【作品#0970】宗方姉妹(1950) | シネマーグチャンネル

【タイトル】

 

宗方姉妹

 

【概要】

 

1950年の日本映画

上映時間は112分

 

【あらすじ】

 

宗方忠親と義理の妹である満里子が話していると、パリから帰ってきた田代が訪れる。後日、田代の仕事場を訪れた満里子はかつて姉の節子と両思いだったのに結婚しなかった理由を田代に問いただす。

 

【スタッフ】

 

監督は小津安二郎

音楽は斎藤一郎

撮影は小原譲治

 

【キャスト】

 

田中絹代(三村節子)

高峰秀子(宗方満里子)

上原謙(田代宏)

笠智衆(宗方忠親)

山村聰(三村亮助)

 

【感想】

 

松竹で映画を撮り続けていた小津安二郎が新東宝に招かれて製作された大佛次郎の同名小説の映画化作品。

 

小津映画の中でも陰気な映画の部類に入るだろう。後の「東京暮色(1957)」の方がよっぽど暗くて内向きな作品だった。それに比べると本作はまだほんわかした空気が辛うじて残っている。

 

亮助はおそらく妻の妹である満里子に言われたことで妻の節子との離婚を決意する。本作の亮助からは優しさの欠片も見当たらない。節子は仕事がないからだと庇うように言っているが、満里子の言うようにそれだけが亮助が優しくない理由にはならないだろう。亮助の態度を良く思わない満里子は姉の節子に離婚を促すようなことを言っている。そこで節子は結婚は良い時もあれば悪い時もあると満里子を諭しているが、これは後に振り返ると自分に言い聞かせているようにも思えてくる。

 

実際は両想いだった節子と田代はタイミングが合わずに結婚することはなかったが、満里子はその事実にあまり納得がいっていない。好きなことは好き、嫌いなことは嫌いと言える満里子だからこそ、どう見ても幸せそうに見えない姉夫婦の元へかつて両思いだった相手が返ってきたのだから尚更だ。

 

本作を見る限り満里子が亮助を唆して節子との離婚を促し、田代には節子への思いを再確認させる。そして映画の終盤で亮助は心臓麻痺で突然死してしまう。これで節子と田代が結婚するなんていうところへ向かわないのが本作。上述のように結婚には良い時も悪い時もあるというのが節子の考えだ。本作では描かれないが亮助に仕事があった時は節子の言う「良い時」だったのかもしれない。ただ、本作で描かれる亮助は仕事がなく、安い居酒屋で酒を飲み、家ではずっとしかめっ面をしているだけだ。挙句の果てに節子の頬に七発もビンタを食らわしている。これが節子の言う「悪い時」だとしてもこの上なく酷い話だ。それでも節子の言う結婚のうちにこれも入るというのなら他人が口出しすべきではない。

 

ただ、何事にも限度というものがある。昔の映画やドラマで男性から女性へ、あるいは女性から男性へのビンタなんてしょっちゅう見かけたものだが、こんなことをされてまで結婚生活を続ける必要はないと思う。それでも節子は亮助との結婚生活をやめようとは思っておらず、妹の満里子が独身で正反対の性格をしていることから意地になっているんじゃないかとさえ思えてくる。

 

節子と満里子はとにかく正反対の性格だ。節子が終始和装であることに対して満里子は洋装である。節子が伝統を重んじる保守的な性格であるのに対して満里子は流行を追いかける奔放な性格である。また、満里子は新しい世代を象徴するかのように、英語に堪能で、家具という言葉が出てくるとわざわざ「ファニチャー」とまで言っている(この演出はちょっとあざとい気もするが)。洋装だけでなくカタカナ言葉も出てくるし、満里子が何度も押し掛ける田代はパリ帰りで彼の仕事場には和とは正反対のものがずらりと並んでいる。

 

これは後の「東京物語(1953)」の両親世代に対する子供たち世代にも言えることだが、新しい世代が時代を作る、言い換えれば古い時代を壊していくものなのだ。小津安二郎監督は別にこれが良いとか悪いとか言っておらずそういうものなのだという姿勢なのだろう。本作でも笠智衆演じる姉妹の親の忠親はどちらの言い分も否定しておらず、自分のしたいことをすれば良いとはっきり言っている。

 

忠親が発する「戦争があった」という言葉。本作が製作されたのは1950年なので終戦からまだ5年。戦争であらゆるものが壊された。それでも本作に登場する薬師寺のように残っているものがある。ラストで田代が「昔と変わっていない」というのも象徴的だ。ただ変わらないものもあるし、変えなくていいものもある。だからこそ、節子は夫の亮助を突然死で亡くしても、あっさり田代のところへ行こうとはしない。たとえ夫の亮助を亡くしても節子にとって結婚生活はまだ続いているのだ。

 

年を重ねれば重ねるほど生活も保守的になっていくのかもしれない。さらにそこへ疑問を投げかける満里子というリベラルな存在が現れる。本作の描き方だと節子は自分の考えや伝統を尊重しているのか、リベラルな満里子の存在に対して意地を張っているのか、はたまたそれ以外の何かの理由があるのかそれは分からない。にしても、満里子が亮助を嗾けなければこんなことにはならなかった。

 

また、満里子はどう見ても幸せそうに見えない姉夫婦の結婚生活を破壊し、両思いだった田代と再婚させようと試みる。何かを我慢してまで伝統を重んじる必要性がないと考えているのだ。それが最終的に亮助を突き動かし、節子に離婚を提案するに至るのだ。そこで両者納得の上で離婚させないというのも本作の面白いところ。

 

亮助の心臓麻痺による突然死には呆気にとられるほど驚かされるのだが、ここで亮助が離婚を申し出て節子が同意して離婚すれば満里子の勝利という感じになる。ところが本作はあくまで節子も満里子もどちらの言い分も正しいという風に描かれている。そうなればこの結末にするのも仕方がないと思える。

 

その亮助も死に際に仕事が来たことを話している。これが噓か誠かは分からないが、金銭面を妻の節子に頼っていた亮助なりの強がり、優しさだったんじゃないかと思う。おそらく失業してからの亮助は完全にヒモ状態だったわけだ。仕事を探す努力もせず、家ではぐーたら、外に出たと思えば居酒屋へ行くだけ。男が外で働いて女が家を守るみたいな当時の価値観からすれば亮助も外れた存在だ。だからこそ、新世代の満里子の言うことを真に受けちゃったのかもしれないな。

 

小津映画らしさは存分にありながらも、部分的には意外性のある展開や演出も見られる。やっぱりどの時代にも良いか悪いかは別にして世代間の考えの違いはあるものなのだろう。70年以上の時を経ても共感できる普遍性があるんだから、人間ってそう変わるもんじゃないのかな。

 

 

 

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