残された北朝鮮たばこ 元警視総監「謎だらけ」 金大中氏拉致50年 | poohta8のブログ

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編集委員・吉田伸八 吉沢英将

 

 韓国の当時の軍事独裁政権を批判し民主化運動をしていた政治家で、後に同国大統領を

務めた金大中氏(2009年に死去)が1973年、東京のホテルから拉致された事件は、

8日で発生から50年になる。警視庁公安部の外事2課長として捜査を指揮した井上幸彦元警視

総監(85)が朝日新聞の取材に応じ、「難しい捜査で謎だらけだった」と振り返った。

 

 事件の一報は、金氏に近い日本の政治家から個人的ルートで聞いたとみられる

警視庁幹部からもたらされた。「110番通報で入るのが普通で、最初から不思議な パンチ!パンチ!

事件だった」。外事2課は北朝鮮の工作員らの監視、取り締まりを担っていた。

金氏が来日していたことは把握していなかったという。

 

都内で買われたリュックサック

 現場は東京・九段のホテルグランドパレス。22階の部屋で韓国の野党幹部らと

会っていた金氏が数人の男に拉致された。実行役たちがいた別の部屋からはさまざまな

遺留品が見つかった。その一つのリュックサックは都内の店で購入されており、

「袋詰めにして運び出す道具立てに見せかけたのかもしれない」。北朝鮮のたばこも

落ちていたが、「北朝鮮が絡んだにおいを出すためなのだろう」と思ったという。

ホテルの宿泊者名簿から実行者を割り出そうとしたが、偽名のため分からなかった。しばらく

して、遺留品から検出した指紋が、在日韓国大使館の金東雲1等書記官のものと一致した。

 

 東西冷戦下で日本と韓国が友好関係にあった中の事件だった。「我が国の主権を

踏みにじる形でこのようなことをまさかやるのか、信じられなかった」。

韓国当局とは日頃から情報交換をする関係だったが、事件以降はそれも途絶えたという。

指紋でわかったのは1人だけだったが、各種の情報捜査で実行役や支援役ら

数人の人物を特定した。ただ、いずれも日本を出国していたという。

 

拒否された聴取要請

 警察当局は韓国政府に、金氏や実行に関わった大使館員らの聴取を要請したが、

拒否された。「捜査の一番の問題は被害者から話を聴けなかったこと。そこが決定的な

難しさだった」。その後、韓国当局が聴取した金氏の調書が送られてきた。

被害状況が詳細に書かれていたが、「筋書きができているかんじだった」と言う。

金氏にはボディーガードが付いていたのに、なぜあの時は離れたのか。

乗せられた車で大柄な金氏がずっと後部座席に寝かされていたというのは信じ難い。

途中寄ったという大阪方面のアジトとはどこなのか。「腑(ふ)に落ちないことが多かった」

政治決着「影響されず、やるべきこと続ける」

 事件から3カ月後の73年1…

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韓国、在日スパイ事件の無罪確定/金大中氏死刑、根拠なしに

2013/05/09 12:29

 

【 ソウル共同 】韓国最高裁は9日、1977年に北朝鮮のスパイをしたとの国家保安法違反罪

などで連行され、約2年間服役した在日韓国人の金整司さん(57)と柳成三さん(59)の

再審上告審判決で、無罪とした高裁判決を支持、検察側の上告を棄却した。

2人の無罪が確定した。

 2人に対する78年の確定判決は、民主化運動指導者だった故金大中氏(後に大統領)が

80年に死刑判決を受けた最大の根拠だった。
金整司さんら2人はソウル留学中に連行され、日本で北朝鮮側の指導員から指令を受け、

韓国で機密を探知したなどとして起訴された。

 

 

追悼・金大中韓国元大統領(小栗 敬太郎)2009年11月

 

20年後に実った『 リップ・サービス 』

金大中氏が亡くなった。死刑判決も受けた反体制運動家から大統領まで、波瀾万丈の

85年の生涯だったが、最期の床は病院で安らかだったときく。ご冥福を祈る。

初の韓国語学留学生として

東京都心のホテルに白昼堂々踏み込んで政敵を袋詰めにし小舟でソウルまで拉致した

1973年の「金大中事件」。KCIA要員の指紋が現場で検出され軍事政権の

悪役イメージが極まった一方、金大中氏は被害者として著名人になった。

「良心的抵抗派」という非政治的なイメージがすんなり定着したのは、

この事件をきっかけに氏を知った人が多かったのだから当然かもしれない。

私が氏に最初に接したのは事件の3年前、語学留学生として滞在していたソウルだった。

朝日新聞の語学留学は英独仏中露に限られていたが、初めて韓国語が加わった。

植民地解放から四半世紀が過ぎ、日本語を知らない世代が登場してきたからだ。

「韓国語で韓国を取材する日本人記者」は当時では珍しがられた。

1970年10月30日、ソウルのホテルで外信記者会が野党大統領候補を招いて開いた会見。

脂の乗りきった40歳代半ばの氏は火を噴く勢いで政見を披露、「弁舌に秀で野心満々」

というのが初印象だった。75年特派員として赴任。使命感の強さを尊敬すると共に、

弾圧下にある「弱さ」を転じて軍事政権の不当を訴える武器に仕立てる戦略家の才にも感心

した。同氏を巡る状況は様々に変化したが、「私の金大中」像は初印象の延長上にあった。

78年12月27日、民主救国宣言事件で2年10カ月に及ぶ病院軟禁からの釈放が、

特派員を終え帰国直前の「最後のソウル電」となった。

釈放手記「空が恋しかった」

大晦日の朝刊第3総合面を埋めた独占手記は、面会に通う家族らを通じて

事前に何度も頼んであったとはいえ、釈放後すぐに長文が書けるはずはない。

病院では執筆禁止で「鉛筆一本がどんなに欲しかったか」と後で聞いた。
小さな獄窓から外を見た「空が恋しかった」という題字と署名は本人が

万年筆で書いてくれたが、大部分は口述筆記だった。

手記を得ることが出来た陰には、反体制派とのパイプが太かった鄭乎相氏の密かな

活躍があった。「言論弾圧」の悪印象が強い軍事政権だが、日本人特派員である

私の取材・執筆に直接介入したことはなく、KCIAとの関係は隠微な神経戦だった。

しかし韓国人助手は地元紙と同様、露骨な圧力と監視下にあった。

手記で興味があったのは、政敵である朴正熙大統領を意識して尋ねた独裁者論だった。

氏も政治家である限り、崇高な使命感だけでなく、熱い権力志向が内部に

渦巻いていても責められることでは全くない。政治記者としてリアリティのある

本音の一端でも引き出したかった。その問いに対し、弾圧の元凶である朴正熙氏に

直接触れるのはさすがに避けたが、秦の始皇帝・織田信長・ピョートル大帝の名前を挙げて

「その時代の要請に応えた」と肯定評価したのだ。

当時の切り抜き帳を取り出して塵を払ってみると、長文過ぎて削った部分を赤ペンで

書き添えてあった。「独裁者を評価するのかと誤解されるので付け加えると、

大衆の覚醒と能力が不十分だった当時の歴史的段階では独裁しかなかったのが現実だった。

彼らは少なくとも時代の要請を前進させた点を評価したのだ」

口述筆記を終え引き揚げるとき玄関で「大統領になった暁には単独会見に応じて欲しい」

と持ちかけた。おぼろな記憶だが、氏は苦笑気味に口元をゆるめ握手したと思う。

釈放されても軟禁の場所が病院から自宅に変わっただけで活動の自由もない状態では、

本気で約束を取り付けるというより「いつか大統領になれるといいね、死なずにがんばれよ」

という思いの、友人として激励のリップ・サービスが本音だった。
20年後、その「まさか」が現実になってしまった。東京編集局長だった私は

「単独会見をなんとしても取れ」と外報部に発破を掛けた。

 

言論弾圧や表現の自由は、政治家だけじゃなかった。( 常識はすれな毒舌禁止 )

日本にもありました。そして、人をコントロールしてこないで 物申すおばあちゃん パンチ!パンチ!パンチ!

そして、私のブログをコピべして、コメントを削除して自分が書いたようにしないで。

ブログを書きたければ、自分で調べてブログをupして プンプン パンチ!パンチ!むかっ

監獄学校で勝海舟も読破

リップ・サービス代わりの大昔の「約束」に効き目を期待できるはずもなく、

欧米メディアも含めた激しい競争を勝ち抜けたのは、小田川興君ら後輩の

歴代ソウル支局経験者が本人や側近に築いた人脈と、東亜日報などの支援のお蔭だった。

20年前、釈放手記で活躍した鄭乎相氏はその後一段と厳しくなった韓国政治の

閉塞を逃れて渡米し、その地の土となっていた。

1998年1月22日、青瓦台(大統領府)近くに設置されていた政権引き継ぎ委員会本部。

まともな政権交代も実現できないまま自民党「永久政権」下に安住する日本政治を取材した

身として「政治では韓国に一歩先んじられたなあ」という感慨を抱いて会見の部屋に入った。
会見に立ち会う予定だった松下宗之社長(故人)が午前中東京で所用ができ、

社有機で金浦空港に到着、パトカーの先導で駆けつけている最中という綱渡り。

「待つ間ぼつぼつ始めていましょうか」ということになった。

国家元首とのインタビューだから先方の言語を使うのが礼儀と30年近く前、

習った韓国語の錆を払って質問をすると、流ちょうな日本語が返ってきた。

獄中で七百冊を読破した勉強家で、勝海舟伝記まで含まれていると聞いた。

本人も「監獄こそ私の学校」と言っていた。

朝刊外報面2頁をつぶして展開した会見内容は省略するが、社長到着を間に合わせるため

会見時間がたっぷりあったのが幸い、答えが予測できる目先の政治の話に限らず、

昔話を含めゆったり問答できた。

朴氏と会話の希望実らず

20年前の釈放手記の始皇帝・織田信長・ピョートル大帝のことは覚えていて

「この三人が今ここに出てきても話が通じる気がする」と語り、手記では直接言及を避けた

朴正熙氏についても今度は「朴氏は私を殺そうとしたが私は誰もエネミー(敵)と

思ったことはない。亡くなる半年前に人を介して直接会って話し合おうと提案した。

1カ月待ったが結局ノーだった。今でも生存中に一回会いたかったと思っている」

と心情籠もる答えを得た。

問答に添えてソウルから送信した会見記に「金大中氏には取材を通じて、いくつかの顔を

見てきた。政策に明るく弁舌さわやかな野党政治家。人権尊重を唯一の武器に掲げて

強権政治を批判する反体制運動家。獄窓に寄ってくる雀を唯一の友として歴史や宗教の

世界に思いを馳せる思想家。これからは本人が望むと望まないとにかかわらず権力者の顔を

見せることになる」と書き、「実像、徹底した現実政治家」の見出しを敢えて立てさせた。

権力集中と過剰忠誠が大統領を裸の王様に祭り上げがちな政治風土の中で、

権力者としての金大中大統領がどう振る舞ったか、その評価は後輩特派員が伝えている。

現地にいない私が憶測で蛇足を加えるのは慎むのが職業倫理というものだろう。

金大中氏を死の寸前まで追い込んだ朴正熙氏は側近中の側近であった警護室長に

既に射殺されていた。それから30年後、黄泉で顔を合わせた二人のライバルは

どんな会話を交わしているのだろうか。

合掌

おぐり・けいたろう会員 1941年生まれ 64年朝日新聞社入社 ソウル特派員 

論説委員 政治部長 東京編集局長 常務取締役・総務労務担当 2001年朝日新聞退社 

海外新聞普及株式会社社長・会長 08年退任 

 

黄泉がえりという映画がありましたね。主演の竹内結子さんと草彅剛くん、主題歌を歌った

柴咲コウちゃん。それ以外にも、自殺や病死で亡くなられた、殺された人たちも

天国で、みんな仲良く、苦しくことがなく、楽しく暮らしていますか?

天国から、みんなを見守っていて下さい 笑ううさぎ おばあちゃん ヒマワリ

 

 

特集「緊迫!朝鮮半島」大中元韓国大統領が死去

平壌の空港で握手する韓国の金大中大統領(右、当時)と北朝鮮の金正日総書記=

2000年6月13日、北朝鮮・AFP=時事 】

 

【 ソウル時事 】韓国の民主化を主導し、朝鮮半島の分断後、初の南北首脳会談を実現した

金大中・元韓国大統領が2009年8月18日午後1時43分、多臓器不全により死去した。

85歳だった。入院先の病院が明らかにした。退任後も一定の影響力を保持し、

海外にも講演に訪れるなど積極的に活動していたが、7月13日に肺炎で入院。パンチ!パンチ!パンチ! 星

同16日から人工呼吸器を装着し、治療を受けていた。


 韓国における民主主義定着への貢献や北朝鮮との関係改善を進めた金元大統領の実績は

左派勢力からは高く評価される。しかし、保守層からは「北朝鮮への融和政策が

同国の独裁体制を助けた」との批判を受け続けた。


 金元大統領は1950年代から故郷の南西部・全羅南道を地盤として政治活動を開始。軍事

政権と対決し、73年に日本で拉致されるなど激しい弾圧を受けながらも、民主化を訴えた。
87年の大統領選の直接投票制導入を経て、⒋度目の挑戦となった97年の選挙で勝利。

98年の大統領就任後は北朝鮮に対する融和的な「太陽政策」を推進し、2000年に北朝鮮の

金正日労働党総書記と初めて会談。これが評価され、この年のノーベル平和賞を受賞した。
また、韓国を襲ったアジア通貨危機を克服。「未来志向的な関係発展」をうたう

日韓共同宣言に小渕恵三首相(当時)とともに署名し、日本文化の開放政策も進めた。
03年の退任後も左派勢力に対する影響力を維持し、北朝鮮との関係を冷却化させた

保守派の李明博大統領の政権運営を非難するなど、存在感を示した。反保守勢力は、

今年5月の盧武鉉前大統領の自殺に続き、金元大統領という大きな支柱を失った。パンチ!パンチ!パンチ!

 

昨夜も書きましたが、2009年7月13日金大中氏が肺炎で入院。中森明菜さんの誕生日。

18日に多臓器不全で死去。その2日後の20日、今のマンションに引越ししましたが、

まさか、その2日前に金大中氏が亡くなっていたなんて、この時は知りまでんでした びっくり

 

韓国の今(自由化)あるのは、金大中氏やみんなの協力があってのものだと分かりました。

 

私も占い師の母が亡くなった時、大きな支柱を失ったので気持ちが分かります 汗うさぎ パンチ!パンチ!パンチ! 星

 

 

今日は、2024年10月1日なので、いつも以上に厳しく書かせていただきます 物申す おばあちゃん

 

①、数日前にも書きましたが、昨日、矯正歯科に行き先生から説明を受け

早く治療をしてほしいと決めたので、10月4日金曜日までに指定した銀行に

治療費として振り込んで下さい。確認し振り込んでいなければ、

7日、実家・お父さん宛に内容証明を送りますので、これ以上、歯や足に触れてこないで ムキー

( 厳しい人だけど、ちゃんと言いなさい。分かってくれるからと母から言われていました )

 

②、占い師の母との3つの勝負

1993年10月28日アメリカ大会W杯アジア最終予選で日本VSイランでに1-2で

日本が負けたのでこの勝負、母の勝ちの!

1997年やしきたかじんさんのLIVEに行かなかったので、母の勝ち!

2003年6月18日コンディション杯で日本VSニュージーランドで2点目の何分で

ゴールするかで母が当てた!この話は、結果が出る前から聞いていました おばあちゃん サッカー 

約束を破るので弁護士に頼み、同年8月中旬頃に、あの子が契約書にサインしました。 

( 7月~3回、奈良まで足を運ぶ話をしていたんですが、あの母親では話にならなかった )

1つ目、私の言うことを聞く。2つ目、自殺、人などを殺さない、3つ目、引退させない、

お互いの引退をかけて勝負をした。母が勝ったので約束は守って!

契約書に基づいて、違約金とペナルティー(1カウント1000円)、治療費を請求します。

違約金は、書かれている金額+税金10%を請求します。

 

あの子が、ある条件を出し、相手も条件を出し契約書を作成。パンチ!パンチ!パンチ!むかっ

相手は、人(みんな)に危害を加えないとしたのに約束は果たせていない!

アミューズ、タイシタレコード、ビクターレコード関係者は守られている!

例えば、あの母親、人の胸に「ドーン」と衝撃を与えてくるので止めて!

凄い臭い口臭も。「私と以外の人達も、自分達がやったことを綺麗にして、

本来の自分に戻して返してあげて」と占い師の母から言われているでしょ ムキー おばあちゃん

 

占い師の母が「最初、苦戦するけど、あっという間に追い抜くから」と言われていました 爆  笑

 

 

2015年1月23日ジュピター占い師の淡雪さんからのメール

これから徐々に、私のある力が強まっていきますから、

今までと違うと不安を感じやすくなるようですね。

それが、どんな力かと言うと「見る力と感じる力」ですね。

何となく関わってきた人や環境などの本質が見えてきます。

例えば、憧れていたのに、良い人だと思っていたのにと、

ショックを受けてしまうこともあります。

逆に、苦手だと思い込んでいたものが楽しいと気付いたり、

自分に有益なものだったと嬉しい気付きもあるでしょう。

見えてきたものが良い事であっても、悪いことであっても、

この時期に私が見極めたことは、今後につながります。 

悪い事は、今のうちに気付けて良かったということですし、

良い事でしたら、これから大切にしていこうと思えますね。

次のチャンスにつなげられる力ということですから、

どんなことでも、前向きに捉えていけるといいですね。

物事の本質が見えることで、行動もしやすくなるでしょう。

今後の私のとるべき態度や行動も自然と分りますし、

方向転換をしなければ、いけないこともありそうですが、

地盤が固められた感じがして、安心感を得られるでしょう。

発見したものの良悪だけを見て、判断するのではなく、

それが、今後の自分にどう活かせるか考えてみましょう。

見る力と感じる力が終わることで、私のある部分も活性化していくようですね。

私に、どのような影響を与えるのか、みてみましょう。

 

 

上記に書いた事を絶対に守って下さい。

契約書に基づいて書いているので、第三者の人にも分かってもらうために 笑ううさぎ おばあちゃん 虹

そして、今まで書いたのを有効で。

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート

 

 

 

 

 

 







     
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