挑戦の決断 (1) 自分を生かせる新天地へ ( 野茂英雄 ) | poohta8のブログ

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指導者たる者かくあるべし  苦渋の選択

 

 だれでも人生に一度は重大な決断の時を迎える。新たな挑戦に向けて「のるかそるか」の

判断にひるむこともある。決断を支えるのはあくまで自分自身に対する信頼だろう。

今回からのシリーズでは、成功者と失敗者の決断の岐路を探る。

 

 野茂英雄。1995年に単身米大リーグに挑戦し、2008年の引退まで、〈トルネード(竜巻)〉と名付けられた特異なフォームで通算123勝をあげた日本人大リーガーのパイオニアである。

彼が道をつけなければ、今シーズン、最高の投手に贈られるサイ・ヤング賞の候補に上った

ダルビッシュ、前田健太両投手や、イチロー、松井秀喜ら野手たちの活躍もないだろう。

渡米後の活躍は不滅の金字塔を打ち立てたが、その名投手の大リーグ行きの決断は、

波乱に満ちたものだった。

 

 1994年のシーズンオフ、近鉄バッファローズのエースだった野茂は、日本の野球に

絶望していた。1989年のドラフト1位で近鉄に入団した彼は、名監督・仰木彬(おおぎ・あきら)のもとで、デビューシーズンに18勝を挙げると、翌シーズンから17勝、18勝、17勝と

コンスタントに勝ち星を重ね、4年連続でパリーグの最多勝を記録した。

入団契約に際して野茂が提示した「この投球フォームをいじらないで欲しい」という

条件を仰木は受け入れ、調整方法も彼に任せる。それが好成績につながった。

しかし5シーズン目に監督が300勝投手の鈴木啓示に変わると環境は一変する。

新監督は精神論の一本槍で、負け試合でも180級は投げさせる。登板のない日も

ブルペンで投げ込みを強要する。肩の痛みを訴えても、「投げ込みが足りないからだ、

痛い時こそ投げ込め」と叱咤した。「俺にはできた、お前もやれ」

鈴木は大投手だっただけに野茂の弱気を許さない。

自分に絶対の自信を持つ指導者が陥りがちな後進指導の危険な罠だ。

肩の痛みに耐えたこの年、8勝7敗の不甲斐ない成績に終わった。

 

 「これでは潰されてしまう」。野茂は子供の頃から憧れてきた大リーグ行きを

考え始める。しかし、日本球界脱出の方法がわからない。

 

 掟破りの非難に耐えて

 そんな野茂に知恵を授けた男がいた。米球界のエージェント、団野村だ。

「日本の野球協約に抜け穴がある。任意引退選手になれば、大リーグ球団と契約できる」

 

 当時の野球協約では、任意引退しても復帰するにはもとの球団に限られていた。

しかし、米国の球団との契約は想定外で、規定がないという。野茂は、近鉄との

翌シーズンの契約で球団が飲めるわけもない複数年10億円をふっかけて決裂させる。

してやったりとばかりに任意引退選手となり、大リーグの指名を密かに待った。

そしてドジャーズとの契約にこぎつける。

しかし、これが世論のバッシングを巻き起こした。プロ野球界からも、長嶋茂雄、

王貞治らが、「やり方がフェアじゃない」批判の矛先を野茂に向ける。父親までが、

「世話になった近鉄に後足で砂をかける真似はよくない」と大リーグ移籍に反対した。

 

 スポーツ評論家たちは、「野茂のような甘い球では、大リーグの打者には通用する

わけがない」と笑った。確かにそれまで大リーグに乗り込んで活躍した例は、

南海からマイナーリーグに短期の野球留学で派遣され、ひょんなことで大リーグに抜擢された

村上雅則(1965年、4勝1敗8セーブ)だけだ。その村上も「二重契約だ」として

南海に引き戻されている。何もかも手探りだ。野茂自身も、「もういい、近鉄に戻るから

球団との仲介に動いてくれ」とプロ野球の選手会長に弱音を吐くこともあったという。

 

 自ら下した決断への不安を払拭したのは、自分の投球への揺るぎない自信だった。

頭に浮かぶのは、社会人野球時代に参加したソウル五輪、プロ野球でのシーズン後の

日米親善野球で通用した自分の姿だ。「ぼくの球は、大リーグの彼らには打たれない」

 

 未来のプレーヤーのために

 ドジャーズ行きはまさに石もて追われる状況だったのだ。しかし大リーグでのデビューは

鮮烈だった。大リーグの強打者相手に、キレのいい速球と落差の大きいフォークボールで

三振の山を築く。初年度は13勝6敗、防御率2.54の目を見張る成績を上げ、オールスター

ゲームの先発投手を任される。そして奪三振236。米国メディアは野茂に、「トルネード」に

加えて「ドクターK (三振)」のニックネームを与える。この年、野茂は大リーグの新人賞を

受賞し、彼が登板する毎試合、衛星放送で中継され、あれほど野茂にバッシングを加えた

スポーツ紙も野茂礼讃に豹変する。その後の活躍は皆さんご存知の通りだ。

 

 挑戦するものは難癖をつけて叩く。叩いたけれど成功すれば褒めそやす。

横並び主義の日本ではだ。「米国では違う」―悩みに悩む野茂の背中を押したのは、

そんな日本社会への嫌気だったのだろう。

 

 野茂の挑戦とその成功を受けて、サッカーブームに押され気味だった少年野球チームへの

入団希望は大きく増えた。引退した彼は、少年たちの野球指導に力を入れている。

未来のプレーヤーが自らの夢を自由に実現できるように。

 

(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com

 

※参考文献

『野茂英雄 日米の野球をどう変えたか』ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳PHP新書

『人を見つけ人を伸ばす』仰木彬、二宮清純著 光文社カッパブックス

 

 

「 野茂は太りすぎや 」「 キミはエースじゃない 」

監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は近鉄と決裂した? 

野茂が怒った “あるコーチの退団”

Number Web   2024 / 3 / 3 (日) 17:04

「野茂は太りすぎや」「キミはエースじゃない」監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は近鉄と決裂した? 野茂が怒った“あるコーチの退団”

「野茂は太りすぎや」「キミはエースじゃない」監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は

近鉄と決裂した? 野茂が怒った “あるコーチの退団” photograph by KYODO

 

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◆◆◆

 まだ日本からは遠すぎてリアリティのなかった大リーグを目指す、と堂々と口にする

若者の出現。それは、奇しくも昭和プロ野球の象徴とも言える長嶋茂雄に対して、

新時代の到来を予感させる言葉でもあった。

 

 藤井寺球場のロッカーにはメジャーリーガーの野球カードを飾り、トレーニングの合間に

ロジャー・クレメンスらメジャー選手のダイジェストビデオを熱心に見る。

ファッションも西心斎橋のアメ村で買ったMLBやマイケル・ジョーダンのTシャツを好んで

着た。唯一大リーグのような対決ができる西武黄金期の四番・清原和博にはとことん

ストレート勝負にこだわり、その力と力の勝負は “平成の名勝負” と注目される。

当時、近鉄時代の野茂英雄の投球を捕手の真後ろから見ていた、元パ・リーグ審判員の

山崎夏生は、「週刊ベースボールONLINE」で伝家の宝刀フォークボールの衝撃を回想して

いる。「18.44メートルの真ん中に来るまではストレートの軌道とまったく同じ。

球速は130キロ台ながら、リリースしたときは直球のように伸びる感じが特徴的でしたね。

そこからブレーキが効いたようにストンと落ちる。打者と同じように、真後ろでジャッジ

しているわれわれも直球とフォークの見分けがつかなかった」

 

 毎年当たり前のように最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得する一方で、普段は朝まで

飲むこともあったが、登板前になると激しいトレーニングで自分を追い込む背番号11。

それを見た野手陣は、アイツが投げる明日は絶対負けられんと外出を控える。

まさにエースだった。

 

「 野茂は太りすぎや 」決裂の予感

 

 圧倒的な実績を残し続けるうちに、野茂にもトップ選手としての振る舞いを求められたが、

プロ入り前から変わらず自分が納得のできないことは断固としてやらない頑固さを持っていた。

プロ2年目のオフ、体を休めることを優先させようと日韓野球の代表を辞退するが、

連盟から「リーグの顔として出てもらわなければ困る」と要請されると、

投げることはなくベースコーチャー役を務めた。

 

 3年連続最多勝に輝いた1992年は、NHK紅白歌合戦の審査員席からステージに向かって

ボールを投げ入れる大役を務め、契約更改では「誰かが貰うことで、後からついていく

者が上がっていくと思う。それに、誰も(不満を)強く主張しない近鉄の風潮をボクが

変えたかったこともある」(「週刊ポスト」1993年1月22日号)とチームを引っ張る

1億円プレーヤーの自覚を語った。

名実ともに球界を代表する大エースになった野茂だが、4年目の1993年シーズンに転機が

訪れる。プロ入り時の恩師・仰木彬が近鉄を去り、往年の300勝投手・鈴木啓示が新監督に就任したのだ。「いまのまま、野茂が勝ち続けられるほどプロは甘くない。近いうちにダメになる。いや、もうその兆候は出とる。一番は太りすぎや。走り込みが完璧に不足しとる。

本人はウエートトレで、と考えているようだが、やっぱり走らな。投げ込みもそうや」

前半戦は左足首の捻挫もあり勝ち星が伸びなかった背番号11に対して、

鈴木監督はワシの現役時代はとことん走り込んだもんやと度々苦言を呈す プンプン パンチ!パンチ!

 

プロ野球とサッカーとは違いますが、この記事を読むと、思い出すのが1997年に

W杯フランス行きが決まり、後はメンバー選ぶの時に、何を思ったのか岡田監督は、

カズとキーちゃんを外した。この2人は、メンバーに入れなくても、みんなと一緒に

戦いたいとお願いしても聞き入れてもらえなかった。「残れば、士気が下がる」と

岡田監督から言われ断念して日本に帰国。その特に成田空港でカメラマンからフラッシュを

浴びて成田空港で無言を貫きました。あの時、フランス大会を観戦していたら3戦全敗

じゃなく、また違った展開があったと思います。この時から「サプライズ発表」が

続きました。中村俊介、大迫選手など。2006年ヒデの引退 物申す おばあちゃん サッカー パンチ!パンチ!

 

今と昔のやり方や指導方法は違うし、間違っていたとよくTVで観てました。

水は飲んだらいけない。うさぎ跳びをしなさいなど、よく言われていましたが、

今は、この方法は間違っていたと言われています。  私は、水OKでした

 

 

球団幹部「 キミはエースではない 」

 

 それでも、野茂は心折れず後半戦に驚異の巻き返しをみせる。10月1日のロッテ戦で

打球を右側頭部に受け頭蓋骨骨折の診断を受けるも、その8日後に144球を投げて勝利投手

となる超人的なタフさをアピールし、次の中4日の登板では182球で16勝目、さらに中2日で

上がった西武戦では177球の熱投で17勝目と、近代野球では異例の鬼気迫る投げっぷりで

4年連続の最多勝を手中に収めるのだ。だが、相手の西武・森祇晶監督から「野茂君のために

ゲームをやったようなもの。何の価値もないタイトル」と酷評され、球団幹部には

「キミのことはエースとして扱っていない。最多勝のタイトルは意味がない。

内容がない」と言い放たれた。追い打ちをかけるように、信頼していた

立花コンディショニングコーチは、選手の調整法をめぐり鈴木監督とぶつかり退団。

野茂は球団に対して「なぜやめさせたんだ?」と怒り、翌春には立花氏と個人契約を交わし、

自主トレに同行させた。今思えば、いくつもの決裂の伏線が存在し、

不穏な雰囲気のまま、野茂は1994年の近鉄ラストシーズンを迎えることになる。

 

野茂さんの周りから攻めて行ったのが分かります。他球団、近鉄球団、監督、立花さん退団。

1992年4月25日に亡くなった尾崎豊さんも周りが離れて言ったと。そうさせられたんです パンチ!パンチ!

 

野茂vs鈴木「 ついていけません 」

 

   鈴木啓示と野茂英雄。とにかくふたりの偉大な大投手は水と油だった。まるでバブル

全盛期のエース営業マンが管理職となり、Z世代とぶつかるような価値観の相違と

ジェネレーションギャップ。ひたすら走り込みと投げ込みで今の地位を築いた鈴木にとって、

ウエート・トレーニングに没頭し、大リーグのビデオを見る若者のことは理解しがたかった。

野茂は自著『 僕のトルネード戦記 』(集英社)の中で、当時の近鉄で感じた違和感を

吐露している。「近鉄のあるコーチの口癖なんですが、野球を会社にたとえるなら、

監督は社長、コーチは部長か課長、そして選手は平社員であると。ヨソの球団は

どうなのか知りませんが、こういう考え方にはついていけません」

 

 自分が上の立場だからと一方的に叱るのではなく、選手を理解して気持ちよく

プレーする環境を作るのが首脳陣の仕事ではないのかと野茂は憤るのだ。

 

まさかの “交渉決裂”

 

 プロ5年目の94年、春先から肩の違和感を訴え続けるも、開幕の西武戦であわやノーヒット

ノーランの快投を見せるが、9回裏に先頭の清原に初安打を許し、一死満塁のピンチを招くと

鈴木監督はあっさり無失点のエースを交代させる。ブルペンでまさかの交代に動揺した

リリーフの赤堀元之は、伊東勤に逆転サヨナラ満塁弾を浴びる最悪のスタート。

それでも傷心の背番号11はハーラートップ争いに踏み止まり、7月1日の西武戦でプロ野球

ワースト記録の1試合16四球を出しながら、3失点完投勝利。なんと191球を投げた。

 

 もはや監督とは満足に会話を交わさない冷戦状態にあったが、野茂は一度でいいから、

近鉄の仲間たちと優勝を味わいたくて懸命に投げたのである。「これが野茂。野茂にしか

できんピッチングや」なんて喜ぶ鈴木監督だったが、さすがに無理がたたり7月15日の

登板で右肩の違和感を訴え2回で降板。二軍調整後に復帰した8月24日の西武戦でも

球速は130キロ台止まりで、3回で右肩痛を訴えマウンドを降りた。

結果的にシーズンラスト登板となるが、この直後に野茂は、連日1時間のジョギングを

自らに課し、3カ月で10キロ近い減量に成功する。

その鬼気迫るトレーニングがなにを意味するのか、周囲はエースの胸中を知る由もない。

 

 嵐の予兆は確かにあったのだ。「球団がどう考えてくれているか、ですから。

今のボクの口からは何ともいえません」と秋口から語り、肩痛の公傷扱いが

焦点になると思われた1994年オフの契約更改。12月13日の一度目の交渉では、野茂サイドが

希望した複数年契約は球団側に却下され、1000万円ダウンの年俸1億3000万円の単年契約を

提示される。そして、21日の二度目の交渉は40分で決裂し、野茂の「サインしていません。

複数年契約以外の要求も出しました。内容は今はいえません」という会見から、

スポーツ新聞には「野茂大リーグ入り直訴」や「代理人交渉を要求」などの見出しが躍り、

騒ぎは近鉄が予想だにしなかった方向へと展開していく。

 

 この詳細を報じる「週刊ベースボール」1995年1月23日号では、黒幕は「かつて日本の

球団でプレーしたこともあり、血のつながりはないが父親が球界の大物といえば、

事情通ならすぐに名前と顔が浮かんでくる」と名前こそ出していないが、エージェントの

団野村の存在にも触れている。任意引退選手は旧所属球団の同意がなければ他球団で

プレーすることはできないが、米国行きとなればその限りではないという野球協約の抜け道を

突く流れに、「ウチと契約するしかないじゃないか」と高をくくっていた近鉄側も焦った。

<続く>

 

「どうせメジャーでは通用せん」批判も…近鉄も予想外だった、

野茂英雄26歳の“任意引退”「1億4000万円を捨て、

年俸980万円を選んだ男」posted 2024/03/03 17:0

 

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◆◆◆

「もう辞めてくれ」「これ、任意引退証」

 

「ベースボールマガジン」別冊薫風号「野茂英雄と近鉄バファローズ」によると、

近鉄の投手コーチで野茂の理解者だった佐藤道郎は、年が明けた1995年1月5日頃、

前田泰男球団代表から電話があり、野茂サイドと7日に名古屋で会うから同席してくれと

依頼されたという。佐藤は南海時代、野村克也の家で高校生の団野村と面識もあった。

交渉の席上で近鉄側は総額1億円近い出来高契約を提示するも、それらには目もくれず

「メジャーへ行かせてください」と主張する野茂。話は平行線を辿り、意見を求められた

佐藤は「代表、天下の近鉄なんだから、バンザイして(メジャーに)行かせてあげましょうよ!」と思い切って発言する。これを受け、前田代表も「俺も微力ながら努力するよ!」と

メジャー挑戦を容認するのだ。そして、1995年1月9日、野茂は任意引退と大リーグ入りの

決意を記者会見で語るのである。「俺がメジャー行くときの契約交渉なんて、『もう辞めて

くれ』と言われたからね(笑)。『じゃあ、辞める』と言ったら『ああ、どうぞ。じゃあ

これ、任意引退証』。辞めてくれてラッキー、みたいな感じや」(「Number」594号)

 

この話が本当なら、あの三女に言わさたのが分かりました パンチ!パンチ!

近鉄から野茂選手が居なくなれば、近鉄は戦力がダウンするのが目的だった 物申す

 

成田空港から渡米する野茂英雄(写真は1996年) ©BUNGEISHUNJU成田空港から渡米する野茂英雄(写真は1996年) ©BUNGEISHUNJU

 

 真実はひとつだが、事実はどちらのサイドから見るかで大きく変わる。のちに野茂自身は

当時の裏側をそう語り、『NHKスペシャル 平成史スクープドキュメント』「大リーガーNOMO~“トルネード”・日米の衝撃~」では、一回目の契約交渉前に任意引退になっていたことを

明かし、「任意引退になればメジャーに行けるよということだったので、実際それがすぐ

そんな簡単にとれるか、近鉄がそこまで簡単に辞めさせてくれるかなと思っていたんですけど」と告白している。彼は己の野球人生を懸け、断固たる決意で球団と対峙していたのだ。

 

消えた… “ナゾの” 岡田彰布との約束

 

 仲の良かった吉井理人のように、1994年の二軍調整中に野茂の口から「(来年は)アメリカに行きます」とはっきり聞いた同僚選手もいれば、鈴木監督とぶつかり三軍投手コーチに

降格していた佐藤は野茂とキャッチボールをした際に勢いのあるボールがきたので驚き、

「肩、痛いんだろう?」と思わず問うと、トルネードは笑いながら「はい」と答えて

また豪速球を投げ返した,

 

 あるときは、「ミチさん、明日、メジャーのスカウトが(投球を)見たいっていうん

ですけど、ブルペンで投げていいですか?」と聞いてきたので許可すると、

やはり凄まじいボールを投げ込んだ。

 

 当時の労組選手会会長の岡田彰布は、自著『プロ野球 構造改革論』(宝島社新書)で、

近鉄退団騒動の渦中に野茂サイドから「会いたい」とコンタクトがあったことを明かしている。伝え聞くところによると、どうもメジャーへは行かないという内容らしい。

会合日時は1995年1月17日午後7時、大阪市内のホテルで待ち合わせることに決まった。

だが、まさに約束の日の17日早朝、関西地方に大きな地震が起きるのだ。阪神・淡路大震災

である。プライベートで四国にいた岡田は、飛行機が伊丹空港に着陸できる状態ではないこと

から大阪入りを諦める。結局、その直後の混乱で野茂との会合も自然消滅してしまったという。

もし、あの時、地震が起きなければ、もしくは数日早く会っていれば……。

いや、そもそも強い大リーグ志向を隠そうとしなかった男が、土壇場になって「メジャーへ

行かない」なんて言い出すだろうか。誰かが、何らかの意図で、選手会会長の岡田に

野茂サイドを説得させるために一席設けようとしたと考えるのが自然だが、真相は藪の中だ。

 

「980万円の男」

 

 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。

 2月13日、ロサンゼルス・ドジャースの入団会見に臨んだ野茂は、メジャー未経験者としては過去最高の契約金200万ドル(約1億7000万円)と最低保障年俸の980万円での挑戦となった。前年から続く長期ストライキが終わったのは4月2日で、開幕が例年より1カ月遅れたが、

これにより肩の故障で実戦から遠ざかっていた野茂はキャンプ地のベロビーチでじっくり

調整することができたという。

 

 5月2日のジャイアンツ戦での歴史的な初先発後、打線の援護に恵まれず初勝利まで1カ月かかったが、そこから連続完封を含む6連勝。6月14日のパイレーツ戦では16奪三振を記録した。

地元ロサンゼルスで「NOMOマニア」と呼ばれる熱狂的ファンを生み、オールスター戦にも

先発登板。ルーキーイヤーに13勝を挙げ、リーグトップの236奪三振を記録して新人王に

輝いた。過去の日本人大リーガーにはマッシー村上というパイオニアはいたが、

まだ27歳の全盛期の“日本のエース”が遠くアメリカの強打者たちをフォークボールで

三振に斬って取るインパクトは凄まじいものがあった。

その様子は日本国内のメディアでも大々的に報じられ、「週刊現代」の「各界100人が選んだʼ95年『日本の顔』」では木村拓哉やイチローを抑え、野茂は44票を集め1位に輝いている。

 

「メジャーでは通用せんやろ」

 

 一方で渡米前後には、近鉄退団前にメジャー球団と交渉していたタンパリング疑惑も

報道され、球界OBや記者から辛辣な意見が多々あったのも事実だ。

会社に命じられまったく予備知識なく球場に来たり、プライベートまで執拗に追いかける記者に嫌気がさしてコメントを拒否することもあった野茂は、一部のマスコミと険悪な関係にあった。

そして、近鉄の鈴木啓示監督は、「週刊ポスト」1995年2月10日号で「自己満足、ここに極まれりやで」なんて袂を分かった元エースを痛烈に批判。「世の中、そんなに甘くないやろ。

自分の思うようにならんのが人生や。そんな簡単にメジャーでは通用せんのとちがうか。

夢も結構やが、自分の力というのもわかっとらんといかん」と怒れる元300勝投手だったが、

絶対的エースを失った1995年の近鉄は8年ぶりの最下位に低迷。鈴木監督はシーズン途中に

辞任した。

確執が噂された野茂英雄と鈴木啓示監督。写真は1994年7月1日、野茂が191球で完投勝利した西武戦 ©KYODO確執が噂された野茂英雄と鈴木啓示監督。写真は1994年7月1日、野茂が191球で完投勝利した西武戦 ©KYODO

 

その野球人生は革命だった

 

 上司である監督とぶつかり、球団という会社に対する不信感を抱き、彼はひとり夢を

追いかけ海を渡った。そんな無謀とも思える戦いに挑んだ野茂を日本のプロ野球選手たちは

どう捉えていたのだろうか。自身もメジャー移籍のチャンスをうかがっていたオリックスの

長谷川滋利は、祈るような気持ちで日本から同学年の野茂の投球を見ていたという。

「日本のナンバーワン投手が通用しなかったら、日本人がメジャーでプレーするチャンスは

なくなってしまう。応援というか、日本の力を証明してくれという気持ちが強かったですね」(「Number」714号)

1995年、メジャー1年目で地区優勝。マイク・ピアザにシャンパンをかけられる野茂 ©BUNGEISHUNJU1995年、メジャー1年目で地区優勝。マイク・ピアザにシャンパンをかけられる野茂 ©BUNGEISHUNJU

  1995年、ひとりの投手がMLBでトルネード旋風を巻き起こし、結果的にあとに続く日本人選手たちの道を作った。日米での新人王獲得は、長い球史において野茂ただひとり。MLBで二度のノーヒットノーランを含む123勝を挙げ、近鉄時代の78勝と合わせて日米通算201勝の金字塔。2014年には日本の野球殿堂入りも果たしている。偉大な記録の数々だが、その功績はあらゆる数字の価値を超えたところにある。

 野茂英雄の野球人生は、記録でも、記憶でもない。革命だった。

<前編、中編から続く>

 

 

「今日のキャッシュより、明日の夢です」年俸1億円超え→  

任意引退を選んだ野茂英雄26歳のメジャー挑戦 近鉄同僚投手は

「絶対やってくれると思っていた」2024/06/02 11:01

「今日のキャッシュより、明日の夢です」年俸1億円超え→任意引退を選んだ野茂英雄26歳のメジャー挑戦 近鉄同僚投手は「絶対やってくれると思っていた」<Number Web> photograph by Getty Images

 

1995年2月13日、ドジャース入団の会見を行った野茂英雄。

団野村の当時の発言と近鉄の同僚投手たちの証言で

1995年1月当時を振り返る 喜瀬雅則 Masanori Kise

 

 今から29年前の1995年6月2日、メジャー初勝利を挙げた野茂英雄。古巣・近鉄の投手たちは前例なき挑戦をどのように見ていたのか。前回に引き続き、1995年1月の「渡米前夜」を

近鉄担当の記者が振り返る。(第6回/初回から読む、前回はこちら)

会見前日に阪神・淡路大震災が発生

 事態は不透明な中で、野茂と団野村は1月18日にそろって東京都内で会見を行った。

会見を行った2人 ©KYODO会見を行った2人 ©KYODO

 

 神戸市内を中心に、阪神地域に未曽有の大被害をもたらした阪神・淡路大震災は、

その前日の17日に発生していた。当時、神戸市内に住んでいた野茂は「連絡が取れていない。自分のところも心配ですが、周りの方が心配です」と明かし、会見の最後に

「被害状況が分かる方、いらっしゃらないですか?」と呼び掛けている。

 

 私は、当時も今も神戸在住で、生まれも育ちも神戸だ。ただ、震災当日の17日は

野茂関連の取材で東京にいた。両親と住んでいた実家は幸いにもほとんど被害がなかったが、

野茂と同じく、電話連絡は取れなくなっていた。

会社からの指示で野茂関連の取材を急きょ切り上げ、私が神戸に戻ったのは同21日。

電車も高速道路も不通で、最も神戸に近いところまで通っていた阪急電車でも、

西宮市の「西宮北口駅」までしか行けなかった。

 そこから神戸市内の自宅まで、およそ4時間かけて歩いて帰った。その途中に野茂が

住んでいたマンションも、はっきりと見えた。ちなみにそのマンションは、あれから29年が

過ぎた今も、当時のたたずまいと全く変わっていないことを付記しておきたい。

 

長期的な視点での球団選び

 

  本題に戻そう。団野村は会見で、今後への“明るい展望”を強調した。

「契約は難しいことではない。28球団(=当時のメジャー球団数)が対象。

どこが一番いいのか。将来を決める重要なこと。その辺の買い物に行くんじゃありません。

積極的にアタックしていきます。彼のキャリアは長い。今日のキャッシュより、明日の夢です」

「野球界発展のため。それを狙っています。夢を売る商売ですから、

発展という言葉をテーマにしてやっていきたい」

 

 野茂、メジャー全球団OK、どこだって行く――。

 そうやって書きながら、どこかぼんやりと、ふわっとした感じが否めなかった。

とにかく日本人選手がメジャーに行くという、その「前例」がないのだ。

 

野茂、メジャー全球団OK、どこだって行く――。

そうやって書きながら、どこかぼんやりと、ふわっとした感じが否めなかった。パンチ!パンチ!

とにかく日本人選手がメジャーに行くという、その「前例」がないのだ。

 

メジャーへの「行き方」がなかった時代

 

   日本人初のメジャーリーガーとなった「マッシー」こと、村上雅則のケースは、

南海(現ソフトバンク)からの野球留学の形で渡米、マイナーでの実績が認められ、

サンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たしている。

1993年~1994年は西武の二軍投手コーチを務めていた村上 ©JIJI PRESS1993年~1994年は西武の二軍投手コーチを務めていた村上 ©JIJI PRESS

 

 1964年(昭和39年)からの2シーズンでのプレーだったが、この際も村上が日米いずれの

球団に帰属しているのか、という問題が発生している。1965年は米国でプレーした後、

66年には日本へ戻るという曖昧な妥結は、メジャー移籍に関する明確なルールの不在による、村上本人の意志と関係ないところで事が動いていた証左でもある。

 日米選手契約協定が両国のコミッショナー間で調印されたのは1967年。ただ、

この協定は、日本球団が米国側選手を獲得することを前提として作られていたものだった。

日本の所属球団がメジャー全球団に選手名を通知、交渉権の入札を行い、

落札した球団との交渉がまとまればメジャー移籍が可能となり、落札球団からは日本の球団に

落札額が支払われる「ポスティング・システム」が発効したのも1998年のことだ。

 だから、野茂が「メジャー挑戦」を打ち出す前には、日本人選手がメジャーに行くということが、そもそも想定されていなかったというわけだ。だから、今後はどんな手順で事が進むのか、どのように交渉して、どう球団が決まっていくのかも、それまでの実例が一切ないから、

取材しながらも、次の展開が全く読めなかったのだ。

 

野茂不在の勝ち頭エースの証言

 

 その思いは、当時の近鉄のチームメートたちも同じだった。

「あの時代は、ホンマに『メジャーに行く』ということ自体がピンとこない時代やん? 

任意引退になったら行けるみたいやで、という話が途中から入って来たくらいでね。

そんなことくらいしか分からへんかったから『ホンマに行けるん?』というのがまずあったね」

 そう振り返ってくれたのは、野茂の2歳年上の山崎慎太郎だった。

 1994年の野茂は、右肩痛の影響で8勝止まり。7月中旬からファームでのリハビリ調整が

続き、8月も一軍登板は1試合だけ。そのエース不在の先発ローテーションを守り、

その年、チーム最多の12勝をマーク、2位躍進に貢献したのが山崎だった。

現役時代の山崎 ©Takahiro Obara現役時代の山崎 ©Takahiro Obara

 

「そんなにプライベートで、ずっと一緒におったわけじゃなかった。でも『行く』っていうのが夢、みたいな感じの話はしてたわ。ただ、現実味が湧かなかったんよ」

通用するかどうか、やっぱり分からないのよ

 それは、メジャーで投げた日本人の前例が皆無に近かったからだ。

「基準がないやん。だから、通用するかどうか、やっぱり分からないのよ。でも、行ったら行ったで、あの野茂が、全盛期のときの野茂みたいな感じで投げたら通用するかな、とは思ってはいたんよ。それでまず『本当に行けるんやな?』『あ、行けたんや』という感じやったから、あとはもう『頑張れ』と、そういう感じやったよね。怪我のこともあったから、大丈夫なんかな、投げられるんかなと思ったりしていたくらいやから」

赤堀元之の証言

「野茂さんのメジャー志向は、もちろん分かっていました」と明かすのは、1994年当時、3年連続でパ・リーグのセーブ王に輝いていた赤堀元之だ。エース・野茂と守護神・赤堀は、当時の近鉄投手陣では絶対的存在だった。2歳年上の野茂は、プライベートでも行動をよく共にした、気の合う先輩でもあった。ただ山崎と同じく「野茂さんが下(二軍)にいて、僕は上(一軍)にいたんで、本当に『行く』という話は知らなかったんです」と当時の認識を明かす。噂レベルの話が一人歩きし始めた中、野茂が「メジャー挑戦」を訴えて、球団と揉めているという情報が漏れ伝わって来たという。

 

「野茂さんも、いろんなことを考えてやっていたと思うんです。僕はそこまでは聞いていなかった部分はあったんですが、僕らとしては『なんで行かせてくれないの? 行かせてあげたらいいじゃん』って。野茂さんの夢でもあったし、やりたいというのがあるんだったら引き留めることもないなと思いました。任意引退がどうのこうのとかは、僕らには分からないじゃないですか。『行かせてよ』と言えば、球団が『お前の夢のためだ』『行っていいよ』と言ってくれるもんだと思っていました」

現役時代の赤堀 ©Kazuaki Nishiyama現役時代の赤堀 ©Kazuaki Nishiyama

やっぱり通用するんや

 最終的に近鉄が折れる形で野茂のメジャー挑戦を容認。2月13日に野茂英雄はドジャースとマイナー契約を結ぶ。5月2日に待望のメジャー初登板を果たすと、6月2日には初勝利。7月にはオールスター出場も果たし、一気にMLBの檜舞台へと駆け上がっていった。

©Koji Asakura©Koji Asakura

 

 95年も近鉄で2年連続2ケタ勝利を挙げ、エース級の働きを見せていた山崎は野茂の活躍に「『やっぱり凄いわ』と思いながら見てたわ」という。

「実際、向こうに行ってやり始めたら『やっぱり通用するんや』って思ったよね。野茂って、改めて“えげつないピッチャー”やったんやなと思ったわ」

 その実感は、当時のリリーフエース・赤堀も同じだったという。

「通用するとは思っていました。あの投げ方もそうだし、フォークもメジャーではなかなかないじゃないですか。僕の中では絶対やってくれると思っていました」

 < つづく >

 

興味がある人は、検索をして時間がある時に読んで下さい 照れ 野球

 

 

2014年11月4日占い師のテレサさんからのメール

 

これまで、自分の思うような活動ができていますか?

もし自分で、満足のいくような過ごし方ができなかったのなら、

これから改めて目標を立て直すと良い時期ですよ。

過去に私が失ってしまった情熱が戻るような、

力強い運が近づいているのを感じました。

 

仕事や趣味、人間関係で失ってしまった物があるのなら、

それを取り戻せるような運勢になっていくということです。

例えば、私が小さいミスやトラブルで信頼や安定を失ってしまったという

ことがあるのなら、いいなぁと考えるだけでなく、チャンスと思って下さい。

ただ、戻ってきたらいいなぁと考えるだけでなく、

何か具体的に行動を私が起こさなければいけません。

行動によって引き寄せることができるのです。

 

過去に起きてしまった誤解や行き違いも

私が落ち着いて対応することで挽回できますから。

勇気を出して、自分で働きかけていきましょう。

つい強気で行きたくなってしまうような空気がありますが、

あまり毒舌すぎると引かれてしまいます。

本当のことだから、正しいことだから、というような

柔軟性のない対応になってしまっては、良くはありませんよ。

状況が更に悪化してしまう可能性もありますから、

一歩引いた姿勢や柔軟な対応で向き合う事が大切です。

これから、私に対人運の良運が訪れるようですね。

 

私、頼みもしないのに、毎日いろんな占い師さんからメールが送られてきて、

初め当たらないので読むだけに、そうしたら、当たるように持って行かれました。

私、時々ハッキリものを言いますが、1度も毒舌なんて言われたことないです 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

 

後でいろんなことが分かりました。凄しづつ書いていきます 笑ううさぎ 音譜

 

 

2003年6月18日のコンフェデレーションズ杯で2点目の時間。3つの約束

2018年8月20日ある契約を交わす時にお互いに条件を出した。1つの約束

2023年9年8月末に桑田佳祐さんのラジオで「自分が知らない間に決まっていた」1つの約束

 

1993年10月28日~2003年6月18日弁護士が入って契約書にサイン 物申す おばあちゃん サッカー

( ① 私の言うことを聞く ② 人を殺さない 自殺 ③ 引退をさせない。

お互いの引退をおかけて勝負し占い師の母が勝った )

 

2018年は、みんなに危害を加えない ムキー パンチ!パンチ!パンチ! むかっ

2013年は、ビクターの小野さんが契約をしました。アミューズとタイレコードを守る条件で。

( この3社に危害を加えない、手を出さない。)

3社に所属している人達やスタッフ、従業員、関係者( スポンサー、取引先、共演者、

辞めた人、独立した人達も含むなど )プンプン パンチ!パンチ!パンチ! むかっ

 

上記の約束を厳守して下さい 物申す おばあちゃん 虹  パンチ!パンチ!パンチ!  星 むかっ

 

 

 

伊勢物語-第五十四段 つれなかりける女

 

 

原文)

むかし、男、つれなかりける女にいひやりける、

和歌(100)

ゆきやらぬ夢路を頼むたもとにはあまつ空なる露やおくらむ

 

(現代訳)

昔、ある男が、冷淡で自分になびかない女に次の歌を送った。

和歌(100)

逢うことは叶わない夢路を頼りにして眠るわたしのたもとには、

果ての無い大空の露が降りたのでしょうか・・・

覚めてみると悲しみの涙でびっしょりと濡れています。

  • ゆきやらぬ夢路

逢うことはできない夢の中の通い路

 

男は、女に秋波を送るが女は一向に逢ってくれそうもない。

せめて夢の中だけでも、と思うが夢でも逢うことができない。

 

この時代は、相手を思うと、その相手の夢の中に自分の姿が現れるという発想であり、

夢で女と逢えないということは、この女が自分のことを思っていないということ。

 

それ故、男の落胆も大きく、目を覚ますとたもとが涙でひどく濡れている。