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気が向いた時に、面白いことがあったらつづっていく、なまけものブログです。
イギリス、スケートに興味のある方、お立ち寄りください。(記事中の写真の無断転載はご遠慮ください)

昨日、部屋の中を整理していたら、フィギュアスケートDays, という雑誌がでてきた。

 

2010-2011年版と言うのを見ると、まず表紙がこれ。

 

当時日本スケート界をけん引していた、高橋大輔選手が表紙の大きな部分を占めている。そして、小塚選手、織田選手、羽生選手が載っている。

 

 

このシーズン、羽生選手はまだジュニアからシニアに上がって1年目だった。この秋のNHK杯で、初めてISU公式戦で4回転を成功させ、全日本では4位。続く4CCでは銀メダルを取った。まさに、「新たなる時代の幕開け」というところだろう。

 

中を見ると…。

 

1ページ目に、阿部奈々美さん振り付けの「ホワイトレジェンド」が。この衣装も、振り付けも、大好きです。

 

 

阿部先生は、この当時の羽生さんの長所を十分に引き出す振り付けを知っていましたよね。

 

4CCでのチゴイネルワイゼンも、とても良かったですよ…。

 

私はこの姿を絵にしたものを、2012年フィンランディア杯に持って行きました。

 

 

雑誌では、このシーズンのフリーであるチゴイネルワイゼンの写真も。

 

 

そして、このころはまだ、4回転ジャンプをプログラムに入れる難しさを語っていました。

 

「ようやく世界ジュニア王者を実感」としたサブタイトルの中で、以下のように語っています。

 

 

 

当時は、まだ4回転ジャンプに苦労していたようですね。

 

 

 

この時はまだ15歳のはずですが、すでにプログラムの流れの中でジャンプやステップをやりたいここからジャンプだ、というふうには見せたくないと言っていますね。

 

まだ4回転が安定していないとしながらも、4回転をプログラムの一部として一体化していきたい、と。

 

これは夏のプリンスアイスワールドの休憩時のインタビューだったようだが、「ノービス、ジュニアの国内タイトルを制覇し、世界ジュニアの金メダルも手にした。周囲からの期待は高まる一方だが、、本人はいたってひょうひょうとしているところがとても彼らしい。そしてすらりとしたスタイルと繊細な表現力とは正反対の、骨太で強い意思。まだ15歳ながらにして、様々な面を持つ彼は、これからどんなスケーターに成長していくのだろうか。まずはシニアデビューと言う大きな節目を、楽しみながら乗り越えてほしい」と、結ばれている。

 

この後、2011年あけて、東日本大震災があるのだが…。その時繰り返し出演したアイスショーでは、このシーズンのSPである「ホワイト・レジェンド」を繰り返し滑った羽生選手であった…。

 

 

翌年、2011-2012年の男子シングル読本は…

 

 

当時も、群雄割拠でしたね。

 

海外選手として、パトリック・チャン、アルトウール・ガチンスキー、ミハル・ブレジナ、ジェレミー・アボット、フローレン・アモディオ、ステファン・ランビエル、ジョニ・ウイアなど懐かしい名前が。

 

目次ページにはこの写真。ネーベルホルン杯のガーラでしょうか。

 

 

 

 

羽生選手の特集ページでは、スクリャービンの演技写真。暗いので、どこかのアイスショーですかね…。

 

 

 

 

スクリャービンの「悲愴」については、「ショートは最初あまり良い印象じゃなかった」という羽生さん。 震災のあと、「題名に悲しみっていうテーマが入っているし、滑っていて聞こえてくる曲のイメージが自分の中では波とか海とかそういうイメージで。最初は荒々しい波というイメージ。その後に曲調が変わってイメージ的には太陽が照り付けていてすごく青い海って感じ。その後もう一回曲調が変わるところは、海の恵みを与えている感じ。このプログラムで生命の力強さを表現しようと思っています」と。

 

 

 

そして「今季のカギは4回転」という羽生選手。

 

この当時は、トップ選手でも一つのプログラムに4回転(サルコウかトウループ)を1回組み込めれば良い方でした…。

 

 

 

2011-12年のフリーは、ロミオとジュリエット。「映画をまだ見ていないし、駆け落ちって言葉自体よくわからない!」と言っていた羽生選手。

 

 

 

 

「羽生さんのロミジュリには、ジュリエットが見えない」というインタビュアーに、「そうなんですよ、僕がやっちゃうとジュリエットがいなくなっちゃうんで、観客の方に僕のジュリエットになってください、みなさん!」と懇願する羽生さん。 このころ、16歳。

 

 

 

そして、同じフィギュアスケートDaysの2012年10月版では、羽生さんが表紙に。 2012年の夏には、彼はカナダはトロントのクリケットクラブに移籍。

 

この年の10月には私はフィンランドに初めての試合観戦に向かい、「オペラ座の怪人」に直接遭遇した…。 ニースの世界選手権には仕事の都合もあって出かけることができなかったので、その後のフィンランディア杯にはぜひ行きたかったのだ。

 

このころには、日本にも「羽生ファンクラブ」なるものができ始め、若き羽生選手のことを中心に書くブログが乱立しはじめたのである。

 

 

 

 

「最強スケーターへの過程」として組まれた特集。

 

 

 

 

2011年の全日本から2012年のニースの世界選手権までの間に、ファンからの手紙を読んだという羽生さん。 自分は日本代表であって、震災の影響で出してもらってるんじゃない。一人の選手としてやりたいと思っていた時期もあった、と。

 

しかし、ファンからの手紙を読んで、自分は支えている立場じゃなくて、支えられている立場なんだと感じた、という。世界選手権のショートの時までは、まだ変わり切っていなかった、ショートの前に怪我していたので、その中で4回転を降りてよくやった、観たいな感じを持っていた。自分一人で頑張ったって。でも母親にそれは違うよね、と言われた、と。

 

「怪我したのだって自分のせいだし、助けてくれたり応援してくれる方もたくさんいるから、ここまでできたんだよ、って。夜9時ぐらいまでご飯を食べながらそんな話をして、自分の考えは違うことが分かった。手紙を読んで気持ちが変わってきていたこともあり、次の日のフリーは全然違う気持ちで。名前をコールされて、リンク中央に行くときもずっと目をつぶっていて。「自分は確かに選手で、これは自分の戦いかもしれないけど、自分一人の力では同省もない。結果や順位もとりたいが、一人の力ではどうしようもない。母親との話の中で、応援を受けてがんばろうじゃなくて、応援を受け取り、それを力に変えようと、応援の力をそのまま自分の中に取り入れた」という。

 

「あのフリーは何度も見返し、いろんな国の解説も聞いた。パトリックが「この大会で一番輝いていたのはユヅル」と言ってくれたことがすごく響いている。自分が生きてきた17年のなかで一番ずっしり来る、重く入り込んだ試合だった、自分の人生の中で大きな試合だった」と振り返った。

 

また、クリケットに行ってから、基礎の基礎をやり直していることについて、「ほんとにスケーティング、ストロークとかスリーターンとか。推すときの感覚、後は上半身の高さとかラインとか、今までの自分の概念に新しい概念を入れて行ってどんどん良くしている。自分の中でできていると思っていたことができてないって言われて、すごく悔しいんですけど、でもそういわれることによって、「もっときれいにできるんだ」って思える」と。

 

私もイギリスに戻ってきて、しばらく試合のプログラムとかやらなくて良いので、基礎の基礎をまた徹底的に見てもらっている…。つまり、エッジワーク、すべてのターンのやり直し、フリーレッグの形、つま先、上半身の姿勢などなど、本当に基礎のファウンデーションだ。

 

しかし、ここがおろそかだと、ジャンプもスピンもうまくいかない。なので、何度でも基礎に戻ってやり直すことが本当に大事ということをコーチたちは知っている…。

 

確かに、基礎をしっかりやりなおすことで、羽生さんのスケーティング技術は格段に良くなり、ひと蹴りの距離がうんと伸びた。滑り始めて、3ー4歩でトップスピードに入ることができる。ブレードを正しく使って押し出すのと、体重移動が正確だからだ。

 

その効果をプログラムの中でも実感できたのだろう。スケーティングを直してから、プログラムの大きさも変わってきた、と言っている。そう、少ない歩数で目的の場所に行ってしまうので、変わってくるんでしょう。

 

スケーティングにまで注意を払うので、精神の削りようがハンパない、と羽生さん。トレーシーには「いま油断してたでしょう」とすぐに注意されるという。

 

そう、楽そうに滑っている箇所でも、優雅に、そして効率よく滑るには、全身の筋肉を使い、そのためには集中していないといけない…。

 

だから、2分、4分のプログラムでも、信じられないぐらい精神的・体力的エネルギーを使うのだ。スケートって、優雅に見えて、実は大変に過酷なスポーツなのである。

 

 

基礎は大事。基礎を磨くことで、エレメンツの質も上がる。

 

 

しかし、羽生さんは、4回転を実に綺麗に跳ぶ、ハビエル・フェルナンデス選手の存在が大きくてクリケットに移籍したので、もちろん4回転の練習もやっていた。

 

自分がイメージを失ってしまって跳べなくなったとき、そばにイメージをくれるハビエル君がいることは大きかったそうだ。そして、負けず嫌いの彼には、ライバルがそばにいることは良い刺激になっただろう。

 

できないからって落ち込んでる場合じゃない。すぐに立ち上がってこなくては…。

 

 

 

 

カナダに移ったばかり、言葉もよくわからない中基礎からやり直しという状況で、いろんなストレスもあっただろうが、前向きにとらえて笑顔をみせている羽生選手。

 

この時、まだ17歳。

 

 

 

 

 

 

また、フィギュアスケート日本男子、ファンブック。カッティングエッジ2012年版。1月発売なので、まだニースの世界選手権前である。 おそらく17歳になったかならずかのころ。 表紙はこちら。 当時の大先輩のお兄さん方が。

 

 

 

そして、羽生選手の特集ページは、「煌めく新星」として、40-49ページと、9ページもさかれている。

 

 

 

まだ幼さの残る羽生選手、かなり饒舌に色々と話している。

 

その中で、「ソチまでにもっともっとレベルアップしていくためには、追われる立場に立っておきたい。僕がもっともっとうまくなるためにはもっともっと、他の選手にもうまくなってほしい。他の人が巧くなったらさらにそれを僕が追い越して、またうまくなれるから。みんなで切磋琢磨していくためにも、まず僕が強くなっていきたい。だから今年から、全日本の優勝を狙うぐらいでないと、ダメなんです。 早く一番になって、みんなを引っ張って、時代を変えるスケーターに…、うん、なりたいですね!」と。

 

 

 

試合について、「楽しみです!だって、試合ほど楽しみなものはないですから、時々「試合が嫌い」っていう選手がいるけれど、「じゃあどうして練習しているの」って思う。試合のため、試合で勝つために練習してるんでしょう?だから試合は楽しい。いやもちろん、ミスったら悲しいよ、悲しいし、悔しい。でも勝てたら楽しいでしょう! そのために、勝つために、僕らは練習してるんだから!」

 

 

 

 

そしてインタビュー後の記者は以下のようにまとめる。

 

「百獣の中にあって、ただ一匹の肉食獣、羽生結弦。ちょっと生意気なほど勝気な少年は、今、勝つためならばなんだってするだろう。勝つためならばどんな苦難だって乗り越えるし、どんな経験もパワーに替える。勝つためなら、どこまでだって強く、美しくなるつもりだ。あらゆる才能、多彩なセンス、恵まれた身体、そして努力する力。すべてを持っている彼の何よりも大きな武器は、この、誰にも負けない強い精神。たぶん時代を変えるのは、彼のこの強い心意気だ。スポーツと芸術のはざまで危うく成り立っているフィギュアスケートと言う競技を、ひとつ高いところへ、ひとつ強いものへ押し上げる、そんな大役を担うのは、羽生結弦、彼の強靭な精神力ではないだろうか」

 

 

 

この後、ニースの世界選手権で、文字通り世界に「羽生結弦」の名前と演技の記憶を否応なく刷り込むことになるのだが…。

 

そして、上記の別の雑誌で述べているように、彼はそこから「見てくれているファン、応援してくれている人たちのために滑る…」ようになる。

 

被災地の人々のために、優勝、メダルという記録は必要。しかし同時に、「なんのために滑るのか」を考えるようにもなった。

 

自分の演技には、人の心に届けるメッセージがあることに気が付いたスケーター。

 

 

彼の躍進はここから始まる…。