ぽっぷタイムマシン -2ページ目

ぽっぷタイムマシン

まともに働くことを拒否し、楽に稼いで早くクリエイティブワークに没頭したいと夢想する、そんな頭のおかしい僕の徒然日記(主に映画とか)。

家を決めたのが二週間前で、契約が一週間前。
そして引っ越しはこの3連休。

その間に間髪なしの転職もあり、かなりテンコテンテコ舞い舞いでした。

新居にはまだネットが繋がっていないので今まで以上に書き込みが減ります。
というより実質2ヶ月くらい書き込みないかも。

たまにネットカフェでちょろっと書き込むくらいかな。

2ヶ月間、TVもネットも無い生活ってどんなだろうか。
とりあえず本とDVDはたんまり持って行く。
これがいい勉強の機会になればいいと思う。
今週の土日に、一人暮らしするための部屋を探しに行った。
候補は2件。

一つは、部屋も広く、駅からちょっと歩くが、周りは静かで2階角部屋で、日当たり良好、風通しも良く、となりは女子大生。
もうひとつは線路沿いの一階、部屋はやや狭めで、バルコニーはあるが、電車がしょっちゅう通って埃を巻き上げるためあまり外に洗濯物は干せない。そのため、浴室乾燥機が付いている。そして駅から近い。

はて、普通の人なら間違いなく最初の物件を選ぶだろう。
自分でもその選択が正しいと、頭では考える。
しかし、直感は理性を信用しない。

もうひとつの物件、一年毎日朝から晩まで電車が隣を通過していくその物件に魅力を感じるのだ。
それだけではない。
最初の物件は、あまりにも普通の人間の暮らし向きで、発狂の予感が自分にはした。

もしかしたら、年中電車が横を通り過ぎていく部屋というのは、普通の人からすればその方が気が狂いやすいのかもしれない。
でも私にはそっちの方が優しい、そう感じたのだ。

迷いに迷い、結局最初の物件にしようとしたが、タッチの差で別の人が契約したと聞いたときは、正直私も驚く。
不動産屋に、どうしますか?、と聞かれ、なんのためらいもなく線路沿いの部屋に決めた。
最後の迷いを運命が動かしたのだと思った。
これから、蟻やらゴキブリやらナメクジやらと闘うことになるとは思うが、運命がそう動かしたのなら、その挑戦は受けて立つべきである。

迷いのある安全策より、決断できる危険な道の方が、きっと納得できる生き方に違いない。
今はそう信じて生きていく。
人と話すのが苦手と言うわけではないのだけれども、それでも話したいとは思わない。
相手が話してくれるなら一生懸命聞きますが、やはり自分から話そうとは思わない。

自分のものを相手に伝えるのは難しい。
自分の中にあるものはなんでも漠然としたイメージで、言葉で伝えられることは、同じく言葉でインプットされた知識以外にない。

ところが知識だけの会話は虚しい。
本当に誰かを理解したり、または自分を理解してもらうには言葉にならない、この漠然としたイメージの共有以外にないと思う。
しかし、言葉によるイメージの共有は難しい。

言葉からイメージを喚起させるには莫大なボキャブラリーと教養が双方に必要になる。
さらにその両方とも知識ではなく、すでにイメージとして自分の中に固着するほど使い込まれていなければならない。
そんなこと出来るのは、作家と詩人だけ。

結局は僕は、無口のままだ。
Vフォー・ヴェンデッタを観る。
CMを観た感じと、プロデューサーと脚本がマトリックスチームなので、てっきりアクション映画だと思っていたら意外とサスペンスっぽい部分が多いこと。
まぁアクションを期待していた訳ではないからいいのだが。

映画としての出来は如何と云われれば、決して良くない。
まず台詞での説明が多い。
原作は、80年代のイギリスのコミックらしく、おそらく、あまり工夫もせずに漫画と同じ手法で映画を作ってしまったのかなと感じる。
このへんはゲドと同じ臭いも感じてしまった。

それとカットの切り替えが早い。
監督が撮影に際してあまり計画を立ててないことが丸わかりである。
カットの切れ目がおかしいとところもチラホラ(カットそのものがおかしいところもチラホラ)あった。

それでもいいなと思ってしまったのが、伝えたいことがあるな、と感じるところだ。
映画としては駄目でも、何か伝えたいことがあれば観られる作品になるということ。

問題点は山積みだが、ただ格好良ければいいと考えて作られた作品(『マイアミ・バイス』とか)よりかは全然良作だ。
しかし、こんな作品が良い作品だなんて言ってしまう辺りが、世界の娯楽映画産業が衰退している証拠なのだろうな。
どうも人とうまく渡り歩けない自分がいる。
このままどっかに行きたい気持ちがある。
今いる世界が狭い世界とわかっていても、嫌なものは嫌だ。