2024年2月25日(日)。天気雨、雨、雨。

小田原の私小説家、川崎長太郎の作品に「ふっつ・とみうら」という紀行文があります。主人公である私が、歳の離れた妻P子との老若二人で、「東京湾フェリー」に乗って房総半島に行く話です。初出は1965(昭和40)年10月号の「群像」(講談社)で、この年の4月に横浜・木更津間のフェリー航路が開通しており、作品では6月にこのフェリーに乗ったと書かれています。川崎長太郎は、意外にも新しもの好きなんだと思いました。

私は、不覚にもこのフェリーが神奈川県・久里浜と千葉県・金谷とを結んでいるものとばかり思い込んでいたのですが、作品を読み返すと、横浜の高島桟橋と木更津との間だったことが分かりました。この航路は、1965(昭和40)年開通の僅か7年後、1972(昭和47)年にはなくなってしまっています。

というわけで、久里浜から金谷に「東京湾フェリー」で渡って、「とみうら」に行ってみることにしました。「ふっつ」にも行きたかったのですが、金谷から行くと時間的な制約があり、次回にとっておくことにしました。

京浜急行「横浜駅」から、特急三崎口行きに乗ります。黄色い1000形でした。

「京急久里浜駅」に到着しました。

ここから京浜急行バス「久7東京湾フェリー行き」にて約10分。

「東京湾フェリー」のターミナルに到着です。

「東京湾フェリー」の「かなや丸」に乗船します。
船内はゆったりしていました。
曇天の東京湾をかき分けながら、船は房総半島に向かいます。
30分ほどで房総半島・内房の金谷港に到着しました。快適な船内だったので、もっと乗っていたかったのですが。
金谷港のターミナルです。
車がフェリーから次々に出てきます。
昼食は、ターミナル近くのレストラン「ザフィッシュ」という所でとりました。金谷には、「孤独のグルメ」に出てきた店などもあるのですが、雨がいっこうに弱まらず、あまり歩き回る気になりませんでした。
地魚の漬け丼をいただきました。ごちそうさま。
天気は悪いのですが、南国風な雰囲気が。
♪Welcome to Hotel California~。
金谷港から歩いて7、8分ほどのJR内房線「浜金谷駅」へ。駅舎は年期を感じさせられ、待合室の様子など、私は小津安二郎監督の映画「浮草」(1959(昭和34)年)の、中村鴈治郎(二代目)と京マチ子がいそうな気がしてしまいました。
跨線橋から、Hotel Californiaを望む。
E131系電車。
20分ほどで「富浦駅」に到着しました。
「ふっつ・とみうら」からの引用です。
「私は、その儘駅前通りを、のろのろ歩いて行った。街灯も、アーケードも備えつけていない、がらんとした通りに、ひと影も少なく、食堂、土産物店、雑貨屋、理髪店等、二階建の構えも乏しく、どこの店先もひっそりしており、そろそろ傾いた午後の日ざしに曝された街筋は、一寸気が滅入りそうであった」。
「駅前通りがバスも通行している、路幅も可成広い、路面も粗末ながら舗装してある、街道へ出た」。「駅から、二十分以上やってき、短かな橋にかかる少し手前で「房州屋旅館」と読める看板下げた、二階建の家をみつけ」。
つげ義春の「貧困旅行記」に、川崎長太郎の「ふっつ・とみうら」にインスパイアされた「大原・富浦」という紀行文が所収されています。こちらは、1982(昭和57)年に、家族(妻の藤原まきと長男)と、大原に行った後に富浦に向かったことが記されています、「六十を過ぎてから、野良犬のようにくっつき合った三十も年若の妻と「ふっつ・とみうら」へ旅行したその作品の寒々とした味わいは、心に焼きついて忘れられない」そうです。私も同じです。が、こんなことを言われたら、P子さんは怒るでしょうね。

「ふっつ・とみうら」に出てくる火葬場や、「房州屋旅館」は、川崎長太郎の創作だったことが明かされます。つげ義春も「うまくやられたなァ」と言っています。私小説家は、なかなか奥が深いですね。私も「貧困旅行記」を読んでいなかったら、駅員に尋ねてしまったかも知れません(現在は無人駅のようでしたが)。

「貧困旅行記/大原・富浦」からの引用です。

「それでも小説に書かれた道順をたどりながら「房州屋」らしき宿を探しに海辺の方へ行ってみた。閑散とした駅前の道を少し行くと国道にぶつかり右へ折れた」。

「左には国道を挟んで商店が並んでいた」。

「右へ行くとすぐ町はずれで家並みが尽きた」。
「その辺から崖下の海を見ると、小さな入江と小さな漁港が見えた」。
「漁港の目の前に「逢島館」という古風なしっとり落着いた宿があった」。「逢島館」は見当たりませんでした。
「「逢島館」は是非とも泊ってみたい感じの良い宿だが八千円と高く、百メートル離れたところにある「竹乃屋」「富浦館」も七千円するので、さらに二百メートルほど入江の奥の方に行ってみると「曳舟」という民宿があった」。
「曳舟」のあった場所です。残念ながら、既に看板も取り外されていました。「貧困旅行記」には、この階段でポーズをとる、つげ義春の妻子の姿が収められています。
「曳舟」の前から見た海の風景。つげ義春一家もこの海を見たのだと思うと、感慨深かったです。
帰りは国道を通って帰りました。「光崎館」という大きな宿があって、ここが「房州屋旅館」のモデルだったのかもと思ったりしましたが、分かりません。
「富浦館」と壁に書かれた建物がありました。
国道沿いにあった「富浦小学校」。沖縄か台湾の学校みたいと思いました。
「ふっつ・とみうら」にも「貧困旅行記/大原・富浦」にも触れられていない「愛宕神社」。
雨の中、だいぶ弱って「富浦駅」に戻って来ました。駅前通りには、ほとんど店がなくなっています。
駅舎から再び駅前通りを振り返りました。明るい陽光の下で来てみた時と、だいぶ印象が違うのでしょうけれど、今の私の気分には合っていました。
「富浦駅」の跨線橋から。火葬場の煙突なんてどこにもありません。川崎長太郎の「ふっつ・とみうら」では、その煙突を見たことで、私が死んだ後の身寄りのないP子を心配に思うのですが、P子はアフリカに行って外国人と結婚すると言うのです。読者は、すごく侘しい気持ちになりますが、これは創作だったのですね。
「富浦駅」から2つ先の「館山駅」に来ました。
いよいよCaliforniaの雰囲気。「館山駅」西口。
海に続く道です。
海とは反対側の東口。
ここから東京方面に行くバスが発着しています。
バスが来るまでの間、駅隣接の「マリン」という喫茶店・レストランで休憩しました。「クジラ定食」があるそうで、テイクアウェイのお客さんがひっきりなしでした。
照ノ富士の写真が!
日東交通の「新宿バスタ」行きに乗って帰路につきます。他にも行きたい所はたくさんありましたが、次の機会にしたいと思います。
「海ほたる」を経由して東京へ。