朝、出かけようとしたら雨が降ってきた。
「うん、これもいいじゃないか」
傘を取りに帰って、ウキウキ気分で傘を差す。

なんだか悪寒がすると思ったら、どうやら熱が出てきたようだ。
「うん、これもいいじゃないか」
食事を済ませたら、テレビも見ずに布団にもぐる。
あー、布団の中で横になっていると気持ちいい。

魂は、すべてを知っている。
出来事は、すべて私自身のため。
悪いことが起こるはずがない。

幸せ探しゲームの少女パレアナ。
どうやら彼女のレベルをクリアできたみたい。
だって、もう理由は必要ないから。

どんなことが起きても、それは私にとって良いこと。
人生には良いことしか起こらない。

それがわかったから、すべてが変わった。
不安が全くなくなった。
怒る必要性もなくなった。
ラッキー!ツイてる、ツイてる。

幸せになったら、幸せなことが起きるようになった。
これも「引き寄せの法則」。
毎日が楽しくて楽しくて。
本当に、本当に、ありがとう。
すべてはひとつ。
そのことに気付いたら、すべてが変わった。
周りの状況は何一つ変わらない。
でも、私の見方が変わったのだ。

街中でぶつかってくる人がいる。
今までは、ただ腹立たしかった。
相手が悪い。
その思いに、自分自身が苦しめられていた。

しかし、今は違う。
ぶつかってくる人さえ愛しい。
なぜなら、それは私自身だから。

すべてはひとつ。
他人というものは存在しない。

それは仏の教え、エホバの教え、アラーの教えだ。
仏陀は言う。
色即是空、空即是色。
神は言う。
私はアルファでありオメガである。

もし私が空の一部でないとしたら、仏陀はウソをついたことになる。
もし私がアルファとオメガの間にいないとしたら、神はウソをついたことになる。
この世に、空=神以外の何かが存在すると考える方がおかしい。

すべてを許せ。
そうキリストは言った。
そもそも、許すことなど必要なかったのだ。
強いて言えば、自分自身を許すことだけ。

他人が私にぶつかった。
それは私が自分でぶつかったのと同じことだ。
事実は変わらない。
見方が変わっただけ。

でも、それだけで怒りがなくなる。
それだけで不安がなくなる。
それだけで、いつでも幸せになれる。
数日前に、里子たちのプロフィールが届いた。
全部で30名分だ。

さすがに多い。
一人ひとりの情報に目を通す。
みんな新中学1年生だから、年齢はほぼ同じ。

住所は、タイ東北部。イサーン地方と呼ばれる。
タイの中でも比較的貧しい地域だ。

ある程度豊かになったタイ。
中学校は義務教育なのだが、それでも通えない子がいる。
授業料は無料だけど、教材や制服などを買うお金がないのだ。

プロフィールを見ていて、気が付いたことがある。
両親の離婚が多いのだ。
そして、保護者が親族となっているのも。

一人ひとりの事情は異なるだろう。
しかし、両親が離婚し、都会のバンコクに働きに出て、子供は親戚に預けられるというパターンがある。
戦後の日本にも、こんな時期があった。

温かい家族の愛情に包まれずに成長していく子供たち。
この子供たちが、いずれ大人となってタイの社会を作っていく。
この子達に、せめて自分で考えられる能力を身に着けてほしいと思う。
中学校で学ぶことは、その最低限のことだと思う。

支援がなければ、中学校へ行くことの重要性を理解せず、学ぶことをあきらめたかもしれない。
このわずかな支援が、その子を、その子と暮らす保護者を、ちょっとだけ後押しできる。


先日、ラオスの子供の支援者が少ないとの連絡が届いた。
今年は不況のため、支援が集まりにくいようだ。

私がやらなければ、いったい誰がやるというのか。
私にすべてのことができるわけではない。
私が運ぶ土はわずかであっても、私も山を動かす人々の中の一人になろう。

そう思って、5人分の援助を申し出た。
プロフィールは年末くらいに届くという。
また、里子の仲間が増える。

今年は、追加した25人分の、2年生時の支援金を払う必要がある。
さらに3年生時の分を合わせて支払うか、あるいは新たな里子を増やすか。
思案しているが、来月にも結論を出さなければならない。

まあきっと私のことだから、また無茶なことをするのだろう。
かまうことはない、あるだけ出してしまえ。
しょうがない、そういう性格だから。
以前私は、自分には愛がないと考えていました。
愛は流れるもの。
だから、その愛で自分が満たされなければ、他へ流れ出す愛の根拠がないと。
十分に愛されれば、あふれ出し、他の人を愛せるのだと。

しかしいくら求めても、愛の泉は自分の外にはありませんでした。
いくら探しても、親も、恋人も、子供も、友人も、愛の泉にはなりません。

外にないものを外に求めて、どれだけ多くの人が苦しんでいることか。
私も、その一人だったのです。


でも、今は愛を自分の外には求めません。
あるときから、考え方が変わったのです。

愛の泉は、自分自身の中にあることに気づいたから。
「幸せの青い鳥」と同じように、すべての本質は自分自身の中にあったのです。


だから今、私は愛を求めて誰かを愛することをしません。
誰かに愛される必要性がないから。

愛は、枯れることなく私の中からわきあがってきます。
私の中には、愛より他に何もないから。
私の本質は、生命の本質は、愛だったのです。

彼女が優しくしてくれるから、彼女を愛するのではありません。
尊敬できる友達だから、愛するのでもありません。
いつも受け入れ愛してくれる家族だから、愛するのではないのです。

ただ愛したいから愛するだけ。
理由は、私が愛そうと決めたから。


愛した相手が喜んでくれたら嬉しい。
他の人が私を愛してくれたら、なお嬉しい。
でも、それが私が愛する理由ではないのです。

ただ愛したい。
愛と一体になりたい。
私の本質としての愛を、この世に表現したい。

それで十分なのです。
他には何も要りません。
私が私らしくあること。
ただそれだけのことなのです。
タイで会社の経営に携わっている。
もう何年になるだろうか。

その間に、何人もの社員が入社しては、また辞めていった。
今また、2人の社員が辞めようとしている。

入社して3年目。
やっと教育して仕事ができるようになったところで辞めていく。
もうちょっと高い給料がほしいから。
タイでは一般的な、ステップアップを望む人たちだ。

しかし、経営者としては痛い。
苦々しくもあるし、文句の一つも言いたいところだ。


だがふと、3年位前に辞めていった1人の社員を思い出した。
彼は自分の理想の仕事に就きたいと願いつつ、私たち経営者のことも慮ってくれた。
最後は、彼のために辞めることを認めた。

例外的に、辞める前に彼を食事に誘った。
これまで勤めてくれてありがとうという、感謝の気持ちを表したかったから。
よくやってくれたし、何より気を使ってくれたことがうれしかった。


その彼と、今辞めようとしている2人の社員と、どれほど差があるだろうか。
この2人も、よく働いてくれたし、普通以上に評価をしていた。

そう思ったとき、彼らを恨むことがばかばかしいと思った。
そんなに違いはないじゃないか。
ただ私が、違うと決めていただけ。

この2人も、本当に良く働いてくれた。
短かったけど、会社や私たちのために貢献してくれた。

ただ私が「裏切られた」と感じただけで、本質はそうではない。
人は、もともと自由なのだ。

出会いがあって、別れがある。
その中で、その人との交わりをどれだけ意味のあるものとできるか。
それだけが私が私の責任においてすべきこと。

人は、いつか去っていくもの。
だとしたら、気持ちよく見送ってあげよう。

ただ、ありがとう。
私の人生に関わってくれて、ありがとう。
いろいろと考えるきっかけを作ってくれて、ありがとう。

あなたたちがいなければ、私はそういうことに気づかなかったかもしれない。
私は、あなたたちを心の底から受け入れよう。
あなたたちは天使だから。

私に、あることを気づかせるためにやってきてくれた。
そのためだけに、私の人生に訪れてくれた。


そう考え出したら、涙が止まらなくなった。
この世に、誰一人として無駄な人はいない。

私を怒らせた人も、私の人生に関わってくれた天使だった。
その人のお陰で、私はいろいろなことを考えられたのだから。

出会う人、出会う人、そのすべてが天使だった。
ただ、嬉しくて、嬉しくて、ありがとうと言うほかないと思った。

ありがたくて、ありがたくて、涙が止まらなかった。
あー、この世には感謝することしかないなあ。
私は、本当に幸せだなあと、しみじみと思った。

里子の支援を続けて、もう何年になるだろう。

ある日、なんとなく目標は100人の里子を支援することだと書いた。


そのときは、それは遠い先のことだろうなと思っていた。

実際、1人を3年くらい支援するとして、100人なんて想像もできなかった。


でも、完全に無理だとも思っていなかった。

ただ目標というか予想をして、放っておいただけ。


ところが、それがにわかに現実になりそうになってきた。

それは、ダルニー奨学金という制度との出会いからだ。


日本からだと、1人の里子を1年間支援するのに1万円かかる。

基本的には中学生の支援なので、3年間支援することになる。


他が月に4千円以上するのに対して、1/5以下という安さだ。

さらにこれがタイで支援すると、1人1年で2千バーツになる。

レートにもよるが、約6千円弱ということだ。


これならもっと多くの子供たちを支援できる。

もっと多くの子供たちに、「ラッキー」という気分を味わってもらえる。


今年、新たに5人の子供の支援を申し入れた。

3年間で約10万円ほど。

今の私にとっては、それほど難しい金額ではない。


それが先日、今年の支援者が減って、まだ500人以上の待機児童がいると連絡があった。

さすがに500人全員は無理だし、そんなことをしてはいけないとも思った。


だったら、今の私として、どれだけの支援をするのか?

あれこれ考えた末に、25人を新たに支援したいと思った。

ただし、今年支払うのは1年分だけ。


今年から、新たに30人の里子が増えることになった。

まだプロフィールは届いていないが、楽しみだ。


フィリピンの里子も、長く支援してきた2人が、今年で支援が終わることになった。

今、新たな里子が紹介されるのを待っている。


目標の100人の里子。

早ければ5年以内にも達成しそうな勢いだ。

やはりこれも「引き寄せの法則」が働いているのだろうなと思った。


ただ、単に数が増えることを望んでいるのではない。

できれば、こういう支援の必要性がなくなることを望んでいる。

目標の100人を達成したら、支援の方向性を再検討したいと思っている。

不器用で、何をやってもダメな「わたし」がいる。

いつも失敗するし、何をやってもどんくさい。


がんばれ!「わたし」。

少しくらいうまくできなくたって、いいじゃない。



気が短くて、いつも毒舌を吐く「わたし」がいる。

関わる人の心を、まるで刃物のように傷つける。


がんばれ!「わたし」。

本当は愛されたく仕方ないんでしょ。



この世は広い、大きい、永い。

いろいろな生き方がある。

いろいろな生き方がしてみたい。

いろいろな生き方を選んだ「わたし」がいる。


がんばれ!「わたし」。

何百億、何千億の「わたし」が、生きている。


不器用な「わたし」を責めない。

不器用な左手を右手が責めないように。

気が短い「わたし」を責めない。

短い小指を中指が責めないように。


あなたは「わたし」。

別の生き方を選んだ「わたし」。

すべてはひとつだから。

本当は「わたし」しかいないのだから。


だから、応援するの。

がんばれ!「わたし」。

子供のころ、母から言われた。

私の友人は、何に対してでも自信を持って臨んでいる。

あなたは逆に自信を持っていない。


だからどうだとは言われなかった。

でも、幼心に何かとても重要なことを言われたような気がしていた。


それから数年して、少し自信がついたような気がしていた。

今までできなかったことが、少しずつできるようになったからだ。


でも、それは本物ではないことがわかった。

私が得たわずかな自信は、単に何かができたという経験を根拠にしていた。

身の回りの人と比較して、より多く持ってる、より高い能力があることなどを根拠としていた。


そんな根拠は、簡単に崩れてしまった。

崩されないまでも、崩されそうになると腹を立てた。

あるいはイライラして相手を不快にさせた。


今ならわかる。

何かを根拠にした自信なんて、何の役にも立ちやしない。

むしろ害があるだけだ。

尊大ぶった鼻持ちならないやつ。


根拠のない自信を持とう。

絶対的な自信を持とう。

強いて言うなら、その根拠は絶対的な愛だ。

絶対的な存在としての自分だ。


根拠のない自信があれば、何も恐れない。

何も不安にならない。

だから、尊大に振舞う必要がないから謙虚になれる。

相手と比較しなくても良いから、優しくなれる。

失うものがないから、与えられる。

誰からも傷つけられないから、いつも幸せでいられる。

多くの人は、「幸せ」を結果だと考えている。

自分は健康だ。だから幸せ。

自分は理想のパートナーと出会った。だから幸せ。

でも、それではいつも他の人や環境に振り回されることになる。

病気になってしまった。だから幸せじゃない。

大好きなパートナーからフラれた。だから幸せじゃない。

本当の「幸せ」は、結果じゃなくて原因なんだよ。

「幸せな態度」が、自分の現実を創るんだよ。

人は、思った通りの現実を創ること=創造しかできないのだから。

じゃあどうすれば「幸せな態度」でいられるのか?

必要なのは、強い信念なんだ。

強い信念は、正しい理解から生まれる。

それは、よく使われる「コップに入った半分の水」からわかる。

同じ半分の水を見て、「まだ半分ある」と思う人と「もう半分しかない」と考える人がいる。

事実は同じなのに、考え方は異なる。

一方は「幸せ」で、もう一方は「不幸」。

本当は出来事に、良いも悪いもないんだよ。

自分がそれを「良い」と思うか、「悪い」と思うかだけなんだ。

それがわかるかい?そう信じられるかい?

「物事には、必ず良い面がある。」 その信念が必要なんだ。

そしたら、「自分は必ず良い体験をする。」と言えるよね。

自信を持って、「自分に起こる出来事は、全て良いことばかりだ。」と言えるよね。

それが「幸せな態度」なんだよ。

それが「原因としての幸せ」なんだよ。

その信念を持てば、何も怖くなくなる。何も不安じゃなくなる。

だって、起こる出来事は良いことばかりなんだもの。

どうして感謝できないなんてことがあるの?

どうしてウキウキしないでいられると言うと?

そんなの不可能だよ。

ほら、もうわかったでしょ。

これが「幸せは いつも自分の心が決める」って言うことなんだよ。

生きているから、幸せなのではないのです。

もしそうだとすると、死ぬことが不幸になってしまうから。

 

愛する人がいるから、幸せなのではないのです。

もしそうだとすると、別れることが不幸になってしまうから。

 

何かをするから、幸せになれるのではないのです。

もしそうだとすると、何もできなければ不幸になってしまうから。

 

何もなくても、そのままで幸せなのです。

何もしなくても、そのままで幸せなのです。

 

愛は、増えもしないし、減りもしません。

生命は、増えもしないし、減りもしません。

 

ただあるがまま。それで幸せなのです。

全てのことは必然で無駄がない。だから幸せなのです。