私の昔からの数少ない愛読書の一つに田山花袋の「田舎教師」があります。
何が良いのかと問われても、うまく答えることはできません。一つは、北関東の自然を美しい筆致で描き、ああこういう感じなんだろうなという印象を持たせてくれる表現力なのだと思います。また、主人公の青年、林清三君の様々な悩み(お金がない、才能がない、煩悩ばかり)に深く共感したのでしょう。
最近は、さすがにこのような純粋な心持になることはないのですが、世代が変わっても読み継がれていくべき
作品だと思います。

館林の「田山花袋記念文学館」にて。「絶望と悲哀と寂寞とに堪え得られるようなまことなる生活を送れ」。

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そのようなわけで、久しぶりに埼玉の羽生に行って、田舎教師ゆかりの地を巡礼してみようと思い立ちました。北千住から東武伊勢崎線もといスカイツリーラインの急行久喜行きに乗りました。
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私は埼玉、特に伊勢崎線沿線には深い思い出を持っていて、久しぶりに訪れた埼玉ということから、車中ではずっと外ばかり見て過ごしていました。過ぎし日のことが頭に浮かび、目に涙を浮かべつつ、、、羽生に行ってからのことは、後で調べればいいやくらいに思っていました。羽生駅近くの建福寺(田舎教師が下宿をしていた寺、かつ本人の墓がある)には行ったことがあり、今回は田舎教師が実際に赴任していた三田ヶ谷村の弥勒尋常小学校を訪ねようという計画でした。
比較的近くに「県営さいたま水族館」があるので、そこまで行き着けば、あとは歩いて行けばいいしというくらいの大雑把なつもりでした。
久喜で、各駅停車館林行きに乗り換えです。
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館林行きの電車の中で、水族館に行くバスの時刻くらい調べておこうと思い検索してみると、何と!羽生のコミュニティバスは平日しか運行しておらず、土日には水族館が運行する無料送迎バスがあると書かれているものの、冬季はそれも運行していないんだそうです。おいおい、住んでいる人はどうしているんでしょうか。確かに「田舎教師」の出だしは、「四里の道は長かった」だけど、実際に羽生駅近くの建福寺に下宿して、弥勒まで通っていたらしいけれど、平成の最後の年を生きる今の私には無理です。
水族館のホームページのアクセスのところには、「羽生駅または加須駅から7㎞(タクシー利用で15分)」と真面目に書いてあります。つい「だから、埼玉は」と言っちゃいそうになりますが、逆に私が東京に毒され過ぎているのでしょう。埼玉魂を忘れてしまっています。水族館はけっこう楽しみにしていたのですが、あっさり諦めました。羽生では建福寺に行くだけにして、田山花袋の故郷館林に向かうことにしました。

 

 

 

羽生駅に着きました。駅前の様子を直に見て、バスがあると思っていた方が悪いんだと悟りました。
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「建福寺」。曹洞宗の禅寺です。田舎教師こと林清三(本名:小林秀三)氏がここに下宿していた時の住職が、田山花袋の文学仲間で義兄にあたる太田玉茗でした。羽生在の弥勒尋常小学校の準教員であった小林秀三青年は、齢21(しかも数え)で肺結核のため早世しました。彼が遺した日記を太田玉茗が田山花袋に見せたことで、「田舎教師」が世に出ることになりました。
ただ、田山花袋も易々と「田舎教師」を書いたわけではなく、従軍作家としての日露戦争派遣をはさんで、構想・調査5年を経て出版したようです。
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旧本堂。「田舎教師」にここに下宿した時のことが書かれています。
『本堂の右と左に六畳の間があった。右の室は日が当たって冬はいいが、夏は暑くってしかたがない。で、左の間を借りることにする。和尚さんは障子の合うのをあっちこっちからはずしてきてはめてくれる。かみさんはバケツを廊下に持ち出して畳を拭いてくれる。机を真中にすえて、持ってきた書箱をわきに置いて、角火鉢に茶器を揃えると、それでりっぱな心地のよい書斎ができた』
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「小林秀三君之墓」。
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「運命に従ふものを勇者といふ 『田舎教師』より」。
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「建福寺」を出たところの交差点。「県営さいたま水族館 7.4km」と書いてあります。
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というわけで、再び東武線に乗って館林に向かいます。
館林は、利根川を越えた向こう側、群馬県東端の都市で、人口は8万弱。
日光脇往還の宿場町であり、ここは八王子同心が日光勤番のために通る道でもありました。
最初は、徳川四天王の一人、榊原康正が10万石で立藩しました。その後、目まぐるしく領主が交替していきますが、江戸に近いということもあって、基本的には将軍家と極めて近い幕府の要職に付く者が藩主になっていました。
特に、三代将軍家光の四男で、四代将軍家綱の次弟である綱吉が25万石で藩主となり、館林徳川家が創設されました。
綱吉が五代将軍になると、綱吉の嗣子である徳松が館林藩主になりましたが、徳松は夭折してしまいます。
また、六代将軍家宣の弟である松平清武が入部したこともあります。
田山花袋の父、田山鋿十郎(しょうじゅうろう)は、館林藩最後の藩主である秋元家(山形藩から転封)の家臣でした。

 

 

 

東武鉄道館林駅。本体は2009(平成21)年に完成した橋上駅ですが、向かって左側に1937(昭和12)年に建てられた木造駅舎も残されています。
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館林駅の隣の駅である茂林寺前駅の曹洞宗の寺院「茂林寺」は、狸が茶釜に化けたという「分福茶釜」の話が伝わるお寺です。それで狸なのでしょうけれど、狸よりも目立っている、その横の「不屈のG魂誕生の地」とは何なんでしょうか?
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駅前から延びる街路は、幅が広くて、やや殺風景な感じがします。風情に欠けるってこんな感じかな。
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なんてことを思いながら、大きな街路から一歩外れた所に向かってみると・・・、田山花袋が子供の頃に算術を習ったという戸泉鋼作という人の墓があるお寺(大道寺)がありました。田山花袋は、武士の子らしく、儒学と算術を習っていたようです。
元々羽生の弥勒に行こうと思ってやって来たので、館林のことは本当に当てずっぽうですが、けっこう面白そうな予感がしてきました。
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さらに進むと、見るからに曰くありげな建物が、ものすごい存在感を放っていました。木造3階建てですね。
富士山や鳥居が描かれている看板には、「ORIENTAL CLUB」と書かれています。加えて、縦方向の看板には、「CHARLY'S」と書かれています。
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同じ建物の反対側です。この建物は、「福志満」という割烹旅館だったようで、なんと1932(昭和7)年築だそうです。
「ORIENTAL CLUB」、「CHARLY'S」は戦後の店の名前だったのでしょうか。
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「福志満」の周りには、濃厚な雰囲気が充満しています。つげ義春の漫画に出てきそうです。
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「福志満」の裏手にある「青梅天満宮」。菅原道真が太宰府に左遷になり都を去る際、有名な「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠んで梅の実を投げた一つが、ここに飛んできたのだそうです。
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日光脇往還(県道2号)沿いには、趣のあるビルがあります。「谷越ビル」。
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谷越ビルの向かいにある「旧森牧商店」。
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「外池(とのいけ)商店」。1929(昭和4)築。
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そして、「外池商店」の近くにある、「旧館林二業見番組合事務所」。1938(昭和13)年築。二業とは、芸者置屋と料亭のこと。これに待合が加わると三業になります。これらの営業には当局の許可が必要で、同業組合を組織して都市の中の一所に固まっていました。いわゆる花街です。館林は、明治になってからは、上毛モスリン(織物業)や日清製粉などの有力企業が立地し、景気の良い時代があったようです。
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古い街並みの中に溶け込んでいる中華そば屋さん。ちょっと入れませんでした。
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「歴史の小径」と名付けられた整備された街区の中にある長屋門。2009(平成21)年に建てられたようですが、この長屋門は武家ではなく、農家の長屋門の部材を使っているようです。
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ちょっときれいになりすぎな感もありますが、同じく「歴史の小径」の中に整備された「武鷹館」という名前の中級武士の住宅。これは大正頃に建てられたと推測される長屋門です。
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そして伊王野惣七郎という館林藩(秋元家)の中級武士(百石)の住宅です。市内の他の場所から移築されてきました。雰囲気はよく分かりますが、ちょっときれいすぎる感はあります。
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(続く)