作成者 / yujitake226
「オウム真理教」の最高幹部の1人でマスコミに取り囲まれる中で、
突然刺殺された村井秀夫が話題です。
ここでは村井秀夫の生い立ち、嫁や子供、村井秀夫刺殺事件やなぜ殺されたのかの真相、
検死での死因や犯人の在日韓国人で暴力団関係者の徐裕行などについてまとめてみました。
村井秀夫(オウム真理教幹部)とは
村井秀夫は、国内最大のテロ事件「地下鉄サリン事件」を起こしたカルト宗教団体
「オウム真理教」の幹部だった男です。「オウム真理教」には省庁制があり、村井秀夫は
「科学技術省」の大臣を務めるトップでした。村井はIQ180とも言われる天才だったとされ、「地下鉄サリン事件」で使われた「サリン」をはじめとする「ボツリヌス菌」や「ホスゲン」
などを用いた毒ガス兵器の製造計画に関わりました。
さらに、村井秀夫は毒ガス兵器の他にも、プラズマ兵器やレーザー兵器、自動小銃、さらには
核兵器の製造までもを麾下の「科学技術省」の人員に向けて指示していたとされます。
また、村井秀夫は「オウム真理教」全体で見ても、教祖の麻原彰晃の意志を信者に伝える
役割を果たし、麻原彰晃に次ぐ教団内ナンバー2の立場にあったと言われています。
村井秀夫の生い立ち ① 小学生〜中学生時代
村井秀夫の生い立ちについても見ていきます。
村井秀夫は、1958年12月5日に大阪府吹田市で誕生しました。
幼少期の村井秀夫は、穏やかで優しい性格でいつもニコニコしている子供でした。
子供時代の将来の夢は「動物園の飼育員」で、熱帯魚や小鳥を飼っており、熱帯魚が死んで
しまった時には今にも泣き出しそうな顔でふさぎ込んでしまった事もあったようです。
またSFに興味を示し、特にアメリカのSFドラマ「スタートレック」シリーズの大ファンで、
同作のキャラクター「ミスター・スポック」が大好きな少年でした。
小学校を卒業した村井秀夫は、「吹田市立青山台中学校」へと進学。中学生時代の村井秀夫は、友人の兄がトラックに飛び込んで自殺する衝撃的な光景を目にしています。
3年生の時には、学校で大きなクモが出て、それを同級生らが取り囲んで足で踏み潰したりしてはしゃいでいるのを、1人だけ輪に入らずに黙ってじっと見ていました。当時の同級生は、
村井秀夫を「とにかく大人しく、虫も殺さないタイプ」だったと振り返っています。
村井秀夫の生い立ち ② 高校生時代
中学校を卒業した村井秀夫は「大阪府立千里高等学校」へと進学しています。
高校生時代の同級生によると、村井秀夫はとても真面目な生徒で自由な校風で私服通学が
認められている中、いつも制服をきちんと着ており、学年でただ1人「無遅刻無欠席」を
達成して表彰されたりもしたそうです。
また、勉強の成績は極めて優秀で、試験の成績トップ、特に理数系は強く、数学Ⅲの教師すら
解法を悩む難問を、「こうすれば解けますよ」と黒板にスラスラと数式を書いて
解説して見せた事もあったと、別の高校時代の同級生が振り返っています。
村井秀夫は、勉強ができるからといって決して偉ぶらない事から同級生や教師達からのウケも
良く、担任教師の1人は妻に「教え子に凄いのがいるんだ」と誇らしげに話していたのだとか。
村井秀夫の生い立ち ③ 大学時代
高校を卒業した村井秀夫は「大阪大学理学部物理学科」へと進学しています。
高校時代の教師は村井秀夫に京大受験を勧めましたが、「歩いて通えるから」と
言う理由で村井は大阪大学を受験しトップ合格しています。
大学に行っても村井秀夫は学力トップで、周囲に勉強を丁寧に教える事も多かったそうです。
性格はとても温厚で「お釈迦様」というニックネームで呼ばれていたそうです。
村井秀夫は様々な分野に興味を持ち、ハマるとひたすらのめり込むタイプだったようで、
大学のサークルは「天文同好会」に入り、昼休みには、当時流行っていた
「紅茶キノコ」の研究に没頭していたようです。
村井秀夫の生い立ち ④ 大学院を経て就職
大学卒業後、村井秀夫は現役で「大阪大学大学院理学研究科修士課程」へと進み、宇宙物理を
専攻して天体のX線放射の研究に没頭しています。当時の指導者は、村井秀夫を高く評価して
おり、「コンピューターのソフトウェア作りに天才的な素質を持っていた」と評しています。
村井秀夫はこの頃に、インド宗教に興味を持ち始めヨーガや仙人を会得したいと
周囲によく話していたようです。
1977年、村井秀夫は「大阪大学大学院理学研究科修士課程」を修了し、
理学修士の学位を授与されています。
大学院卒業後は「神戸鉄鋼」に研究者として就職し、「超塑性鍛造」の研究に携わりました。
同社内でも村井秀夫の評判はすこぶる良く、「仕事を教えるとすぐに覚える、
本当に新入社員かと思うほどの切れ者」と高く評価されています。
村井秀夫の生い立ち ⑤ 嫁・森脇佳子と出会い結婚
村井秀夫は「神戸鉄鋼」で働き始めてからしばらくして、同期入社だった6歳年下の
森脇佳子と交際し始めています。後に村井秀夫の嫁となる森脇佳子は、神戸市内の進学校を
卒業した才女でしたが、諸事情により大学進学を断念し「神戸鉄鋼」に就職しました。
高校時代の同級生によると、森脇佳子も傷ついた鳩を手当てしてあげるような
優しい女性だったようで、村井秀夫の性格ともよく似ている印象を受けます。
1985年4月に村井秀夫と森脇佳子は結婚、プロポーズは村井秀夫の方からで
「君のうんこでも食べるから結婚してくれ」という大胆なものだったそうです。
結婚式は、嫁の森脇佳子の「ヒマラヤ山脈が見たい」との要望から、ネパールのカトマンズで
挙げています。2人はそのまま会社の寮で新婚生活をスタートさせています。
村井秀夫の生い立ち ⑥ 嫁と共にオウム神仙の会に入会
嫁の森脇佳子と結婚し、仕事上の評価も高く順風満帆な人生を送っているかに見えた
村井秀夫でしたが、この頃から様子がおかしくなり始めたようです。
村井秀夫は周囲に、超能力などの目に見えない力の存在や「解脱」という言葉を
漏らすようになり、ヨーガや気功法などの修行を嫁の森脇佳子と共に毎朝欠かさずに
行うなどの行動も見せ始めています。
そして、ヨーガの本を探すために通っていた本屋で村井秀夫はオウム真理教の教祖・
麻原彰晃の著作「生死を超える」、「超能力秘密の開発法」という2冊の本に出会います。
村井秀夫は、この2冊の本に衝撃を受け「自分の求めていたものはここにある」と確信すると、すぐに「オウム神仙の会・大阪支部」のセミナーに参加。そのセミナーに参加した翌日、
村井秀夫はすぐに会社に辞表を提出し、1986年5月、嫁の森脇佳子と2人で
「オウム神仙の会(後のオウム心理教)」に入信したのです。
その後、村井秀夫は「オウム真理教」の最高幹部の1人となり教団内の「科学技術省」のトップとして、毒ガス兵器や化学兵器の研究に没頭。村井秀夫は麻原彰晃からの荒唐無稽な要求に全て「はい出来ます」と即答し、次々と役に立たない失敗作を作り続けましたが、麻原彰晃は自分の妄想を全て肯定して実現させようとする村井秀夫を評価し何億円もの予算を与え続けました。
そして村井秀夫は、「男性信者殺害事件」、「坂本弁護士一家殺害事件」、「地下鉄サリン
事件」など、オウム真理教の起こした重大事件のほぼ全てに深く関与したとされます。
しかし村井秀夫は、その一連の事件について何も語らぬまま1995年4月23日、東京都港区に
あった教団の総本部の前で、突如現れた男に刺殺され36歳の生涯を終えました。
村井秀夫には2人の子供(隠し子)がいるとの噂も
村井秀夫には、嫁の森脇佳子とはオウム真理教に入信した直後に教団の戒律に従って
離婚しており、2人の間には子供はいません。しかし、村井秀夫には隠し子が2人いるとの
衝撃の内容を週刊誌「サンデー毎日」1995年の38号が報じています。
「サンデー毎日」によれば、取材をしたオウム真理教の音楽部門の幹部だった女性信者の1人が「私の子供たちの父親は村井秀夫さんです」と衝撃の告白をしたという事でした。
この女性は1995年当時24歳で、村井秀夫よりも12歳年下、嫁の森脇佳子よりも6歳年下
でした。この女性信者によれば、村井秀夫の子供は1993年8月と1995年3月に誕生しており、
2人とも男の子だったようです。村井秀夫は、この子供の存在を知っていたが、正式な結婚ではなかったので出生届は出さず、この女性は村井秀夫の死後に、ようやく出生届を出したという
事です。この2人の子供の現在については不明です。
村井秀夫刺殺事件の犯人は暴力団員・徐裕行
村井秀夫は、「地下鉄サリン事件」から約一月後の1995年4月23日、東京都港区南青山の
オウム真理教教団総本部前で、マスコミに取り囲まれ注目される中で、
突然現れた男に刺殺されました。
村井秀夫刺殺事件の犯人は徐裕行(ソ・ユヘン じょひろゆき)という在日韓国人の男で、
その場で逮捕されています。
この犯人・徐裕行は、警察の取り調べに山口組系の右翼団体「神州士衛館」の構成員と
名乗りますが、実際にはこの右翼団体は政治活動は行っておらず、犯人・徐裕行は
その右翼団体の上部組織である山口組系の暴力団「羽根組(現在は解散)」の構成員でした。
犯人・徐裕行は村井秀夫刺殺の動機について「義憤に駆られた」と語りますが、
その後の取り調べで「羽根組」の若頭の指示で犯行を行ったと供述を変えています。
その後の裁判で犯人・徐裕行には、懲役12年の判決が下されて
旭川刑務所に服役、2007年に満期出所しています。
村井秀夫の検死結果や死因
村井秀夫は検死の結果、致命傷は右わき腹に受けた深さ13cmの刺し傷とされ、
死因は、出血性ショックによって起きた「急性循環不全」と発表されています。
村井秀夫はなぜ殺されたのか?その真相とは
村井秀夫を刺殺した犯人・徐裕行は「義憤のためにやった」「所属していた暴力団の若頭に
言われてやった」などと供述していましたが、村井秀夫がなぜ殺されたのかについては
はっきりせず、陰謀論など様々な説が囁かれています。
村井秀夫はなぜ殺されたのか ① オウム真理教内部の口封じ説
村井秀夫は麻原彰晃の右腕的立場にあり、教団内部の事情を知りすぎていました。
そのためオウム真理教内部による口封じ説が存在します。
村井秀夫は救急搬送される際に、「ユダ、ユダ」と繰り返していたとされます。
「ユダ」は裏切り者の象徴として使われますが、これが教団内に裏切り者に殺害された事を
意味しているのではないかとする見方があります。
村井は瀕死の状態で病院に搬送される際、「誰にやられたんだ」という
救急隊員の質問に対し、「ユダ、ユダ」と繰り返し答えたという。
ユダといえば、キリスト教ではイエスを裏切ったとされる人物だ。
はたして教団内にユダはいたのか。村井はなぜ殺されたのか。
村井秀夫はなぜ殺されたのか ② 暴力団や北朝鮮の陰謀説
村井秀夫が殺害されたのは、オウム真理教との関係が表に出る事を恐れた、
暴力団や北朝鮮による暗殺であるとする説もあります。
暴力団とオウムの関係については、村井秀夫が世話役として山口組系の不動産会社と
土地取引をしていたという情報が出ています。また、北朝鮮の陰謀説については、
犯人の徐裕行と北朝鮮との関わりが指摘されており、徐裕行は警察官や検事から何
度も繰り返し「北朝鮮に行ったことがあるか?」という質問されたといいます。
ただ、何らかの重要な秘密があったとして、村井秀夫1人だけが握っている
重大な秘密とは一体何なのでしょうか?
まとめ
今回は、「オウム真理教」の最高幹部の1人で1995年にマスコミが取り囲む中で
突然刺殺された村井秀夫についてまとめてみました。
村井秀夫は学生時代は非常に優しく穏やかな性格で勉強も優秀な人物で、周囲からも高い評価を得ていました。しかし、「オウム真理教」に入信してからは毒ガス兵器や化学兵器の製造に
関わり、オウム真理教の起こした数々の凶悪事件に深く関わっていました。
そして、「地下鉄サリン事件」が起きてからわずか1ヶ月後、オウム真理教への疑惑が社会から注がれる中で、在日韓国人の暴力団構成員・徐裕行によって殺害されその生涯を閉じました。
村井秀夫がなぜ殺されたのかについてはいまだに謎が多く、
現在も陰謀論を含め様々な説が囁かれています。
オウム“村井事件”の実行犯が激白 「僕が村井を刺した本当の理由」
オウム真理教 2018/07/06/ 18:05 森下香枝 週刊朝日
殺害された村井秀夫

6日、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら7人の教団元幹部の死刑が執行された。一連のオウム真理教事件のひとつで、幹部だった村井秀夫が刺殺された「村井事件」は、多くの謎が残った。その場で逮捕された徐裕行・元服役囚(48)は12年の懲役刑を終え、2007年に満期出所した。最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に
発売された『 週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』では、彼にインタビューを敢行。
「残された謎の数々」に迫ったインタビューを掲載する。
* * *
──共犯として暴力団幹部が後に逮捕され、裁判では無罪になった。
だが、謎がたくさん残されている。
「この事件はもう判決が出て終わっている。今もお話しできないこともある。だが、なぜ、
僕が事件を起こしたか。それは、最終的には『個人の憤り』です。あの当時、社会全体が
オウムに対し、憤りがあったし、僕も『とんでもない連中だ』と強い義憤を感じていた。
いろんな要因はあったにせよ、殺害しようと決断したのは僕です。一番の動機をあえていえば、地下鉄サリン事件の映像を見た衝撃で義憤にかられたことです」
──サリン製造の統括責任者だった村井幹部の殺害は「麻原による口封じ」という説が
根強く残っている。
「僕は最初から村井を狙っていたわけじゃない。上祐(史浩)、弁護士のA・Yの3人なら
誰でもよかった、と当時から一貫して話していた。口封じ説が今も疑われているのは知っているが、村井を人前で殺害した僕がなぜ、わざわざ3人を狙っていたと言う必要があるのか。
それで背後にある陰謀を隠すことができますか。できないでしょう。
3人を狙おうが、最初から村井を狙おうが、僕にとっては意味がない」
──しかし、結果的に村井幹部の死で、化学兵器、武器などの密輸ルートなどが
解明されずに終わった。
「オウムはこれまで教団にとって都合が悪くなった人間を、自分たちで『ポア』してきた。
なぜ、村井の時だけ外部の僕にわざわざ頼むのか。教団内部で殺害し、どこか山奥に
遺体を隠し、行方不明と言えば、当面は発覚しなかったでしょう。
公衆の面前で殺したら疑われるだけ。口封じ説は理屈に合わない」
──当時、あなたに借金があり、それを帳消しにするために、暴力団にヒットマンとして
雇われたという見方もありました。
「僕は事件の2年前、経営していたイベント会社を倒産させ、借金は1千万円以上ありました。倒産後、半年ぐらいは、取引先、銀行などから金を返せと催促の電話がありましたが、
事件当時はほとんどなく、追われるような状況じゃなかった。警察は僕の収支を徹底的に洗い
ましたが、代償に借金を払ってもらった形跡も、大金をもらった形跡もなかったはずです」
──当時、オウムとの接点は何もなかったのか。
「取り調べの時、オウム幹部の写真をたくさん見せられた。テレビで見た人は知っていたが、
それ以外は全然わからなかった。『 誰をどう知っている 』ということは証明できるが、
『 接点がないことを証明しろ 』と言われるのが、一番難しい。当時は僕が韓国籍なので、
オウムと闇で接点があったとも言われましたが、『 ありません 』と言うしかなかった。
A・Y、上祐、村井のいずれも当日、初めて会いました」
──犯行当日の様子を聞かせてほしい。
「本部ビルに午前11時過ぎに着いたが、教団幹部たちの動向は知らなかったので、
最初はウロウロしていた。報道陣は十数人ぐらいでした。するとビルの前に車が横付けされ、
誰かが『 A・Yだ 』と叫んだ。え、と思って見たら、僕は入り口と反対方向にいた。
追いかけようとしたときには、彼はもう足早にビルの中に入ってしまった。
凶器はカバンの中に入れていたが、出すこともできなかった。出入り口はわかったが、
怪しまれるので、ずっと立っているわけにはいかず、距離を保ちつつ、付近の様子を見ていた。次に上祐の車が来たが、すぐ報道陣に二重、三重に囲まれていた。A・Yの時よりは
近寄れたが、群がる報道陣を引き離すわけにもいかず、物理的に(殺害は)不可能だった」
──村井幹部の時はなぜ、実行できたのか。
「夜になると、教団側が生放送でインタビューを受けるのか、テレビ局の中継車が続々と
東京総本部前の路上に横付けされた。報道陣ややじ馬ら数百人で現場はごった返していた。
そのため、村井が乗った車は入り口にたどりつけず、途中で車を降りて歩き出したようだった。テレビのスポットライトが四方八方から村井の姿を照らし出し、その光がこちらへどんどん
近づいてきたので、位置がわかり、近寄れた。村井の顔が見えるか、見えないか、
という状況で視線は合わなかったが、洋服を見て、すぐに村井本人だとわかった」
──衝撃的な殺害の瞬間は多くのテレビカメラがとらえていた。中でもTBSのカメラは犯行前
から執拗にあなたを撮影していて、事前に計画を知っていたのでは、という疑惑を呼んだ。
「その疑惑はありません。途中からカメラが僕を撮っているのはわかっていた。僕は報道関係者ではないから、漂わせている空気も違う。それなのに昼間から現場に10時間近くいたから、
相当、怪しく見えたのでしょう。ディレクターらしい人がこちらをチラチラ見ながら、
カメラマンに撮るように指示していた。カメラが僕のことをずっとマークしているなと
思っていましたが、そんなに気にはしませんでした」
──当時、オウム幹部には警官が張り付いていたはずだが。
「刺した後に、私服警官が人をかき分けてやってきて、『 誰がやったんだ 』と叫んだので、
凶器を捨てて『 僕です 』と名乗り出ました。すると、『 覆面パトに乗れ 』と言われた。
そのまま、赤坂署に連行された」
──殺害に対し、迷いはなかったのか。
「ありましたよ。僕には両親など家族がいましたから、事件によって多大な迷惑を
かけることになる。僕から家族の絆を一方的に断ち切るような形になってしまった」
──村井幹部に対し、いまはどう思うか。
「収監された旭川の刑務所の中で、オウムや村井について、いろんなことを考えました。
その思いをここで今、整理してお話しすることは難しいですね。刑務所の中にいて、僕は家族の絆というものが、本当にありがたいものだな、と再確認しました。事件を起こし、迷惑をかけた僕を家族は見捨てず、ずっと支えてくれた。オウムはあのような未曽有(みぞう)のテロを
起こし、被害者らの命を突然、何の理由もなく、奪った。彼らはそんな家族の大事な絆を理不尽に断ち切ってしまったのです。それが許せなかった、という気持ちは今でも変わりません」
──出所から5年。現在はどう生活しているのか。
「昨年の3・11の大震災の時は居ても立ってもおられず、仲間と一緒に水と援助物資を持って
福島へ行きました。今はリサイクル関係の仕事をしながら、北朝鮮拉致被害者救出の
署名集めをしています。僕は在日社会が拉致事件でもっと動くべき、というのが持論です」
(編集部・森下香枝)
※週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」(2012年7月15日号)から抜粋
この時は、ニュースで毎日報道していたので見たいましたが、何故、誰も気が付かなかった
のか?不思議でしたが、TBSは怪しいと思っていたのが分かりましたが・・・。
その思いをここで今、整理してお話しすることは難しいですね。というのは、
家族に被害を被るという事? それ以外考えられない
1995年1月17日阪神大震災があった時、同じように桑名正博さんも仲間と一緒に
援助物資をもって神戸に行ってました
もう少し深掘りします
本当に、人の嫌な事をしてこないで。仕事の邪魔をしないで(ロケ、インタビュー、取材など)
人の後ろに憑かない、憑依しない、コントロールしない。人に他人の言葉を言わさない
歯、爪、首、胸を痛くしない、感面麻痺をさせない。脳の中枢神経を触らないで
人の感情やパワーを抑えないで、ネガティブな感情を持って来ない(自殺、怒りも)
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました