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私は中学、高校、大学のすべてで運動部系のクラブに入っていたが、どれも弱小でいわゆるスポーツで学校の知名度に貢献する、というタイプのクラブではなかった。

 

というか、そういうクラブは避けていたといった方が当たっているかも。

 

そもそも大学以外はずーっと公立の学校だったし、特に私が中高生だったころは、制服すらろくに着なくてもOKなぐらい、自由な校風だったのである。

 

学校内で先輩風を吹かせる人は少なかったと思うし、そういう人らがいるようなクラブやグループにも遭遇しなかったんだろうと思う。

 

クラスのなかでも徒党を組んでいる連中からは距離をとっていたし、それでいじめにあったということも記憶にない。

 

同じように自立してきままな感じの人らとバラで付き合っていたし、そのころの友人たちがいまだに仲良くしている人らであって、これまでなんのトラブルもなく付き合いの距離の取り方も心地よいものなのである。

 

 

すべて人間は平等である、と言ったのは誰だっけ?現実社会でそれはなかなか難しいけれど、民主主義国家の日本では、少なくとも「法の下に人はすべて平等」という理念のもとで教育をしているのではなかったっけ?

 

なのにたかが学校のクラブで、1年や2年年が上だからといって、「先輩・後輩」をつくり、先輩が正当な理由もなく後輩に威張り散らすとか、なぜOKだと思っているんだろうと、自分が中学生のころから思っていた。 もし「先輩」に理不尽に威張られたら、あっというまに言い返していたと思う。

 

そういえば、イジメのようなのを経験したのは、息子の小学校のPTAが最初だったかも。 学校のくだらない規則の色々に(公立校で制服もないのに冬でも長ズボンはダメとか、ジーンズは禁止とか)反対したら、「運営委員会の三役さん」とかいうオバサンたちが3人集まって「あなたはこの地域に新参で知らないだろうけど、この学校では昔からこの規則があるのよ」とやってきた。なんでも校長に頼まれたらしい。

 

この人たちは、スーパーなどで出会いこちらが挨拶をしても無視をしたので、2-3回挨拶をした後は学校で出会っても一切挨拶をしないことにした。すると、当時その学校のPTA会長という地域の自民党区議の男性から呼び出しがきて、「あんたも海外経験があって色々ご意見もおありだろうが」おとなしくしろ、という脅しを受けたものである。海外経験?そんなもの、何の関係もないのに持ち出すあたりが笑止。

 

そのあとは私もPTAの運営委員会に積極的にかかわり、いろんな無駄なものを廃止し、警察を呼んでの自転車の交通安全教室など「前例がない」と学校が渋るものも、必要があれば積極的に行った。「出る杭は打たれるけれど、出過ぎた杭は打たれなくなる」という樋口恵子さんのアドバイスを実行したのである。(当時彼女はPTA問題研究会というのを運営していて、私もそのメンバーだった)

 

いくつもの地域の小学校をまたがっての子どもたちキャンプも夏・冬を通して主催し、よその小学校のお母さんたちともつながった。当時は「学校の言うことはすべて正しい」とお上には逆らわないお母さんたちが多かったのであるが、楽しいことを次々とやるので、最初は遠巻きにしていた人たちも、だんだんPTAの問題に気が付いたり学校との建設的な話し合いの必要性も分かり始めたんだと思っている。よその学校のPTAで頑張っているお母さんたちとのつながりも心強かった。みんな手探りだったのだ。

 

こういった経験を通し、日本では先生や学校という権威者に逆らわないのはもとより、学校内のPTAであっても上下関係を作ろうとする特徴が強いことがわかった。「高学年のお母さんの言うことにはさからわないほうがいい」とか、「三役さんの言うことは聞かないといけない」などである。PTAの委員会で、1年生のお母さんが学校に対してなにか意見を言うなんてもってのほかだ、ということなんだろう。まずは、三役さんに相談するのが筋だ、と。(しかし、相談すればそこでストップされるのが関の山)

 

学校も含め、ある組織に属していると、その中で個を大切にすることを忘れがちなのは、今でも日本社会の大きな問題であると思っている。学校内のいじめがあって自殺者がでても、被害者を非難したり、被害者の遺族に口封じをしようとするような保護者がいることも問題だ。個の意見や権利を守る前に、集団の利や、集団の平安が尊重されるのである。

 

今回の宝塚の事件を見ても、内部の人たちはそこで起きている異常事態に鈍感になっており、その中で起きている問題を外部に相談することすらできなかったという。もし内部の問題を家族、友人、あるいはその他の外部に漏らしたりすれば、まるで裏切り者のように批判されるというではないか。ここでは個人の権利ははく奪され、個人の苦しみや悲しみは、軽んじられる。

 

 

 

先輩の言うことは絶対で、叱責(ハラスメント?)を受けても、「はい」と言ってきくか、謝罪させられるかどちらかであり、言い返したり言うことを聞かなかったり、ということはありえないという。 いったい「先輩」がどれほどのものだろうか。 たとえ「上司」であっても、言われることに100%同意する必要はない。そうするほどのどんな恩を受けているというのだろうか。

 

英語では、Respect should be earned. という言い回しがある。 尊敬を受けるには、それなりの根拠が必要だということだ。ただ「先輩」や「上司」という肩書があれば、人から尊敬されると思うな、ということである。尊敬をされる人には、尊敬されるだけの言動がともわなければいけない。

 

廊下で先輩と後輩が出会えば、後輩は壁際に平たくなってよけて、先輩に挨拶をしなくてはいけないという。その図を想像すると、思わす笑ってしまうのだが、この時に笑いたくなる対象は、威張りくさって通り過ぎている「先輩」の方である。 

 

宝塚の「先輩」たちは、後輩たちが従いたくなるような尊敬できる言動をとっていたるのだろうか? ただ年次が上がっていって、過去には自分が受けていたひどい仕打ちを、今度は先輩になったから後輩にしてもかまわない、と思っていたのではないか? これは、人権侵害だという意識がまったくないのではないか?

 

組織として、宝塚歌劇団は、なぜそのような人権侵害が繰り返されている状況を放置してきたのだろうか。なぜそのような、「問答無用の上下関係」の文化を何十年も保ってきていたのだろうか。そして、中の「生徒さん」たちから、なぜ反旗を翻す人があらわれなかったのだろうか。

 

これも、ジャニーズの子どもに対する性加害と似た構図がみられるのだ。

 

被害にあっているのは、弱者。加害をしているのは、組織の長だったり、先輩だったり、権力を持つ側であり、被害者の将来のチャンスを握っている連中、ということである。 逆らえば、自分には将来のチャンスが巡ってくる可能性が低くなる、あるいは意地の悪い先輩たちから、標的になるという恐れだろう。

 

ジャニーズでも、先輩たちから「今晩はお前がいって、襲われてこい」などという声掛けがあったという証言も出ているが、私は日本社会の中での「先輩・後輩」文化は、もうなくした方がいいとぐらいに思っている。そのぐらい、メリットよりもデメリットの方が大きいんじゃないか、と。 その文化の中で、意識しないうちに著しい人権侵害が行われているのだ。

 

クラブ活動などで、先輩が後輩を呼び出してリンチしたりするのも、それが許される文化があるからだろう。 自分の行いが暴行という「犯罪」だという意識もないのだろう。

 

今回の宝塚のような事件を聞くと、なぜそのような上下のある人間関係をある組織が意識的に維持しているのか、自分たちが直接に支配しなくとも、「先輩」という人たちが厳しく下のものをコントロールしているから楽だというなら、ヤクザなんかの組織とたいしてかわらない。若い人たちを預かる組織として、あまりにも、無責任ではないか。

 

 

 

先日の歌劇団側の記者会見は、上記のようなことを考えつつ見せてもらったが、通して自己保身に終始しており、労働基準法に反した労働時間を(有無を言わさぬ証拠を出されたため)認めたのみで、虐めやハラスメントに関してはまっこうから否定したと言ってもよいものだった。 これでは、今後もその体質を改善しようという姿勢はまったく見られないと思われても仕方がないだろう。

 

パワハラ発言、あるいはやけどをさせられたと遺族が訴えている点に関しては、「証拠をだせ」とまで発言しているが、上記のような理由で、現場を見ていた劇団員から証言をしようという人が現れる可能性は、大変に少ないんじゃないか。だれも、自分が一番かわいいものであるし、そういうパワハラが「あたりまえの日常」と思って育ってきている人たちなんだから、人権意識なんて低いだろうし。

 

遺族側の弁護士が、宝塚側の会見を見て、彼らのパワハラ=指導という言い訳を聞き、「1時代、いうや2時代も遅れた考え」と非難したが、確かに、「ジャニーズやビッグモーターの記者会見よりひどい」とSNSで批判の嵐だというのも、うなずける。 

 

このまま、口を拭ってうやむやにしたまま済ませようというのなら、ジャニーズと同じように、ファン以外の一般社会の人たちの目はますます厳しいものになるだろう。

 

いや、ファンですら、今回の記者会見の内容を見聞きして「がっかりした」と言っているのである。 

 

夢を売るはずの華やかな舞台の裏で、こんなドロドロした醜い争い。ファンだってうっすらわかってはいただろうし、芸能界ならトップ争いも嫉妬もあっただろうが、これは超えてはいけない人権侵害のラインを大幅に超えている。

 

これまで築いてきたものを今後も続けていきたいのなら、隠ぺい体質を改めて、今後このような悲劇が再発しないよう、起きてしまったことはしっかりと検証し認めて、改善していくことが必要だろうに。

 

生徒さんたち、また劇団員の人権をしっかり守れるような組織作りが必要なのではないだろうか、それでなければ、親は安心して娘たちを預けることができないじゃないか。

 

私も親類に宝塚にあこがれていた子がいたが、行かせなくてよかったよ、といまさらながらに思うのである…。

 

ジャニーズしかり、宝塚しかり、若い人たちを預かる組織は、もっと子どもの人権について、認識を改めてほしいと心から思うのである。

 

そして日本政府は、小学校のころから子どもたちに「あなたたちの持っている権利はこれこれですよ、これを侵害する人がいたら、周りの大人に相談してください」としっかり教えてほしい。

 

子どもたちが自分たちの人権を知り、それを守ることができなければ、他人の人権を尊重することなど学べないのだから。 日本人の人権意識は、あまりにも低すぎる。

 

 

日本は近年、子どもの義務を要求する「道徳教育」に熱心だが、子どもの権利について教えることにはあまり熱心ではない印象。

 

国連では条約の原則や内容をおとなにも子どもにも広く知らせることや、条約を実施するための仕組みなどが定められている。 国連児童の権利条約に批准している日本政府はそれに従う義務があるのに。

 

体罰を受けたり、性加害を受けた時、子どもが「これは相談していいこと」と判断できるよう、子どもの人権をしっかりと教えるべきだ。それが国や大人の義務だと思っている。

 

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国連子どもの権利条約は、すべての大人がしっかり知っておく必要がある。

 

子どもの権利条約は全部で54条ありますが、大きく4つに分けることができます。 

 

1. 生きる権利
2. 育つ権利
3. 守られる権利
4. 参加する権利

 

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41条以下には、条約の原則や内容をおとなにも子どもにも広く知らせることや、条約を実施するための仕組みなどが定められています。

 

全文はこちらに。

 

 

 

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「子どもの人権」日本で理解進まないのはなぜ? 国連の「権利条約」世界158番目批准から28年、やっと議論開始:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

 

子どもの人権に根強く反対しているのは、旧統一教会や日本会議といった右派宗教団体が後ろについた議員だったりすることは、「子ども庁」という名称を「子ども家庭庁」に変えさせた議員たちを見てもわかる。家庭で虐待を受けた子どもにとって、家庭は地獄だという理由で、「子ども庁」に決まっていたものを一部自民党議員に覆された、という経緯がある。彼らはこの間「子どもの留守番は児童虐待」を埼玉県で法制化しようとした「親学」一派の議員である…。

 

こども庁「こども家庭庁」への名称変更はトンデモ「親学」を提唱する日本会議・高橋史朗と自民党極右勢力の仕業だった!|LITERA/リテラ (lite-ra.com)