昨日は東日本大震災からちょうど14年で、被災地各地で追悼行事が行われました。「1.17」同様、「3.11」も決して忘れられない、忘れてはいけない日です。僕は仕事の関係で現地の営業所へ応援のため震災直後の宮城県を訪れました。その時の津波が残した惨状は今でも脳裏に焼き付いています。今、普通に毎日を送れるのも決して当たり前ではないことを肝に銘じて日々過ごしていきたいと思います。「東北・みやぎ復興マラソン」にはもう出られませんが、またいつか宮城県はもちろん東北各地の大会を走りたいと思います。
本題に入ります。先日、プロレスラーで文京区議会議員の西村修さんが亡くなられました。53歳でした。簡単な経歴は下記のとおりです。
1990年に新日本プロレスに入門し、翌年にデビュー。海外での武者修行を経て帰国後、先輩である藤波辰爾選手の自主興行「無我」に参戦。2006年に新日本プロレスを退団後は藤波選手らとともに新団体「無我ワールド・プロレスリング」を設立。「無我」を退団後は全日本プロレスなどに活躍の場を移し、2011年に文京区議会議員選挙に当選。レスラーとしてリングに上がりながら政治家としての活動を行ってきました。2024年4月にステージ4の食道がんと診断されるが、その後もリングに上がり続けました。今年になって容体が悪化し、2月28日に帰らぬ人となりました。
僕が大学生の頃、毎週「週刊ゴング」を購入するほどプロレスが好きでしたが、正直言うと彼の試合はほとんど観たことがありません。その頃はまだデビューしたての前座レスラーだったので、テレビでもたまにダイジェストで放送される程度でした。ただ「週刊ゴング」には若手レスラーのことも掲載されるので、彼に関する記事を見て「自分と同い年なんや」と思ったことと、レスラーらしからぬ細身の身体だったことが印象に残っています。彼がメインイベンターになる頃にはボクシングやK‐1、総合格闘技の方に興味が行っていたため、プロレスを観ることはほとんどなくなっていました。
ではなんでこれを書いたのかというと、彼の師匠でもあり、ともに「無我」を立ち上げた藤波辰爾選手が僕の一番好きなレスラーで、二人の関係について書きたかったからです。二人は新日本プロレス時代からの先輩後輩の関係でしたが、前述のとおり二人を中心とした新団体を立ち上げました。が、その翌年西村さんが退団、それをきっかけに二人の関係に亀裂ができました。西村さんが藤波選手のみならず当時経営に携わっていた藤波選手の奥様までも名指しで批判し、また「無我」を無断で商標登録して藤波選手が「無我」の名称を使用できないようにしました。そこには西村さんなりの考えがあったのかもしれませんが、そのような仕打ちを受け温厚な藤波選手も許すことができるはずもなく、それから18年もの間絶縁状態が続きました。
しかしながら、絶縁状態が続く中でもお互いの心は繋がっていたようです。今年1月、西村さんが出場予定の試合がありましたが、闘病中だった西村さんの病状悪化のため欠場を余儀なくされました。欠場した西村さんの代役で出場したのは、なんと藤波選手でした。そのとき藤波選手はこう言ったそうです。「(確執に対して)そんなことは気にするなと彼には伝えたい。結局、あれから彼とは会わずじまいに来たけど、彼の代役で出たことがボクの彼に対する気持ちです」 西村さんから裏切りともいえる行為を受けたのに、なんて心の広い人なんやと僕を含め多くのプロレスファンはその男気に感動しました。「早く良くなってリングに戻ってこい」という藤波選手なりのメッセージでもあったと思います。
そして、西村さんもどこかで謝罪して関係を修復したいと思っていました。藤波選手が代役で出場する試合会場に行けないため、代わりに奥様に試合会場に行ってもらいました。そこで藤波選手に会うことができ、代役で出場してくれたことへの感謝やこれまでのことに対して謝罪したいと伝えました。それに対し藤波選手は「これまでのことに怒っていないし、いつ会いに行ってもいい」と言われ、それを奥様から聞いた西村さんは涙されたそうです。
その1ヶ月後、会うことはかなわず西村さんは天国に旅立たれたのですが、お互いの思いが通じ合っただけでも二人にとっては救いであったと思います。西村さんの告別式で弔辞を読んだ藤波選手はこう言われました。「あの日のように語り合える日がまた来ることを信じて、もう一度リングで戦うことを信じてました。結局、再び君と会うことができませんでした。しかし君のメッセージや思いはしっかりと私に届いてましたよ。だからもう何も気にすることはありません。安らかに休んでください。無我と共に歩いた君のプロレス人生、その人生の最期の時まで誇り高く生き抜いた君に無我を捧げます」
話は変わり、僕をマラソンの世界に導いてくれた恩人が最近がんと診断されました。職場の先輩なのですが、第1回神戸マラソン開催のときその人が僕に「出えへんか」と誘ってくれました。そのとき僕は40歳。若い頃からいつかフルマラソンを走りたいという気持ちはありましたが、その先輩が背中を押してくれなければ一生走ることはなかったかもしれません。先輩が聞けば「恩人なんて大げさやで」と笑われそうですが、僕が人生の後半に目標を持って毎日を過ごせているのも先輩が神戸マラソンに誘ってくれたからなので、そういう意味では僕にとって「恩人」です。
その先輩も若かりし頃はサブスリーランナーだったのですが、ここ何年かはなかなか練習もできず、制限時間が5時間20分の丹波篠山ABCマラソンも完走できない状態でした。「(完走して)丹波焼のメダル欲しいわぁ」と言われていたので、今年から6時間半になりますよと伝えたら「体調が良くなったら復帰できるよう練習するわ」と言われていました。そんな矢先、がんと診断されました。初期だったので、仕事をしながら治療することを選択されました。がんに打ち勝つことを願うしか僕にはできませんが、いつか一緒に丹波篠山ABCマラソンを走れたらと思います。


