お部屋のリフォームではない。 Constitution, 憲法の改正(リフォーム)の話である。
おとといのセミナーのテーマはそれだった。日本の大学からサバティカルをとって、ロンドン大学、LSE(政経学部)に1年間、客員の研究者となってきている先生に、日本の憲法改正について、お話をしていただいた。この先生は、かつてLSEでPhD(哲学博士号)をとり、今は日本の大学で教えていらっしゃるが、英語がたいへんに上手である。そして語学としての英語だけでなく、欧米人のロジックを熟知していてその話の流れが大変に分りやすいので、英国人が舌をまくほどである。こういう学者さんがもっと増えてくると、日本の大学のレベルも世界から認知されるようになるのに、と思った。
さて、日本の憲法改正は、イギリスのメディアも注目している。安部内閣の右傾化もかなり話題になっているぐらいだから、憲法9条をどうするのか、気になるところらしい。おそよ、欧米では「世界平和を保つために、他の国が若者を兵隊として送り出し、blood and tears(血と涙)で貢献しているのだから、それをしない日本は、国連の常任理事会入りはできない」という理屈である。
そして、日本の憲法改正論者もそこを前面にだして、議論をする。「世界平和にどうやって貢献するのか」と。 前回、自衛隊に関したセミナーでも夕食会でその点が議論になった。
私は「日本の一般人は自衛隊の紛争地の派遣に関してどう考えているのか」と聞かれて、「兵隊になる年頃の息子を持つ母親の、ごく普通の感情を述べさせてもらいます。まず、よその国の戦争に自分の息子が送られて殺されるかもしれない、という状況は普通の母親ならば、冗談じゃないという気持ちになるでしょう。なぜなら、その戦争がイラク戦争のように、誰かの利益のための戦争であって、正義のためだと言う確信がもてないからです。ブッシュとその友人が石油を手に入れるために起こした戦争であり、大前提であった核兵器は、イラクのどこにも見つからなかった。そんな戦争に息子を送り込み、殺させた政府を一生許さないと言うアメリカ人は大勢いますね。」と返事をした。
さらに、それが途上国やアラブ諸国の市民戦争であり、たとえばシリアなどの生物兵器、化学兵器の大量殺戮をストップするための、あきらかな人道的な介入であったにしても、外交的手段を使い果たしたという状況でなければ、戦争に突入すべきではない。 Just war theory というのがある。正義の戦争と言う概念は存在するのか、という議論である。こちらにとっては正義である行動が、あちらにとっては侵略であったり、殺人であったりするのだ。戦争とは国家の使う「暴力」であり、「暴力」の駆使については慎重に慎重を重ねてもまだ足りない。暴力を使わずにケンカを収めることが、「成熟」ということではないのか。
また、金はだすが人を出さないといって非難する欧米人もいるが、朝5時から深夜1時まで、ろくな残業代もなく働き、うつ病になったり自殺率の高い日本のサラリーマンの血税から、巨額のお金を湾岸戦争にも、イラク戦争にもだしているはずだ。これを軽く見てもらっては困る。これを軽く見られないようにしっかり宣伝することが外務省の役目ではないのか。日本は、日本の憲法にあったやり方で貢献しているのだ。
国連常任理事国になれなくてもいいではないか、と私は言ったことがある。というか、第二次大戦後、戦勝国だけで作った常任理事国など時代遅れ、もう廃止してしまえばよいのだ。常任理事国入りを条件に要求される9条の改正については、議論に議論を重ね、安易に結論を出すべきではない。憲法は、国の行動にブレーキをかける役割を持っている。ブレーキのない暴走車を政治家が運転するほど怖いことはない。安部内閣のアジェンダのトップに憲法改正があることは、少し不安にならざるを得ない。96条を改正することで、憲法の土台に揺らぎがでるかもしれない。
とはいえ、諸国ではたびたび憲法を改正し、時代に合わせてきていることも事実だ。必用な改正は加えるべきかもしれない。しかし、その都度、十分な議論が必要である。だが、安部首相の原発政策などを見ていると、反対意見の人を外して十分な議論無しに決定を急いだりしているところが不安を掻き立てるのだ。民主主義の本質を見失わないでもらいたい。反対に、国民投票により物事を決めるといういかにも民主的な提案も入っているが、これも案外に危険をはらんでいる。上手に煽動することで、民度の低い社会はどうとでも操作できるからだ。
日本で戦後、憲法改正がこれほど論議されたわけは何故だろう?
まず、「これは本当に日本人の憲法か?」という議論がある。アメリカの占領下、アメリカから押し付けられた憲法ではないか、という議論だ。
次に、朝鮮戦争後、再軍備した日本が、米ソの「冷戦」にかかわるべきか、そして軍備を持つ日本は、大戦前の帝国主義国家にもどるのではないか、という議論である。
岸内閣からつづく戦後の憲法改正の論議は、日本の民主主義を問う議論であり続けた。しかし、1960年代以降、いったんその議論は沈静化し、1990年の冷戦後の「ピースキーピング」のトレンド、いわゆるPKOに参加するかどうか、という時点で憲法改正の議論は再燃したのだ。そして、安部内閣ははっきりと憲法改正に舵を切った。そして国家及び公的な利益の前に、個人の自由を制限する改正を提案している。
このセミナーで一番印象に残ったのは、教授の最後の質問である。憲法改正で、日本が直面している以下の問題の解決はできるのか?
中国の世界的パワーとしての台頭
日本の政治的リーダーシップの不安定
長期にわたる経済的な不振
少子高齢化社会
減り続ける中産階級と増え続ける所得格差
地域による経済的な格差
先日、アベノミクスのセミナーでも、英国の経済学者が指摘していた。日本の経済不信の根っこにある問題は、少子高齢というデモグラフィック(人口動態の問題)である。またOECDから繰り返し指摘されているように、所得格差とワーキングプアの問題である。目先の金融政策や経済政策ではなく、まず少子化に効果的な対策をたてること。それから貧困層をなんとかすることが、危急の課題ではないだろうか。
憲法の話は難しいが、1983年に発行された赤塚不二夫の「日本国憲法なのだ!」と言う本が、またヒットしているそうである。
私もこれを読んで、勉強しようかな。