最近続けているこれらの一連のテーマは、前回ので終わりにしようと思っていたのですが
ちょっと整理しておく必要を感じたので書いてみることにしました。

みなさんには次の2つが、同じ思想、同じ人物の宣言にみえますか?

・家庭盟誓8
 天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、成約時代を迎え、
絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、神人愛一体理想を成し、
地上天国と天上天国の解放圏と釈放圏を完成することをお誓い致します。

・真の父母様宣布文
 全食口は、永遠・永生の世界にたった御一人である真の父母様の指示と
命令に絶対に服従しなければならないことを忘れてはならない!
これが統一家の永遠の伝統であり、信仰である!この点については、
天宙的に真の子女も、一般食口も同様である。

私には到底、これらが同じ人物の思想に基づいているものには思えないのです。

1つ目は絶対服従の概念が違いすぎます。
これについては後で説明します。

2つ目は、絶対服従の目的が違います。
家庭盟誓8では、「神人愛一体理想を成すため」とあり、さらに
「地上天国と天上天国の解放圏と釈放圏を完成」の実現とつながります。
真の父母様宣布文は、「統一家の永遠の伝統」(を立てる)とあり、されに
「御一人である真の父母様の指示と命令に絶対に服従」の実現とつながります。

この対比には意見があると思うのですが、比較の仕方を変えても本質は変わらなさそうです。


絶対服従について本部の分かりやすい講義があったので私の言葉ですが要約して紹介します。

絶対信仰とは「旧約時代」
 アブラハムがイサクを献祭した信仰に知ることができる。
絶対愛とは「新約時代」
 イエス様が、示してくださった愛を通して知ることができる。
絶対服従とは「成約時代」
 お父様が神様に対して立ててこられた、心情を通して知ることができる。

私たちは絶対服従というと、奴隷のような悪いイメージを持つがそうではない。
親が生まれて間もない子供に、夜中に泣かれておこされたり、その都度、世話をする姿は、外的にだけ見れば服従だが、内的に見れば子供を愛するがゆえに喜んでする姿です。
夫婦関係で頼まれごとをしたとき、大変なときにそれに応じることは、外的に見れば服従にもみえるが、内的には、一つになり愛していればこそできることです。

このように絶対服従とは、外的にみれば服従だが、内的にみれば、愛で一体化を成した姿です。
しかし郭グループの人は、真の父母様宣布文の1番目を外的にしかとらえていないのです。
(本部の表現に従い郭グループと書きます。)

ここまでが本部の講義の要約です。


絶対信仰・絶対愛・絶対服従について分かりやすい説明だと思います。
講師が語られるように、絶対信仰・絶対愛・絶対服従は密接につながっている。
言い換えれば、絶対愛の土台のない絶対服従などありえない。

だから「家庭盟誓8」では、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を切り離してはいない。
「真の父母様宣布文」からは、絶対服従の真意も目的も読み取れず、むしろ独裁的な意図しか感じられない。

郭グループが真の父母様宣布文を外的にしかとらえていないというより、この宣布文の記述から絶対服従の意味を理解するというのは無理な話で、絶対服従という言葉でこの宣布文の目的をなそうとすることにも無理があるというのが妥当な見方なのではないだろうか。

またこの宣布文が、絶対服従という言葉の教会員への理解の混乱を招き、言葉だけが教会で独り歩きする問題を引き起こしてはいないだろうか。

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