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「一種の文化だったわけよ」《 津山三十人殺し 》が起きた

時代の “性に開放的すぎる風習” 

『 津山三十人殺し 最終報告書 』より#2

石川 清 

 

 

 1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県の山間にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾と

いう集落で、30人もの老若男女がわずか1時間あまりの間に相次いで惨殺される事件が起きた。その事件こそが、世にいう「 津山三十人殺し 」である。

 ここでは、津山事件研究の第一人者であり、2022年6月に57歳で急逝した石川清さんの

記録をまとめた『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)より一部を抜粋して紹介する。

 犯人である、当時22歳の都井睦雄は一体なぜ事件を起こしたのか。

当時の警察は「集落の女性たちとの痴情のもつれ」が動機であると判断したというが、

果たしてそれは真実なのだろうか。睦雄の遺書や当時の社会背景から探る。おばあちゃん

 

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事件を報じる『合同新聞』の記事 『津山三十人殺し 最終報告書』より

◆◆◆

遺書をめぐる謎

 睦雄は、自殺の直前に書き残した3通目の遺書のなかで、事件を起こした動機について

こう述べている。

 今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあった寺井ゆり子が貝尾に

来たから、又 西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃した……。

 こう書き記した一方で、睦雄は数ヵ月前から犯行の準備をしていた形跡も残しており、

ふたりの女性の帰省が犯行の実行を早めた要因とも考えられる。

 

 睦雄は幼いころから頭のいい子どもだった。学校の成績も常に優秀で、

地元の尋常小学校始まって以来の秀才ともてはやされていた。

色黒で筋肉質の男性が多い山村にあって、色白で華奢な睦雄は異色の存在だった。

家も裕福で毛並みもいいことから、女性にはけっこうもてたという。おばあちゃん

 岡山の山中には、古くから夜這いの風習が残っていた。女性の寝所には鍵をかけておかず、

夜になると秘かに男性が忍んで逢い引きするというものである。時には昼間でも人目に

つかないところで逢い引きしたりもした。独身者だけでなく、既婚男女も夜這いの風習を

大いに楽しんだらしい。おばあちゃん

 女性に人気のあった睦雄は、前述の寺井ゆり子や西川良子だけでなく、集落内の10人以上の

女性と性的な関係を持っていたとされる。特に年上の既婚女性にもてていたようだ。

当時の山村にはいない優男タイプの睦雄は、母性本能をくすぐったのだろう。当時の農村は

総じて早婚の傾向にあり、睦雄より年上の女性は既婚者である場合が普通だった。

 村内の女性にもてた睦雄は夜這いの風習を謳歌していた。しかし、そんな睦雄にある日、

悲劇が訪れた。

 

結核という診断

 19歳のとき「 肺尖(はいせん)カタル 」、すなわち軽度の結核の診断を受けた。おばあちゃん

今でこそ、結核は治療可能な病だが、結核は当時の死亡率の上位に入る重病で、

“不治の病” と考えられていた。

 睦雄が集落内で頻繁に女漁りを始めたのは結核にかかる前からだとも、結核に感染した

あとからだとも言われており定かではないが、結核に感染した噂が集落内に広まったことで、

睦雄は以前のように女性にはもてなくなった。なかには睦雄が夜這いで出向いても

手のひらを返したような冷たい対応をした女性もいたという。おばあちゃん

そして、睦雄は集落内で女性と関係を持つ際には対価、つまり金を支払うようになった。

 

 金をもらえるのであれば、睦雄と関係を持つことも厭わないと考える女性も少なからず

いたようで、睦雄は19歳から50歳までの集落内の女性を口説いて関係を持とうとした。

なかには若い娘を狙って白昼に夜這いをかけたものの娘の母親しかいなかったため、

仕方なくその母親を口説いて関係を持ったこともあったという。

 金は自分の家の畑などを売り払うなどして工面していた。当時、睦雄は両親と死別し、

家族は祖母と姉しかいなかった。姉はすでに他家へ嫁いでおり、事実上、睦雄は当主として、

自分の家の財産を自由に処分できる立場にあった。より詳細に事情を検証すれば、睦雄が自家の財産を本当に自由にできるようになったのは、睦雄の誕生日である昭和12年(1937)3月5日

以後の話となる。それ以前は、睦雄の後見人の立場であった祖母いねが財布の紐を握っていた。いねは金銭面の管理は比較的しっかりしていたことから、睦雄の金遣いが本格的に荒くなった

のは、昭和12年3月以後のことだろう。それ以前からも小遣いは十分にもらっていたはずだが、限度があった。「かなり昔から都井睦雄が金にあかせて、女を買っていた」という噂も

あったが、それは誤りだろう。

 とはいえ、いくら当時の農村が性に関して開放的だったとはいえ、睦雄の行動と執着心は明らかに常軌を逸脱したレベルにあった。睦雄と関係を持ち、いい小遣い稼ぎをしていた女性たちも、やがて次々と睦雄から距離を置くようになった。なかにはかなりの額の金を受け取りながら、睦雄を恐れて凶行数日前に家族をあげて京都まで引っ越した女性もいた(これについては

後述する)。時には堂々と、時には陰で睦雄の悪口雑言を口にする者もあちこちに現れた。おばあちゃん

睦雄にとって、山村での暮らしはストレスの多い環境となったことは言うまでもない。

 

女に捨てられ、兵役にさえ就けず

 地元の古老の話によると、前述した遺書のなかで名前が登場した寺井ゆり子や西川良子らも、睦雄からかなりの額の金額を受け取り、関係を結んでいたという。しかし、本人たちはその後の警察などの取り調べで都井との肉体関係を否定しているため、真偽のほどは定かではない。

いずれにしろ、ふたりは事件の起きる数ヵ月前に睦雄を捨てるように、他家へ嫁いで

いってしまった。

 そうしたふたりの女性の行動は、彼女たちが意図したものだったかどうかはともかく、

睦雄にとっては裏切り行為以外の何物でもなかった。

 睦雄は傷ついた。折から戦火は拡大しつつあり、村の若い男性は次々と兵隊に取られて

いった。しかし、睦雄は結核を患っていたため、兵役にさえ就けない。正確には、睦雄は

徴兵検査に「丙種合格」だった。当時の徴兵検査の合格には、上から甲種、乙種、丙種など

ランクがあり、甲種と乙種合格までが一般的な合格ラインとされた。そして丙種合格は、

「戦場では使い物にならない欠陥品」という、いわば負の烙印といえるものだった。

これは睦雄のプライドを大きく傷つけ、コンプレックスとなったはずだ。おばあちゃん

 

 そんな鬱々とした気分の最中、自分を裏切って他家へ嫁いだふたりの女性が

たまたま里帰りした。

 この機会を逃すことなく、睦雄は凶行に走った――。

 

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貝尾の墓所にある津山事件の被害者の墓。没年が「昭和十三年五月二十一日」と
刻まれた墓が複数並んでいた ©石川清

「 助平屋敷 」という夜這いの名残

 津山事件が発生した貝尾とは市街地を挟んで反対側に「物見(ものみ)」という集落がある。

 2001年(平成13)8月、私は津山事件の取材で物見を訪れた。

 物見には旧因幡国(今の鳥取県)と津山を結ぶ因幡街道が通っていた。

物見の集落のはずれ、旧因幡街道の山道のすぐ脇に草が鬱蒼と茂った平地がある。

その平地には戦前のある時期まで、“助平屋敷”と呼ばれていた屋敷があったという。おばあちゃん

 

それにしても助平とは何やら所以のありそうな名前だ。

いったい、助平屋敷の所以とは何なのだろうか。物見に住む古老に聞いてみた。

「ああ、そこは昔の賭場の開かれたところだよ。山の中の村じゃ、娯楽なんてほとんど

ないからねえ。数少ない娯楽のひとつが博打だったわけさ。サイコロや花札など、おばあちゃん

いろんな博打が開かれたようだよ」(物見に住む古老)

 だが、なぜ博打を意味する言葉ではなく、助平などという枕詞がつけられているのだろうか。

 

性的に開放された風習の中で

「助平といえば、そりゃひとつしかないだろうよ。男と女の例のスケベのことさ。昔はなあ、

博打をやって負けたとき、よく自分の女房を一晩とか二晩、貸し借りしたものなんだよ。

負けが込んで支払う金がなくなったときは、女房や娘を代金がわりに勝った奴に貸したんだよ。

 でもね、昔はこの辺の山の村にはどこでも助平屋敷みたいな賭場があってさ。必ず金がないのにやってきては大負けする奴がいたもんさ。そんなときは、代金がわりに女房や娘を差し出す

のが普通でさ。えっ、もし女房や娘が借金のカタになるのを嫌がったらどうするのかって? 

そうしたら、着ているものとか身ぐるみはがされて、ひどいときには家や土地まで

取られるわけだからさ。仕方なく我慢するしかないんだよ。おばあちゃん

 

 時にはなあ、バクチに負けたら、助平屋敷のすぐ裏とかで、すぐに女房を抱かせたり

したこともあったそうだよ。そうしたら、女房のほうもさ、どうせ身を任せなきゃ

いけないなら、楽しまなくちゃ損って感じで、かえって亭主以外の男との情交を

割り切って楽しんでいたらしいよ。びっくりあせる

まあ、博打に女房を賭けるような男なんて、どうせろくでもないダメ亭主だしね」

 

 もともとこの地の山間には夜這いの風習が残り、性的にかなり開放的だった。

だから、夫が自分の妻を他人に貸すのも、妻が隣人に抱かれたりするのも、

現代に比べれば抵抗は少なかったのだろうか。

 外部に対して普段はかなり閉鎖的な山の集落だが、いざ一歩村の内部に入ると、

博打の代金の代わりに妻や娘を貸し借りしていたという驚くべき状況の存在に直面する。

しかもそんな状況が日常的に、半ばオープンに存在していたのだ。

「だからさ、明らかに亭主の顔とは違った子どもがあちこちで産まれたりしたものさ。

でも、それは異常じゃないんだ。一種の文化だったわけよ」おばあちゃん

 睦雄は、このような農村独特の開放的な雰囲気のなかで育ったのだ。

 

博打に負けたので、代わりに妻や娘まで相手に差し出して性交渉をさせ、

旦那と違う顔が生まれたのなら、絶対にこの時に性交渉をした相手の子供なのが

分って自分の子供として育てたということ? びっくり

 

吹石一恵がよく、福山雅治さんのラジオで、上記のようなことを言わされていましたが、

占い師の母が水晶で調べていたのを三女が憑依し見て、それを知ったのが吹石一恵と母親。

だから、いろんな事件事故を知っていたから、【 夫と似ていない子供や、どっちにも似ていない】と吹石一恵が母親に言い三女と一緒になって、ましゃに憑依し言わせていた 物申す

 

 

「 首がちぎれる直前、枕を覆う布に必死で嚙み付いていた… 」

1時間で30人惨殺した《 津山事件 》の犯人が

“最初に祖母を殺した” 理由 

『津山三十人殺し 最終報告書』より#3

石川 清 

 

 1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県の山間にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾と

いう集落で、30人もの老若男女がわずか1時間あまりの間に相次いで惨殺される事件が起きた。

その事件こそが、世にいう「津山三十人殺し」である。

 事件の犯人である、当時22歳の都井睦雄が最初に手にかけたのは、

同じ家で眠る自身の祖母であった――。おばあちゃん

 ここでは、津山事件研究の第一人者であり、2022年6月に57歳で急逝した石川清さんの

記録をまとめた『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)より一部を抜粋して、

睦雄の残虐な最初の殺人の一部始終を紹介する。

 

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睦雄がかつて住んでいた倉見の家 ©石川清

◆◆◆

斧を手に祖母が眠る部屋に向かった睦雄

 犯行直前には霧雨が降ったという。

 そのため、犯行当日の夜に出歩く人間はほとんどいなかった。

 さらに折からの養蚕のシーズンで忙しく、集落の家々では仮眠をとりながら

蚕の番をしなくてはならなかった。

 夜半に睦雄は、天井裏の秘密部屋の布団から起き上がった。おばあちゃん

 下の階にいる祖母いねは、すっかり寝入っていた。

 睦雄はいねに気づかれないように、学生服のような黒セルの詰襟服に身を包み、

茶褐色の巻きゲートル(脛に巻く布。怪我やうっ血を防ぎ、軍人は必ず使用した)を装着した。犯行前の時期から睦雄は天井裏で寝起きするようになっていた。

 

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睦雄の犯行時の装い。漫画雑誌の挿絵を参考にしたと言われている
『津山三十人殺し 最終報告書』より

 

 地下足袋を履き、あらかじめ準備しておいたふたつの懐中電灯を取りつけた鉢巻を

頭に巻いた。この日のために購入した自転車用のナショナルバンドライトは、細紐をつけて

首から胸に吊り下げた。薬莢や弾薬を入れた雑囊(今でいうリュックサックのようなもの)

左肩から右脇にかけた。おばあちゃん

 

 日本刀1振と匕首2口は左腰に差し込んで紐でしっかりと括った。その上からベルトのように

革の帯で締めて、刀が揺れすぎないように整えた。揺れると動くので不便だからだ。

 九連発のブローニング銃と弾薬実包約100個を携帯すると、睦雄はいったん屋外へ出た。

屋外には、丁寧に磨いておいた斧があった。睦雄はそれを手に持って、室内に戻った。

 こうして睦雄は準備を終えた。おばあちゃん

 睦雄の家は平屋で北側に土間があり、その土間から睦雄は天井裏の秘密部屋へ行き来した。

土間のはずれには厠(トイレ)もあり、睦雄が深夜に天井裏から土間へ上り下りするのは、

不審な行動ではなかった。

 土間を上がると、睦雄の家には部屋が6間あった。

いねは縁側に面する中央の6畳間のコタツで、頭を西に向けながら熟睡していた。

 睦雄は眠っているいねを、上からゆっくりと見下ろした。

その右手には大きな斧がしっかり握られていた。

 祖母を殺害するために、睦雄が日本刀や猟銃ではなく斧を凶器として選んだ理由は、

できるだけ音を立てたくなかったからだといわれている。また、日本刀を早々に使うことで

血糊で切れ味が鈍ることを恐れたからではないかともいわれている。どちらも一理あるだろう。だが、斧で殺さなければならなかった重要な理由がほかにあったのではないだろうか。

 いねと睦雄には血縁関係はなかったことはすでに述べた。そして、その事実を睦雄は

すでに知っていた。おばあちゃん

 いねは睦雄にとっての育ての祖母であり、恩義は感じていた。

だが、その一方でいねは睦雄にとって自分を縛りつけ、自由を奪い、自分の人生を

めちゃくちゃにした存在でもあった……そんな一種の恨みを睦雄は抱いていた。パンチ!パンチ!

 

吹石一恵の母親の大叔母が同じようなことを思い、その感情を睦雄に持って行った 物申す

( スペイン人との間に出来たので、この仕事に就くのに反対もあり厳しく育てられた )

 

 睦雄は自分の存在を消滅させるしかなかった。ただ、黙って消えたくはなかった。

何の苦労もなくのうのうと生きている恵まれた人間たちに、自分を捨て、

蔑んだ人間たちに復讐し、道連れにするしかなかった。

 

 睦雄一家に残されていた現金は、わずか66銭だった。

 睦雄は精神的にも、金銭的にも追い詰められていた。

 

睦雄はなぜいねを斧で殺したのか

 深くどす黒い葛藤を胸に、睦雄はコタツで眠るいねの首めがけて思い切り斧を振り下ろした。

 鈍い衝撃が睦雄の手に伝わってきた。だが、いねの首はまだ胴体から離れていなかった。

 睦雄は渾身の力を込めて何度も何度も、無我夢中で斧を振り下ろした。

 いねの首が胴体からちぎれ飛んだ。パンチ!パンチ!

 首は50センチほど飛んで、障子戸の際まで弾け転がった。

 どす黒い液体が心臓の鼓動に合わせて脈を打つように、いねの首からあふれ出てきた。

 首がちぎれる直前、いねは枕を覆っていた布の端に必死で嚙み付いていた。

そのせいもあって、いねの首は遠くまで飛ばなかった。叫びあせる

 睦雄は育ての祖母・いねという、心の絆しをついに断ち切った。

 

昔の人は、出産するときに、天井から吊るされた紐を使い、口に布をくわえ痛みを

こらえたのと同じで、大きな声を上げないようにしたのかも?

三島由紀夫氏みたいに、何回も首を切らなくても・・・ムキー おばあちゃん

 

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荒坂峠の睦雄が自決した場所付近からの眺め(2014年撮影) ©石川清

 

 睦雄はいねに対して “恐怖” を抱いていた。

 首を切断するという殺害方法を選ぶ理由は、相手が絶対に生き返ってこないように、

確実に殺すためだ。加害者が被害者に対して “恐怖心” を抱いている証拠だとされる。おばあちゃん

 首を絞めて窒息させたり、刃物で身体を刺したり、口径の小さい銃で相手を撃っても、

確実に死ぬとは限らない。

 睦雄は3月にいねの毒殺を謀ったものの、気づかれてしまい未遂に終わっている。そのことがきっかけとなって、警察の家宅捜索を受けたことで、睦雄の計画が水泡に帰した経緯があった。

 

太宰治も毒を飲み水死しましたが、この睦雄も完全に殺さないと生き返ることを知っていた。

やっぱり、吹石一恵の母親の大叔母と大叔父が憑依し、怖い思いをさせられた ムキー

 

睦雄の姉みな子も厳格だった

 2010年(平成22)、睦雄の姉みな子の息子(津山事件当時はみな子のお腹の中にいた)

が私にこう語ってくれた。

「母(みな子)は平成3年(1991)6月3日に亡くなりました。76歳でした。

私には津山事件のことや叔父(睦雄)のことは、まったく話してくれませんでした。

 母は、とても人当たりが良く、明るくて周りの人に好かれる人でした。

結婚の仲人をよくしていましたが、わたし自身は母が苦手でした。

だから、高校を出たらすぐに就職して家を出たんです。

 

 わたしが母を苦手だった理由は、とにかく子どもや孫に対しては厳しく、容赦がなかったからです。間違ったことをすると、すごかったです。怒って、馬乗りになってひっぱたくんですよ。まあ、昔の人のしつけとしては普通だったのかもしれませんけれど、そのころのほかの家の

しつけと比べても、格段に厳しかったです。わたしの子ども(みな子の孫)が母の家に

下宿していた高校生のときも、そんな感じだったみたいです。家の外の他人には明るくて

優しい人にしか見えなかったんですけれどね」おばあちゃん

 みな子は、外の人には人当たりのいい優しいおばあさん、身内や家族に対しては

鉄拳制裁も辞さない厳格な母であり祖母だった。間違ったことは大嫌いで、理不尽なことが

あれば、昔の津山市長にも公然と食ってかかったことがあるという。パンチ!パンチ!

温和で働き者だったというみな子の夫とはまるで正反対の性格だった。

 

お大叔母のフィリピンのお母さんも、こんな感じで厳しいはず。

もしかすると吹石一恵の母親の大叔母がみな子さんに憑依し、

フィリピンのお母さんのマネをして厳しくしたのかも プンプン おばあちゃん

 

厳格な祖母には頭が上がらなかった睦雄

 みな子も睦雄同様、おばあちゃんっ子だった。祖母いねに、手取り足取り躾けられたのだ。

 いねは、まがりなりにも由緒ある倉見の都井本家に嫁入りした。

だから、旧家の厳格な躾や習慣が身についていた。

 みな子が時に鉄拳制裁も辞さなかったように、育ての祖母であるいねも同様に

みな子と睦雄に接した。おばあちゃん

 睦雄は甘やかされただけでなく、厳格な祖母の厳しい躾をずっと受けてきた。

だから、祖母にはなかなか頭が上がらなかった。

 睦雄に殺害された岸田つきよは、10円札を押しつけて睦雄が情交させてくれと迫ってくると、からかうようにこう言い放った。

「そんなことをするのなら、この金をばあさんのところへ持って行って話をするぞ、

と言ってやったら、睦雄はすごすごと帰った」(事件後の寺井マツ子の証言)

 睦雄がむちゃなことをしてきたら、「ばあさんに言うぞ」と言い返していたのだ。

すると、睦雄が黙ってしまうことを皆が知っていた。おばあちゃん

 “絆し” を断ち切ること、そしていねに対する恐怖心──それが睦雄に斧を握らせた

理由ではないだろうか。

 

フィリピンのお母さんのことを言うと吹石一恵の母親は、危害を止めるのは

それだけ、しつけや教育が厳しかった。時には鉄拳という技術を使って痛くする。

長女は、お母さんから手とリ足取り教えてもらっても上手く行かなかった 物申す おばあちゃん

 

 

「あー、誰にも言いたくないし、思い出したくないわぁ」

家族5人を殺した犯人との関係を邪推され…《津山三十人殺し》で

生き残った女性が語る “その後の人生”

『津山三十人殺し 最終報告書』より#4

石川 清 

 

 1938年(昭和13年)5月21日未明、岡山県の山間にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾と

いう集落で、30人もの老若男女がわずか1時間あまりの間に相次いで惨殺される事件が起きた。その事件こそが、世にいう「津山三十人殺し」である。

 事件の犯人である、当時22歳の都井睦雄は一体どんな青年だったのか。ここでは、

津山事件研究の第一人者であり、2022年6月に57歳で急逝した石川清さんの記録を

まとめた『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)より一部を抜粋して紹介する。

 2010年、石川さんは “津山事件の生き残り” である寺井ゆり子さん(仮名)

訪ねて話を聞いた。彼女は睦雄が執心し、横恋慕を重ねたとされる女性でもある。

事件から80年以上が経ってから語られる被害者の思いとは――。

 

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津山事件が起こった集落・貝尾 ©石川清

◆◆◆

「あー、誰にも言いたくないし、思い出したくないわぁ」

 2010年(平成22)10月――私は思い切ってゆり子の家を訪ねた。

 ゆり子は家にいた。

 94歳(当時)になってはいたが、元気だった。耳こそ遠くなっていたが、

毎日のように運動もするし、テレビも楽しんで観ているという。

 若いころは相当な美人だったのだろう。目鼻立ちははっきりしており、

その手は今も柔らかく、きれいで温かかった。

 

 私が睦雄と事件のことについて聞きたいと言うと、彼女はこう言った。

「あー、誰にも言いたくないし、思い出したくないわぁ。東京からよう来てくださったけれど、悪いなぁ、話せませんのですぅ。家族5人を殺されて、情けのうて、哀しくて……」

 しかし、ゆり子は生来の話し好きのようで、やがてゆっくりと昔を思い出しながら

話をしてくれた。

 ゆり子と睦雄は小学校からの同級生だった。睦雄は小さいときは、それは頭が良かったと

いう。

 だが、睦雄の両親が肺病で死んだことが発覚したあたりから、素行がおかしくなったという。女性たちを付け回すようになり、次第に村の中でも浮いた存在となり、嫌われだした。

ゆり子も外の道で睦雄と出くわすと、田んぼの畦にわざわざ入って大きく迂回して、

睦雄を避けたという。おばあちゃん

 事件の直前の時点では、睦雄はほとんど村八分状態になっていたという。

 “睦雄はいずれ何か恐ろしいことをしでかすから” と言って、貝尾の外へ逃げ出した

女性(寺井マツ子のこと)もいたという。

 惨劇の夜、ゆり子は睦雄が自分を狙ってくるのをうすうす感づいていたという。だから、

騒動が起きたと気づいた直後、いち早く逃げた。家族5人は殺害されたが(まさか家族まで殺害されるとは思わなかったようだ)、ゆり子は必死で近くの家に逃げ込んで、匿ってもらった。

そうしたら、その家のお爺さん(寺井孝四郎のこと)までが睦雄に殺されてしまった。

「本当に申し訳ないことをしましたぁ。情けないですわぁ」

 ゆり子は目に涙をためて訴えた。

 

事件後、睦雄との関係を邪推され続けた

 辛かったのは、睦雄との関係を邪推され続けたことだったという。

 自分は睦雄とは関係がなく、睦雄のほうが一方的に迫ってきただけだった。

だから、とても恐かった。肉親をことごとく惨殺されながら、よりによって加害者である

睦雄との関係を邪推され続けた。これは本当に辛かったという。おばあちゃん

 事件後、ゆり子は嫁ぎ先に戻った。事件から4年後の昭和17年(1942)に長女が産まれ、

長女を筆頭に3人の子宝に恵まれた。

 

 夫はほどなく戦争に行ったが、出征先で1ヵ月後に倒れた。結核だった。

やがて戦場から故郷に戻ってきた夫は、津山の病院への入退院を繰り返した。

 ゆり子は家の全財産を夫の治療につぎ込んだ。結核は治療に金のかかる病だった。夫の病状はなかなか回復しなかった。そして、治療のかいもなく、夫は昭和24年(1949)に亡くなった。

 だが、ゆり子に悲しむ暇などなかった。3人の幼な子を育てなくてならなかった。

しかもその頃、夫の母親が半身不随になり、寝たきりの状態となった。みな子にとって

義母の介護は大きな負担となった。義母のわがままはひどく、その介護は艱難辛苦

(かんなんしんく)を極めたという。おばあちゃん

 

 ゆり子は一家の大黒柱として、女手ひとつで生活や財産も守らなくてならなかった。

ゆり子の嫁ぎ先は、村の共有林に一定の権利を持っていた。1年に一度、共有林から切り出した木材を販売し、その利益は村人みんなで分配した。だが、利益の分配を受けられるのは、

共有林の整備に労働力を提供した家だけだった。だが、女ひとりのゆり子に何ができよう。

そこで、ゆり子は隣村やその先の村まで出かけて、日当を出して自分の代わりに作業をやって

くれる人間を雇った。仕事、畑、育児、義母の介護……ゆり子の日常はまさに火の車だった。

 だが、夫の遺族年金が支給されるようになってから、少しずつ生活に余裕が出てきた。

もともとが倹約家だったゆり子は、のちに村でも屈指の立派な家を新築するまでになった。おばあちゃん

 このために、ゆり子一家は周囲に嫉妬され、睦雄の隠し子疑惑など、事実無根の噂を

流された。パンチ!パンチ!

 

嫉妬をされ事実無根の噂まで流され、吹石一恵の母の大叔母と大叔父が

村人に憑依し、悪い噂を流した 物申す おばあちゃん

 

 最近になって、ようやくゆり子は幸せを実感できるようになったという。

「今はデイサービスがいちばん楽しいです。友達もいるし、迎えに来てくれますし」

 取材を終えたあと、ゆり子は私に紙の鍋敷きをくれた。彼女の手製の贈り物である。

 

 ゆり子は、優しい素敵なお婆ちゃんだった。

 

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ゆり子さんが石川さんに渡した手製の鍋敷き ©石川清

ゆり子、逝く――

 2016年(平成28)の秋ごろのことだった。

 岡山在住のIさんからメールが届いた。Iさんは、津山事件の取材で何度も

お世話になっている人物だ。メールは短く次のように記されていた。

「津山事件の生き残りであった寺井ゆり子さんが亡くなられたようです。ご冥福を祈ります」

 メールには画像が一枚添付されていた。地方新聞のお悔やみ欄に掲載された記事を

写したものだった。そこには確かに次のように記されていた。

寺井ゆり子99 加茂町○○

 もちろん、寺井ゆり子というのは、仮名である。

 ゆり子は、確かに加茂町○○に住んでおり、2010年の秋に私はゆり子の自宅を訪ね、

3時間あまりにわたって事件のことについて話を聞いていた。

 間違いなかった。寺井ゆり子は、2016年10月5日に他界していた。

享年99歳(満年齢)だった。パンチ!パンチ!パンチ! 星

 

 “ゆり子逝く” の報を聞いて、私の心の中に何かポッカリと

大きな穴が空いてしまったような感覚に陥った。パンチ!パンチ!パンチ!

 津山事件の取材を20年以上続けてきた私にとって、ゆり子は最も重要な事件の

関係者だったからだ。

 

この事件を知っていた吹石一恵と母親が、この人がこの事件を調べていたのを知り、

母親と三女が憑依し、大きな穴が空いたような感覚に陥いれさせられた プンプン

 

 

ゆり子と睦雄の出会い

 睦雄がゆり子と出会ったのは、おそらく睦雄が5歳、ゆり子が4歳のころだった。

 当時、同じ集落にゆり子が住んでいた。ゆり子と睦雄は一応遠縁の親戚筋にあたる。

ただ、貝尾のような小さな集落では、住人のほとんどがなんらかの血縁関係を持っていた。

 睦雄はおとなしく頭のいい、色白でかわいい男の子だった。一方、ゆり子は活発で、

男まさりの元気な女の子だったという。

 ふたりが西加茂尋常小学校にそろって入学したのは、大正13年のことだ。

 やがて、睦雄はゆり子に恋心を抱きはじめた。 

 私は、2010年の取材でこの点について、ゆり子に直接尋ねると、

睦雄は遺書のなかで、ゆり子と「 関係があった 」と記しているが、

真偽のほどはどうなのだろうか。

彼女ははっきりとした口調で否定した。

「 そんなことはないです 」

 

 一方、近隣の村人で当時を知る人は、「 関係はあっただろう 」と話している。パンチ!パンチ!

 真偽のほどはわからない。だが、睦雄がゆり子に対して、異性として特別な感情を

抱いていたことは間違いなかった。

 別れ際、私はゆり子に小学校で同級生だったころの睦雄の印象を改めて尋ねてみた。

「むっちゃん(睦雄)の思い出ですか? そうですね。大人しくて、真面目でしたよ。

子どものときは、けっこう優しいところもありました……」

 晩年のゆり子は散歩が好きだった。大きな乳母車を押しながら、

よく近所の山間の田園地帯を散歩していた。おばあちゃん

 笑顔を浮かべてゆったりとした足取りで歩くその姿は、今も私の脳裏にしっかりと

刻み込まれている――。

 
睦雄は、ゆり子に恋をしていたけれど、相手にされず失恋したけれど、
遺言書の中だけでも、ゆり子と関係があったと願望を書いた ハートブレイク 
 
 
もう少し、まとめなど他の記事を呼んでup予定です。
 
 
最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート