2023年9月7日 NHK
ニューヨークの世界貿易センタービルで2001年7月に撮影された1枚の家族写真。
帽子をかぶった男性は当時34歳。その2か月後に同じビルで命を落とした。
衝突してきた旅客機によって・・・それから22年。男性の遺族は、今もテロと戦い続けている。
(国際部 西河篤俊)
念願だったニューヨーク勤務
遺族の名前は住山一貞さん(86)。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/ac2e991ec866474e43571d1b40f172dd.jpg)
冒頭の写真で、一番右に立っている青いシャツの男性だ。
長男の杉山陽一さんは、当時、銀行マンとして世界貿易センタービル
(ワールド・トレード・センター)で働いていた。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/687f0a9881e07f6690a5edcc0597a493.jpg)
海外で働くことを目指していた陽一さんは、事件が起きる前年の春に、
念願のニューヨーク支店勤務になったばかり。当時、陽一さんには、
住山さんにとっては孫となる2人の男の子がいて、妻は3人目の子どもを妊娠中だった。
世界に衝撃を与えたアメリカ同時多発テロ
2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件。
その日の朝、4機の旅客機が、ハイジャックされた。2機がニューヨークの世界貿易
センタービルに、1機が首都ワシントン郊外の国防総省に次々と激突。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/36bb3272ff5c357e3c641add5284df8d.jpg)
もう1機は東部ペンシルベニア州に墜落した。
日本人24人を含むおよそ3000人が犠牲になった。
東西冷戦の終結以降、唯一の超大国とも言えたアメリカの中枢が攻撃された事件として、
世界に衝撃を与えた。
行方不明者名簿に息子の名前が…
9月11日、日本時間の夜。
東京の自宅にいた住山さんは、テレビで事件の発生を知り、その後、
行方不明の日本人の中に息子、陽一さんの名前があることを知らされた。
事件の4日後に、取るものも取りあえず渡米したが、現地の情報は錯そうしていた。
20以上の病院を回ったが、手がかりすら見つからなかった。
当時の心境を住山さんはこう振り返る。
住山さん
「どこかで生きているんじゃないかという、はかない期待を持っていました。
ビルのすきまとかにいるんじゃないか、とか。爆発で記憶喪失みたいになって
街をうろついているんじゃないかとか。
泣くに泣けないわけですよ。泣くと死を認めることになるから泣けない。
霧の中という感じ。非常に不安な気持ちでした」
およそ7か月後。陽一さんが亡くなったことが確認されたと連絡を受けた。
見つかったのは手の一部だけだった。
検視官からは「残りは蒸発した」と伝えられたという。
【 補足 】
倒壊現場から発見された遺体の一部(骨片など)は損傷が激しいためDNA鑑定が非常に難しく、22年経った今でもDNA鑑定が続いている。今月8日の時点で新たに2人の身元が判明したと
発表があった(男性1人と女性1人)。「22年経っても犠牲者の40%にあたる1104人と
まだ照合できていない」と8日付のCNBCは報じた。
DNA鑑定のペースは年を追うごとに落ちていき、こんにち判明しているのは年に1人程度だ。
別の2人の身元が判明したのは2年前、2021年のことだった。
2001年の時よりも、今の方が技術が発達してDNA鑑定も出来ると思っていたんですが。
まさか、まだ40%照合できていないとはビックリしました
遺族はDNAの鑑定結果を見て、やっと家族が亡くなったと納得できるんですね
見つけた調査報告書、しかし567ページはすべて英語
「息子はなぜ死んだのか」
アメリカ政府や日本政府から十分な説明がないまま時間だけが過ぎていった。
そうしたなか、2004年になって住山さんは、アメリカの独立調査委員会がまとめた事件の
報告書の存在を知った。追悼式典の帰り、ニューヨークの空港で偶然見つけたその報告書。
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手に取ってみると、567ページはすべて英語だった。日本語版はなかった。
しかも、航空用語や軍事用語など専門用語があふれていた。
イスラム原理主義や過激派グループの変遷など背景知識も不可欠で、英語の専門家でも
読解に苦労するような内容だった。
「息子の死の真実を知りたい」
その一心から、住山さんは、英和辞書を手に翻訳に挑み始めた。
単語の意味を1つ1つ辞書で調べながら。1日3ページくらいのペースで。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/76aece8f3ac39498da98564f113e4c5b.jpg)
英語は中学・高校で習ったきり。今のようなAI翻訳の技術はない時代だ。
単語を日本語に訳せても、専門知識がないため、そこからその分野に詳しそうな
知人に聞いたり、別の文献をあたったり。
文章1行の意味を理解するのに一晩かかったこともあったという。
いつしか最初に買った英語の原書はぼろぼろで読めなくなり、
新たにもう一冊買わなければならなかった。
500ページを優に超える文書。翻訳をようやく終えたとき、10年の月日が過ぎていた。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/2eb14c6c2bc7c4d2eb9941e484c3f2f9.jpg)
思わぬ発見 事件は防げたのではないか
時に体調を崩しながらも読み進めた住山さんだが、思わぬ発見をすることになる。
なぜ、息子はビルから避難することができなかったのか。
報告書を読み進めていくと、事件当時、職場にとどまるよう、
ビルに指示が出されていたことがわかった。
さらに。
▼「政府機関の間にあった『壁』」
▼「テロ計画についての兆候を把握していたにも関わらず『遅れた指示』」
報告書には、もしかしたら事件を未然に防げたのではないかといった、
さまざまな問題点も列挙されていたのだ。
住山さんは、このテロがアメリカで起きた特殊なものではなく、
どこででも起こりうる危険があると思うようになったという。
「多くの人に読んでもらいたい」と考えた住山さん。
クラウドファンディングで資金を募り、911から20年となった2021年、
調査報告書の翻訳を出版した。
10年に及んだ翻訳作業 息子を奪われた父親の切なる願い
一方で、調査報告書を読み込めば読み込むほど、疑問も出てきた。
報告書は、事件について、オサマ・ビンラディン容疑者が率いる、
国際テロ組織アルカイダのメンバーによる犯行と指摘していた。
ビンラディン容疑者はイスラム原理主義の流れをくみ、
反米感情を募らせ、過激化していったと。
住山さん
「容疑者たちがなぜ事件を起こしたか、なぜ民間人を巻き込んだのか、その背景が
十分書かれていない。これはアメリカ側からだけの物の見方ではないのか」
住山さんはカルチャーセンターなどでイスラムの教義や知識、中東の歴史を学んだ。
過激主義などに関する専門書も読みあさった。次第にこう考えるようになったという。
住山さん
「テロリストの論理も知らないと、と考えたんです。テロリストを生んだ社会や背景を知る
ことがテロをなくすこと、そしてテロリストを生む社会を変えることにつながるのではないか。
たった1人の、とても小さな『戦い』ですが、そう思ったんです」
翻訳を通じて得た知識や感じたことも盛り込んで、2022年には解説書を出版。
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アメリカの同時多発テロ事件だけではなく、日本人が海外で巻き込まれた
ほかのテロ事件も紹介した。
さらに日本人が海外でテロや犯罪にあった場合の支援が十分でないことにも言及した。
日本には、犯罪被害者や遺族に給付金を支給する「犯罪被害給付制度」がある。
が、国内での犯罪に限られ、海外で起きた犯罪の被害者は対象ではない。
「弔慰金」を支給する制度はできたが、国内と比べると一般的に水準は低い。
海外で被害にあうと「海外には自分の意志で行ったのだから」と「自己責任論」が
浮上することもある。
そして、言葉も法制度も異なる海外で被害にあうと、圧倒的に不足するのが「情報」だ。
事件直後、ほとんど情報がない中で駆けつけたニューヨークの街をさまよったこと。
事件の原因を知りたくても、知るすべもなく途方に暮れた経験が頭から離れなかった。
タイトルは「 9/11の真実を求めて 」と名付けた。
解説書のエピローグで、住山さんはこう綴っている。
「ともかく、宗教にしろ、思想にしろ『 大義 』の名のもとに、死んだり殺したりするような
社会はいい加減止めにしたい。その意味で、かつて批判された『 人命は地球より重い 』との
言葉は再評価されるべきだろう。それは人間が人間らしく生きる出発点となる言葉だ。
今後の日本と世界が、自由で平和な、そして安全な社会であることを願わずにはいられない。
これは、大きな歴史の流れの中で、大切な一人の息子を奪われた父親の切なる願いである」
住山さんが出版した解説書「 9/11の真実を求めて 」より
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取材を通じて
私(筆者)は、同時多発テロの前の年、留学生としてニューヨークに住んでいた。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/09_04_04-2.jpg)
2000年を迎えるカウントダウンを、タイムズスクエアの大歓声の中で祝った時には、
まさかその翌年、あのようなテロが起きるとは予想もできなかった。
少し時期がずれたら倒壊したビルに巻き込まれたのは自分だったかもしれない。
事件直後、現地の友人にはなかなか連絡がつかなかったが、その後無事が確認できた。
が、穏やかで、外国人の私にも分け隔てなく接してくれていた友人は、
イスラム教徒を激しい言葉で非難するようになっていた。
テロはなぜ起きるのか。
その背景を知りたくて、中東に特派員として赴き、様々なテロを現場で取材した。
アルジェリアの人質事件やチュニジアの博物館襲撃事件など、日本人が巻き込まれた
現場も少なくなかった。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/09_04_22.jpg)
一方で、中東では、テロ組織のメンバーやその家族にも話を聞いた。
シリアとイラクにまたがる地域では過激派組織ISが勢力を一気に台頭した時期だった。
彼らが口にしたのはイスラム教徒が虐げられてきた歴史。
その原因は、中東での様々な戦争に関わったり利益をむさぼってきたりした
アメリカの責任だ、という主張だった。
「テロは永遠になくならないのでは」と、なかばあきらめのような感情すら抱いた。
そんな私が住山さんに出会い、翻訳作業を取材させてもらったのは中東から日本に
帰国したあとの2016年。その後、アメリカに駐在し、帰国後も関西勤務でコロナ禍も
あったため、直接は、住山さんには会うことができていなかった。
ことし8月、7年ぶりに会うことができた住山さんは、歩くのに杖が必要になっていた。
コロナ禍の自粛生活の影響だという。
それでも、住山さんは今もテロと戦い続けていた。
テロと対峙してきた遺族がいま、思うこと
コロナで控えていた講演活動や展示会も再開した。
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/337155802937cbe8c6b6d74269f33d32.jpg)
10年がかりの報告書の翻訳や調査でわかったこと、感じたことを地道に伝え続けている。
事件のあと、アメリカは「テロとの戦い」を掲げてアフガニスタンで大規模な軍事作戦を開始。2003年にはイラク戦争に踏み切った。2011年には、ビンラディン容疑者を殺害。
そして、テロの脅威を取り除くという目的は達成されたなどとして、2021年、
アフガニスタンでの駐留に終止符をうった。しかし、アフガニスタンでは、
武装勢力タリバンが権力を掌握。再びテロの温床になる恐れもある。
中東での戦争で反米感情は高まり、テロ組織はアフリカなど世界各地に広がっている。
また、去年始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻では、お互いに相手の攻撃を
「テロ」と呼んで非難の応酬が続いている。
2001年9月11日のあの日から、22年もの間、テロと向き合ってきた住山さんは、
こうした状況についてどう考えているのか。
今月11日のテロ22年にあわせて、ニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で行われる
追悼式典に4年ぶりに参加するという住山さん。あらためて尋ねてみた。
住山さん
「私はもう86歳。これが最後のニューヨーク訪問になるかもと覚悟しています。
日本の人の中には22年前のことは忘れている人も少なくないかもしれません。
でも私は忘れられない、忘れるわけにはいかないんです。
ウクライナとロシアの戦争が起きて、世界の大国の理屈や大義をよく聞きますが、どうすれば
世界が平和になるのか、そんな難しい問いに対する答えを私は持ち合わせていません。
ただ、テロでも戦争でも犠牲になるのは何の罪もない民間人なんです。
そこにはひとりひとりの人生、家族や友人など多くの人生があるんです。
そのことはあらためて日本の人たちには知っていてほしい。
そして次の世代の人たちにももっと考えてほしい」
占い師の母が「被災地へ行ったら、生活するだけで精一杯で、あれが欲しいこれが欲しい
なんか言ってられない!あの惨状を見たら一瞬で価値観が変わる!」と言ってました。
よく占い師の母は地震があれば、すぐに被災地にボランティアとして行っていたので、
この言葉に説得力があります
本当に、この世界から戦争やテロが無くなり、平和で安心安全な世界になるように
全世界の人々や国のトップに頑張ってほしいです
![](https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/wp-content/uploads/2023/09/1a8e0973d64e871d01c8c3d95ef8bf97.jpg)
国際部デスク西河 篤俊
2001年入局 神戸局 大阪局 カイロ支局 報道局遊軍
ワシントン支局 大津局デスクなどを経て現所属、アメリカや中東を担当
9・11から15年 今思うこと(谷村 啓)
2016年2月 取材ノートより
昨年11月にパリで発生した同時テロは言うまでもなく、世界各地で頻繁に起きる悲惨なテロのニュースに接するたびに、15年前の「9・11 アメリカ同時多発テロ」を強烈に思い出す。
1999年にNHKアメリカ総局長としてニューヨークに赴任し、20世紀後半に最強となった
アメリカの最後の輝きを見たのだった。しかし、大統領選の混乱の直後に幕を開けた
21世紀は、2001年9月11日の同時多発テロをきっかけに、アメリカが急速に
輝きを失う時期でもあった。
9・11からイラク開戦までの1年半、限られた態勢で、無我夢中でニュース取材、番組制作、日本への放送に明け暮れた。あの日、あの時、目の前の事象、出来事に翻弄され、立ち止まって考える余裕もなく仕事をしたという充足感の半面、もっと広く、深く、長い目で取材、
制作ができなかったかという不完全燃焼感は今も消えない。思い出すままに記す。
◆何が人の生死を分けるのか
WTC(ワールドトレードセンター)には北館と南館の2本の高層ビルがあった。
9月11日午前8時46分、テロリストの最初の飛行機が北館に突っ込み、火災が起きた。
南館にあった富士銀行ニューヨーク支店では、支店長以下みんなで避難しようということに
なり、エレベーターでいったん、下へ降りた。途中のエレベーター乗り換えホールで、
館内スピーカーから「北館は火災ですが、南館は大丈夫です」というアナウンスがあった。
そこで、どうしようかとなった時、アメリカ人行員たちは「北館の火災はテロに間違いない。
私たちはこのまま降ります」と言った。
支店長はじめ日本人行員12人は「オフィスに戻って、東京に連絡をして、鍵を掛けてくる。
皆さんは、このまま降りてください」と言って、そこで上下に別れた。
支店長たちが、オフィスに戻った直後に2機目が突っ込み、大変残念なことに12人は
犠牲になった。1機目突入からわずか17分後の午前9時3分だった。
なぜ、支店長たちはオフィスに戻ったのか? 私たちの取材に対してアメリカ人の部長は
「8年前に同じWTCの地下で起きた爆破テロを身をもって覚えているので、とっさに
今度もテロだと確信した。それに、情報がない中、館内放送で流れた〝南館は大丈夫〟
というアナウンスが、支店長たちの判断を狂わせたのかもしれない」と話してくれた。
◆飛行機を降りた乗客がいた
9月11日の早朝、ボストンの投資銀行のディーラーが、出張のためボストン空港のロサン
ゼルス行きアメリカン航空11便の待合所にいた。そこで彼は、異常に興奮した5人の
アラブの若者が、肩を叩き合ったり大声で喋っているのを見て、強い違和感を感じた。
やがて搭乗時間になり機内に乗り込むと、それまであれほど騒いでいた5人が、
とても深刻な顔して通路際の席にバラバラに座っていた。
それを見た瞬間、彼は踵を返して飛行機から降りてしまった。
それから1時間余りたった頃、彼が乗るはずだった飛行機がニューヨークのWTCに突っ込ん
だというニュースが空港にも流れた。「どうして自分だけ飛行機を降りてしまったのか。
なぜ、周りの人や関係者に、おかしいということを伝えなかったのか」と強い
自責の念にかられたという。後日、このディーラーに取材を試みたが、
直接、彼の口から話を聞くことはできなかった。
話は変わるが、災害や事件、事故に際してのテレビインタビューは、相手の映像と音声が不可欠なだけに難しい取材になる。その意味で、東日本大震災の後、NHKが放送を続けている被災者の証言を集めた「あの日 わたしは」は、後世に教訓を伝える貴重な番組の積み重ねだと思う。
◆揺れるアメリカ社会の実相 どこまで伝えられたか
9・11の後、アメリカの世論は戦争に大きく振り子が振れた。歴史上初めてアメリカ本土が
攻撃されたとの思い。9・11の1カ月後にアフガニスタンでの戦争が始まり、家々はもちろん、車でもどこでも星条旗がはためき、人々は集まれば「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌い、「ユナイテッド・ウィ・スタンド」のスローガンを掲げた。郊外の住宅街では星条旗と共に
黄色いリボンを付ける家も少なくなかった。予備役編入で、昨日までオフィスで一緒だった
仲間が兵役に就くことも珍しくなかった。
突然、戦時下の日々の感があった。加えて、不可解な「炭疽菌事件」やニューヨークの
ケネディ空港近くで起きたアメリカン航空の原因不明の墜落事故。こうしたことが醸成する
アメリカ社会の、またいつテロがという不安な空気や気持ちが、振り子を大きく振ったと思う。
その一方で、戦争反対の動きはあったし、9・11の犠牲者の家族のグループが取り組んだ
戦争に反対する動きもニュースにし、番組にもした。しかし、今思うと、9・11の後、
アメリカ社会の振り子の振れ方を現象、事象、局面では伝えたものの、なぜそこまで
振れるのか、背景にあるアメリカ社会の空気や人々の気持ち、問われた問題を、
日本の視聴者に十分伝えることができたかどうか。
今、複雑化と混乱を極める中東問題やIS問題、ヨーロッパでの難民問題等々を見るとき、
あるいは現在進行形のアメリカ大統領選を見るとき、民族対立、宗教対立、人種問題が
希薄な日本、難民受け入れがごくわずかな日本を基準に問題を捉えることは難しい。
だからこそ海外からの報道は、起きた事件や現象面だけでなく、その背景にある、
国、地域、社会、人々の空気や暮らし、歴史、文化までを日本の読者、視聴者に
伝えることが報道の使命だとあらためて思う。
◆アメリカ主導のイラク開戦と国連
アフガニスタンでの戦争が始まってからちょうど1年後の2002年10月、アメリカは
イラク査察の安保理決議を出した。意外にもイラクは査察を受け入れたが、結局、
大量破壊兵器は見つからなかった。にもかかわらずアメリカは、イラクには大量破壊兵器が
存在すると主張(後に、これは全くの虚偽の情報に米英がだまされたことが判明し大問題に
なる)。最終的に2003年3月に米英は、安保理の承認が得られないまま、有志連合の形で、
一方的にイラク開戦に踏み切った。ここに至る3カ月余り、国連安保理では、イラク攻撃
急先鋒の米、英、それにスペイン(非常任理事国)と反対派のフランス、ロシア、それに
ドイツ(非常任理事国)が鋭く対立。間に挟まれたチリ、メキシコなど中間派の
非常任理事国は、賛成派から激しく腕を引っ張られたが、反対の姿勢を崩さなかった。
当時、ニューヨークのフォード財団で研究生活を送っていた緒方貞子氏は「国連にもアメリカ
一国支配から脱却しようという変化が起き、近い将来、国連が変わるかもしれない」と話した。だが、今日に至るまで安保理改革の動きは、国連ミレニアム総会の頃の盛り上がりはなく、
イラク攻撃を主導したアメリカは、泥沼の戦争にはまり、アメリカ一強の自信は崩れたとは
いえ、国連は依然、米、露、中の一国主義に左右されている。
今年、5年ぶりに非常任理事国になった日本は、集団的自衛権=日米同盟強化に振り子が
振れているように見える中、集団的安全保障=国連による平和維持や地球規模の問題解決の
ための多国間の枠組みを強化する方向に振り子を戻す取り組みも求められているのではないか。
最後に思い出したことをひとつ。あの日、2001年9月11日は、国連本部で秋の国連総会を
前に、恒例の「平和の鐘( 日本が寄贈したもの )」をつくセレモニーが午前中、
予定されていて、私は取材でちょうどアパートを出る時だった。
たにむら・すすむ
1971年NHK入局 報道局経済部記者 ロンドン特派員などを経て 99年アメリカ総局長
その後 米法人テレビジャパン社長 (公財)放送文化基金専務理事
現在(株)エミュース・インターナショナル顧問
第1回105階から生還した男性の9・11 「叫び声、今も」
デラウェア州ルイス=藤原学思
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米デラウェア州に住むジョゼフ・ディットマーさん(64)の右手首には、
タトゥーが入っている。
《 911 》
あれから、20年がたつ。「昨日のことのように感じる。あの出来事は影のようなもので、
どこにいってもついて回る」。忘れられないし、忘れてはいけないと思う。
あの日の入館証や、さびついた建物のボルトもまだ、取ってある。
4人の子は37~41歳になった。新たに3人の孫ができた。自宅の壁には、1年半前に
うまれた双子の孫の写真が飾られている。
あの日、世界が震えた日、105階の会議室には、54の命があった。
米同時多発テロからまもなく20年が経過します。全世界を震撼させた同時多発テロは世界を、そして米国をどのように変えたのか。さらに、米国が始めた対テロ戦争は世界にどのような
影響を与えたのかに迫る連載です。連載初回では、同時多発テロ発生時、米ニューヨークの
世界貿易センタービルにいた男性を取材し、当時ビル内で何が起きていたのかに迫ります。
20年経って、男性は今どんな思いを抱えているのでしょうか。
ある男性は90階まで下りてトイレに向かった。
ある女性は78階で高速エレベーターを待った。2人は亡くなった。
ディットマーさんはただ、ひたすらに階段を下り続けた。
外に出て、10分ほどでビルは崩落した。助かったのは54人中、7人だけだった。
2001年9月11日は、快晴の火曜日だった。ディットマーさんは午前8時15分ごろ、取引先の
保険会社の会議に出席するために、ニューヨークの世界貿易センター(WTC)南棟に着いた。
週末には故郷のフィラデルフィアで家族と会い、30年以上シーズンシートを保持し続けた
フットボールチームの試合も見た。前日にはゴルフで汗を流した。
すべてが計画通りで、すべてが順調に思えた。だが、午前8時ごろから相次いで離陸した
ボストン発ロサンゼルス行きの旅客機2機が、国際テロ組織アルカイダによって
ハイジャックされていた。南棟105階の会議室では午前8時40分ごろ、正方形に机が並べられ、出席予定の54人全員がそろった。雑談をしたり、名刺交換をしたりする時間が続いた。
WTCは両棟ともに110階建て。高さ400メートルを超すツインタワーは、ニューヨークの
シンボルだった。南棟で使用中の階としては105階が最も高く、そこから上は、営業開始を
待つ展望台や設備室だった。午前8時46分、ディットマーさんがいた南棟の会議室の
電気が2、3回、ちかちかと点滅した。隣の北棟に、飛行機が突っ込んだ時間だ。ただ、部屋に窓はない。当時はスマートフォンもなく、何か携帯電話に通知がくるわけでもなかった。
「電気の点滅以外は何も感じず、何も見えず、何も聞こえなかった」
直後、緊急時の先導を担う男性が会議室に入ってきて、言った。「北棟で爆発があった。
避難しないといけない」。ただ、会議室にいた誰もが信じなかった。「勘弁してくれよ。
ここはニューヨークだぞ。常に何かが起こるし、常に緊急事態じゃないか」
そんな声があがった。それでも、結局は全員が先導役の求めに応じ、会議室を出た。
何が起きているのかわからないまま、非常階段を下りた。携帯電話は使えなくなっていた。
記事後半では、ディットマーさんが避難して生還するまでの様子を伝えます。崩れゆくビルを
見ながら、ディットマーさんは何を思ったのか。現在の心境も取材しています。
まさか、アメリカのシンボルのツインタワーが飛行機が突っ込み、崩落するなんて、
誰も考えていなかったので、この話を聞いた時は、初め信じなかったのは分かります。
人の話を聞くか聞かないかで、明暗が別れたんですね。
そして、アメリカ人と日本人の判断も、明暗が別れたんだと思いました
こんなテロは、本当に2度と起きてほしくなく、起こさないようにしてほしいですね。
そして、亡くなられた人のご冥福をお祈りいたします。
伊勢物語絵巻七八段(山科の宮)
![]() むかし、多賀幾子と申す女御おはしましけり。うせ給ひて七七日のみわざ安祥寺にてしけり。右大将藤原の常行といふ人いまそがりけり。そのみわざにまうで給ひて、かへさに、山科の禅師の親王おはします、その山科の宮に、滝落し、水走らせなどして、おもろしく造られたるにまうでたまうて、年ごろよそには仕うまつれど、近くはいまだ仕うまつらず。今宵はここにさぶらはむ、と申し給ふ。親王喜びたまうて、夜の御座のまうけせさせ給ふ。さるに、かの大将、いでてたばかりたまふやう、宮仕へのはじめに、ただなほやはあるべき。三条の大御幸せし時、紀の国の千里の浜にありける、いとおもしろき石奉れりき。大御幸の後奉りしかば、ある人の御曹司の前の溝にすゑたりしを、島このみたまふ君なり、この石を奉らむ、とのたまひて、御随身、舎人して取りにつかはす。いくばくもなくて持て来ぬ。この石、聞きしよりは見るはまされり。これをただに奉らばすずろなるべしとて、人々に歌よませ給ふ。右の馬の頭なりける人のをなむ、青き苔をきざみて、蒔絵のかたにこの歌をつけて奉りける。 あかねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ となむよめりける。 (文の現代語訳) 昔、多賀幾子と申す女御がいらっしゃった。そのお方がお亡くなりになって四十九日の法要を安祥寺にて行った。右大将藤原の常行という人が、その法要に参加なさり、その帰り際に、山科の禅師の親王の山科の宮の、滝を落し、水を走らせなどして、風雅に作られたところを訪ねられて、長年よそながら御仕え申しておりますが、身近にお仕えしたことがありませんでしたので、今宵はおそばに御仕えしましょうと申された。親王はお喜びになって、酒宴の準備をおさせになった。ところが、かの(藤原常行の)大将は、御前を退出して(供の者と)相談していうには、これからお仕えするに際して、何もしないではおかれない、三条邸への帝の行幸の際、紀の国の千里の浜にあったたいそう珍しい石を奉ったことがある。(だが)行幸には間に合わず、ある人のお部屋の前の溝に据えておいたが、(親王は)庭園がお好きな方だから、この石を奉ろう。そういって、随身や舎人に取りにやらせた。(すると)幾ばくもなくして持って参った。この石は、かつて耳にしていたよりも、勝って見えた。(大将は)これをただ奉るだけではつまらなかろうといって、供の者たちに歌を読ませた。(その中で)右の馬の頭だった人の歌が優れていたので、それを、青い苔に文字を刻んで、蒔絵のようにして奉ったのだった。その歌は、 不十分ですが、岩で思いを述べます、表に現れることのない心をお見せするわけにもまいりませんので というものだった。 (文の解説) ●多賀幾子:藤原良相の娘、天安二年(857)女御として死去、●七七日のみわざ:四十九日の法要、●藤原常行:藤原良相の嫡男、多賀幾子の兄、●かへさに:かへるさに、帰り際に、●山科の禅師の親王:仁明天皇第四皇子人康親王、山科に住んでいたので山科の君と呼ばれた、●年頃:長年、●よそには仕うまつれど:よそながら(心の中で)御仕えもうしていたが、●ここにさぶらはむ:ここに、おそばに御仕えしましょう、●夜の御座のまうけ:宴会の準備、●さるに:ところが、●たばかり:相談すること、●ただなほやはあるべき:ただ何もしないではいかないだろう、●三条の大御幸:三条邸への行幸、三条には藤原良相の邸が あった、●紀の国の千里の浜:藤原良相の領地があった、●あるひとの御曹司:ある人の 住んでいる部屋、曹司は女房の住む部屋のこと、●島:寝殿造りの池に浮かぶ島をさす、そこから転じて庭園全体をあらわす、●ただに奉らば:なにもしないでそのまま奉ったのでは、 ●すずろなるべし:つまらないであろう、●右の馬の頭:右馬寮の長官、業平がこれに なったのは貞観七年(865)のことなので、多賀幾子の死後のことである、 ●青き苔をきざみて:青い苔を刻んで字を書く、●あかねども:不十分だが、 ●色見えぬ:色に見えない、表に現れない、 (絵の解説) 随身や舎人が石を運んできたところ。僧形が山科の禅師の親王、 その前に立っているのが藤原常行と業平であろう (付記) 七七段とともに、安祥寺における多賀幾子の法要についての記事である。 業平が右馬寮の長官になったのは、多賀幾子の死後のことであるから、本文の記述は史実と あわないが、歌の面白さを浮かび上がらせるために、無理にこじつけたのであろう。 |
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