お父様が危篤になられたときのこと。
教会から全員3日断食の指示メールがきた。

他の教会で断食をしないことを心良く思われず、胸を痛めている姉妹がいた。
彼女には事情があった。

私は思わず、
「こんなコトしてお父様が喜ぶと思っているのか!
 親が危篤なのにそんなことも判断できないのか!
 こんな教会に新しい人が来れるか!」

と班長にメールを送った。
うちの教会は、人数が多いので組織が大きく班長がいます。

メールの真意は
「主体的にやらなければ意味がない」というつもりだった。

私は恵まれているのだろう。
班長はそのメールを上に送っていなかった。

が、しかし後にそのことがわかり、上は私を心配していたようで班長はお叱りを受けた。
(班長さん。ごめんなさい。)

班長に事情を聞くと
「あなたは別に幼い兄弟なわけでもないし、いちいちアベルに報告するのは告げ口をする
みたいだった。別にこのメール当たり前じゃん」と。

う~ん。時代は変わった。私が読み違えていたか。


さて、私は上にこのメールの真意をどう説明するか考えながら、不思議なことに気がついた。

通常、全員断食するようにと言われるなかで、もし断食せず伝道をする韓国人がいたとき、
多くの日本人はその韓国人を理解できない。でも、ここでお父様が危篤だと知らされれば
その日本人も韓国人を理解することができる。

確かに理解できる。不思議な感じがした。

15年以上前になるだろうか。韓国の信仰の友と語り明かしながら、
「韓国人は日本人を理解するのでなく認定するのだ」と聞いた言葉が思い出される。
日本人も同じだ。「韓国人は主体的だから人の話を聞かない」とか平気でいう。

でも今、理解することのできる鍵を発見した気がする。

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