統一原理というものは、どのようにも利用できます。
私も知らないうちに自分に都合のいいように利用しています。
だから、いつも気をつけないといけないし、
異なる立場や反対する意見にも耳を傾けて、
絶えず自分でチェックをしないといけないです。
原理講論では、南北王朝分立時代、
異邦人の神を崇拝した北イスラエルを
「神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさった」
と書いていたと思う。
さぁ、この言葉をみなさんは、どう理解しますか?
彼らには異邦人は悪魔に見えたが、外的粛清の摂理をしたのは神様だ。
だから、神様が彼らを滅ぼしたのだ。
ですか?
私は聖書を読んでいないので、間違っているかも知れませんね。
では南ユダの人々は、この出来事をどんな風に考えたでしょうか?
「俺たちは、何度も北イスラエルに預言者を送って、
何度も何度も、悔い改めるように言ったのに悔い改めないから、
お前らは、神様に滅ぼされたんだよ」
と思ったでしょうか。
あるいは、
「俺たちが、何度も北イスラエルに預言者を送ったのは何のためか。
何度も何度も、悔い改めるように言ったのにどうしてわからないのか。
このままでは滅ぼされてしまうというのに。早くわかってくれ、
俺たちはもともと、同じ民族の仲間だったじゃないか」
と思ったでしょうか。
原理講論では、北イスラエルと南ユダは、カインとアベルだと教えます。
南ユダの姿勢で、北イスラエルが悔い改めたかどうかは分からないです。
では、どちらが文先生が教えたカインアベル観だと思いますか?
本当の神様の御心はどこにあるのでしょう。
私の嫌いな言葉に、
勝利的アベルの人格と勝利的カインの人格という言葉があります。
いつも教会でこの言葉を聞くたびに耳をふさぎたい思いがしました。
私にはよく分からないです。
愛の問題なのに公式みたいにして。
これ、神山会長が語られたとも聞きますが、本当にそうなのかなって、
自分で書いた言葉が自分に跳ね返ってきますね。
だから、統一原理を語るのは嫌なんです。
お前が愛を実践できてないぞ、また心情蹂躙を犯しているぞって言うんですよ。
また、謝らないといけないのか。ごめんなさいって。