こどもたちのいじめが問題と言われ始めて久しくなる。
昨日も、「福岡・私立中学校バスケ部、1年生の男子生徒が上級生にチェーンで縛られ暴行受ける」という報道が出ていた。
先日、うちの町会長が、頭に来たと小学校の校長を叱りつけたという話を聞いた。
学校にいじめの問題を指摘したところ、
「こどもたちは遊びの延長でやっていますから」
と回答したからだったという。
具体的に何を指摘したかは知らないが、私には常々、疑問に思っていることがある。
いじめは、いじめられた側がそう感じればいじめだと定義されているようだ。
確かにそうなのだろうけど、何とも主観的で、
これでは、客観的立場からの介入は難しい。
教育現場からみれば、いじめの認定は難しいようだが、果たしてそうなのだろうか?
私はもっと簡単に一つの基準を設けることが出来ると思っている。
それは、1対1か、1対n(多数)かの違いだ。
もちろん、気の弱い子に対しては、言い返すことができずに、
1対1でもいじめは起こり得る。
だが、1対1で、誰からも同調を得られずに人をいじめ続けることは、
いじめる側にもかなりの勇気とエネルギーがいることのはず。
1対1のケースに個別の対応は必要だとしても、
1対nをいじめと定義すれば、多くの問題の認定は容易になる。
いじめによく見られるのは、誰かが軽い気持ちでいじっていた。
それを見た他の人も軽い気持ちでやっていたらそれが広がった。
そういうものではないだろうか。
だから、いじめた側には犯罪意識がない。
1対nであれば、いじめと定義してしまえば、学校現場での介入はしやすい。
いじめられた側も助けを求めやすい。
そもそも、人が友達をいじめていて、
それに面白半分で同調してしまうのがおかしい。
共感力がなさすぎるのだ。
遊びの中でやっているといっても、
本当に相手が嫌がっているかぐらいは分かるはず。
私の子供だったころもいじめはあった。
それでも小学校のころは、1対n の喧嘩は卑怯者のやることという考えがあった。
中学の頃にはそういう考え方は、もうなかったと思う。
私はそれほど酷いことはされなかったが、先生の介入で助けられた。
友達にはもっとひどい目に会わされた人もいた。
それらはみな、1対n の構図で、いじめた側の罪意識は薄いものばかりだった。
なぜ、1対n をいじめだと定義できないのだろうか。
もしかしたら、大人社会の事情があるのかも知れない。
例えば、マスコミの報道がそれだ。
マスコミが悪のレッテルを貼ることで、
政治家であろうが、芸能人であろうが、特定の信仰を持つ人であろうが、
1対n の形での非難が始まる。
1対n をいじめと定義してしまえば、マスコミの繰り返し行われる報道が
いじめ行為を助長していると判断されてしまう恐れがあるわけだ。
なぜ、これほどの長い時間、多くの人が議論を重ねているのに、
こんな簡単な答えを出せないのかと、素朴に疑問に思っている。
私の考察が足りないのだろうか?
この考え方だと弊害が大きいのだろうか。
ごく普通の考え方だと思うのだが、なにかおかしいのだろうか?
もしかしたら、子供たちは大人の背中をみて真似をしているのかもしれない。
PS:(追記)
かつては、
①自分より弱い者に対して一方的に、
②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、
③相手が深刻な苦痛を感じているもので、
④学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの
だったようですが、今は、
①反復性:相手が嫌がることを複数回行う
②同一集団内:その行為が常に特定の集団内で起こっている
③立場の不対等:行為者が優位な立場にある、片方が一方的に貶められている
④故意性:嫌がっていることを理解した上で行っている
⑤傍観者の有無:1対1ではなく、周りに傍観者がいる
いじめとは?いじめの定義や種類、判断基準を解説
のようです。
不思議なのは、⑤があるのになぜ学校のいじめ対策が進まないのか。
北海道旭川市の女子中学生のことが思い出されます。
⑤こそが、いじめのいじめたる所以だと思うのです。
①~④については、いじめより犯罪と言うべきじゃないでしょうか。
私はある学校のいじめ対策を見て驚きました。
校長先生は、いじめは対策できると言い切っていました。
問題が大きくなる前に適切に対応すれば起こらないと。
実際、その対策の現場に遭遇したことがあります。
私からみると、もう少し喧嘩でもさせて、解決力をつけさせてあげたらと、
ちょっと干渉しすぎと思う部分もありましたが、
確かにいじめを起こさないようにはできると思いました。