霊界での財産とは何かというみ言葉があったと思う。
死ぬ前に霊界に行く前にしないといけないことだ。

統一食口は霊の子を最低3人、つくることだというだろう。
私は、霊の子はいない。
霊の子を、つくりたいとも思わない。
現役の教会員には、お前はそれでも統一食口かと言われるかも知れない。

私は、教会が霊の親と呼ぶ人とは怨讐関係だ。
だが、今はもう、霊の親とも感じないので怨讐でもない。
教会員に詐欺の疑いをもたれる行為を行っただけの人だ。

周りに仲のいい霊の親子をみると羨ましく思うこともある。
私も信仰の初期に必死に友人を誘ったので、なんだか懐かしい。
彼らは、今、どうしているのだろう。
どこにいるかもわからないし、申し訳なくて私には声もかけられない。

でも、霊の子が出来なくてよかったのかも知れない。
「俺は霊の子が3人いるから大丈夫だ」と言っている人がいた。
私は決してそんな人にはなりたくない。


先日、私より10歳くらい年上の方と話をした。
教会とは関係のない、一般の人だ。

アメリカでの生活の経験のある方だが、10年を越えるのだろうか。
久しぶりに同窓会があり、アメリカ帰りの友人と会ったという。

友人はもう定年で仕事をやめ、社会貢献活動に勤しんでいるという。
そんな話を聞きながら、とても悔しかったと心の内を吐露してくださった。

自分は何をしているのかと。
常日頃から「ごみを拾う」、そんな細かいことに気を配られながら、
そういうことをいい加減にすると、人はすぐ楽なほうに流されてしまうという。
「自分は人を育てたいんだ、正しく生きる人を育てたい」と言われる。


そんな話を聞きながら、ふと思った。
通じている。何と? お父様のみ言葉と。


地上世界は、天の民の生産工場なんていうみ言葉があったと思う。
人は生まれて死んでいけば、それだけでみな天の民となるのだろうか。

地上生活で善なる生活をして、善なる霊人体を完成して行くところが天国のはずだ。
天国にはお金はいらないし、地位も名誉もいらない。
天の国の財産とは、そもそもいったい何を意味しているのだろうか。
ネットワークビジネス(マルチ販売)のように、霊の子を増やすと財産となるのだろうか。

もちろん教会員も、その中で愛する心を育むという解釈くらいはしている。


私はこんなふうに思う。
地上で善に生きる人をたくさん育てること。
それは天の民を増やすことなので、それを天の民の財産といっているのではないだろうか。

人が善に生きるようになるためには、まず自分が善に生きなければならない。
そしてそんな善の影響を与えた分だけ、宝になるということではないだろうか。

そんなふうに思うと、私は霊の子が出来なくてよかったのかも知れない。
もし、霊の子を持てていたら、私は一生このことに気がつかなかっただろう。


私のこの解釈は間違っているかも知れない。
このままいけば、私は霊界で乞食になるかも知れない。

でも私には、この解釈の方が肌に合う。
統一教会の教えた伝道を実践することは、私にはできない。
どこかで奪いあいが起きるからだ。

あるいは先に声をかけたら勝ちのようなルールに支配されるからだ。

 


だから、私は私が見いだした良心、私が信じた神様、私が信じた文先生、
そして文先生から頂いたみ言葉を、自分で咀嚼して信じて歩みたいと思う。

 

 

 

 

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