか、かなり注目しています。