1971年7月14日、村山実(中央)からホームランを放った王貞治(次打者・長嶋茂雄)
【 Lega-scene あの名場面が、よみがえる。~ON編~ 】昭和、平成の名場面や
名勝負を本紙所蔵の秘蔵写真からお届けする新企画「 Lega―scene(レガシーン)」。
第7回は、ONの好敵手として立ちはだかったライバルとの物語の一ページです。
巨人のV9時代、他球団のエースは「打倒ON」に死力を尽くした。
阪神の村山実もまた、その一人だ。
伝統の巨人―阪神戦。59年6月25日の天覧試合で、新人だった村山は長嶋茂雄に
左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を浴びた。長嶋との強烈なライバル関係の始まりだ。
村山は節目の通算1500、2000奪三振目を長嶋から狙って奪った。
だが、巨人には王貞治もいた。この2人を同時に抑えることがいかに困難か。
写真は一瞬を永遠に封じ込める。71年7月14日の試合。勝利目前の村山を襲った
王の一撃は後楽園球場の右翼席に飛び込んだ。同点の28号。次打者の長嶋も歓喜している。
3人の喜怒哀楽が詰まった一枚はまるで映画のワンシーンだ。時代の主役はON。
だが、マウンドでうなだれる村山を主役にすれば違ったストーリーが見えてくる。
この年の巨人はV9の7年目。7勝に終わり、連続2桁勝利が「10年」で
途切れた村山は、翌72年に現役を引退する。(敬称略)
《 1971年7月14日 選手兼監督で登板も…「全てわしの責任」》70年から選手兼監督を
務めていた当時34歳の村山は、9―7の8回に5番手で登板。王に痛恨の2ランを浴びた。
当時の本紙3面には試合後、記者の質問にもしばらく押し黙り「何も言うことはありません。
みんな一生懸命やっとった。全てはわしの責任や」と足早にバスへ乗り込む描写がある。
両軍計6失策が乱戦を招き、3時間37分を戦った末、時間切れで2試合連続引き分け。
王の「とにかく良かった。昨日は凡退で進行係ばかり務めていた」と喜ぶ様子と対照的だった。
長嶋茂雄vs村山実 指にボール挟んで眠った
“打倒ミスター” への執念 2021.04.07 07:00 週刊ポスト
昭和を彩ったスターには、自他ともに認める「好敵手」がいた。
“ミスタータイガース” 村山実は「打倒・長嶋茂雄」に闘志を燃やした野球人生だった。
今も語り継がれる1959年6月25日の天覧試合。同点の9回、ルーキーの村山は
長嶋にサヨナラアーチを浴びる。長嶋のガッツポーズに球場は大歓声に包まれるが、
ただ1人、「あれはファウルや!」と村山はマウンドで激高した。
1998年に61歳の若さで逝去するまで、この主張を曲げなかった。
この年の2人の対戦成績は23打数3安打。天覧試合以降は、
1本のヒットも許さなかったが、3安打はいずれもホームランだった。
村山が「1500奪三振を長嶋から奪う」と宣言すると、長嶋も「たとえバントをしても、
私は村山君には三振しない」と言い返し、意地を剥き出しにした。この勝負は村山に
軍配が上がり、1500奪三振のみならず、2000奪三振までも長嶋から記録した。
虎番記者として村山の投球を間近で見てきたデイリースポーツ元編集局長の
平井隆司氏が語る。「私たち記者は “巨人に負けるのはアカンが、絵(記事)になる
長嶋になら打たれてもいい” というのが本音でしたが、村山は “巨人に負けてもいいが、
チョーさん(長嶋)だけには打たれたくない” と言っていた。
村山は長嶋を抑えるためならなんでもした。決め球のフォークを磨くために、
布団の中でもボールを指に挟んで眠ったというし、挟む力を鍛えるために
一升瓶を指で挟んで持ち上げるのが日課でした。
長嶋との対戦はノーサインで投げていました。長嶋は捕手の構えているところが
わかるというので、わざと逆コースを投げていた。捕手には“黙って座っておれ。
お前のサインは全部読まれる”と言っていたほどです」
村山が兼任監督だった頃に主戦投手だった上田二朗氏はこう振り返る。
「村山さんは “オレは長嶋さんとの勝負は絶対に逃げない。逃げない中で勝負する。
打たれるか打ち取るかのどちらかだ。逃げないで勝つことに価値がある” と
話していました。だから三振かホームランといった結果が多かったようです。
まさに侍の世界で、斬るか斬られるかでした」
2人の対戦成績は302打数85安打、21本塁打、39三振だった。
なぜそれほどまで村山は長嶋にこだわり続けたのか。
村山はインタビューでこう語っていた。〈 長嶋さんの目は、勝負の瞬間は静なのです。
一瞬、フッと涼やかな、とてもたおやかな目になる。“長嶋茂雄のファンタジー”
とでも言いましょうか、この “静寂” に投手は魅入られたように我を失うのです。
(中略)まるで、魅入られたように勝負をしてしまう……ここなんです、
長嶋茂雄という打者が凄かったのは……〉(『Number』1988年5月20日号)
ライバルをも魅了するのが、“ミスタープロ野球” 長嶋だった。
※週刊ポスト2021年4月16・23日号
村山さんのインタビューで分かりましたが、長嶋さんとの対決では、
我を忘れるんじゃなく忘れさせられていたのが分かりました
村山実&江夏豊「“ON” に牙をむいた猛虎の左右エース」/
プロ野球20世紀の男たち ベースボールONLINE
プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして
不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。
村山は長嶋、江夏は王をライバルに
光が強ければ、影は濃くなる。かつて “職業野球” と蔑まれていたプロ野球は、
1958年に長嶋茂雄が巨人へ入団して以降、国民的な人気を博すようになった。
同時に、巨人という “太陽” を中心に、プロ野球は回り始めたといえる。
象徴的だったのが、59年6月25日、後楽園球場での“天覧試合”だ。
巨人と阪神による伝統の一戦で、王貞治と長嶋の “ONアベックアーチ” 第1号が
飛び出した試合でもあるのだが、それをはるかにしのぐ大きな意味が、この試合にはある。
それに触れると日本の近現代史にまで話が広がってしまうので割愛するが、その9回裏、
左翼ポール際にサヨナラ本塁打を放ったのが長嶋であり、打たれたのが村山実だった。
「長嶋こそ巨人であり、倒さねばならない男」
と、それ以来、村山は長嶋と通算334打席、そのすべてで真っ向勝負を繰り広げていく。
対戦成績は302打数85安打、21本塁打、39三振、打率.281。
村山は節目の通算1500奪三振、2000奪三振を長嶋から奪っている。
その全身全霊で投げ込む姿に、人は悲壮感を見た。63年には巨人戦で
自信の1球をボールと判定されて猛抗議、退場となって号泣したことも。
巨人が光を放てば、それだけ濃い影を背負い、そして、それを跳ね返していった。
天覧試合のあった59年は防御率1.19で最優秀防御率、新人王と沢村賞にも選ばれる。
王が初めて本塁打王となった62年には防御率1.20で2度目の最優秀防御率。
2リーグ制となって初めての優勝に貢献してMVPに輝いた。
巨人V9の幕が開けた65年からは2年連続で最多勝、監督も兼ねた70年には
防御率0.98で3度目の最優秀防御率。腱鞘炎や骨折、血行障害とも闘いながら、
気迫のストレートと鋭いフォークを武器に投げまくった。
そんな村山に、「長嶋は俺のライバルだから、お前は王をライバルにしなさい」と
言われたのが、66年秋の第1次ドラフト1位で67年に入団した江夏豊だった。
「すでに王さんはリーグを代表する打者。僕は若僧でしたし、この人は何を
言っているのだろうと。あとになって、長嶋さんは渡さんぞ、という意思表示と、
一方で、僕をライバルとして認めてくれたということかもしれないと思った」と、
江夏は振り返っている。2年目の68年に25勝で最多勝、世界新記録となる401奪三振。
61年に稲尾和久(西鉄)が樹立したプロ野球記録353奪三振を更新する際には
「王さんから決めたい」と公言し、タイ記録と新記録を勘違いして王から353個目の
三振を奪う一幕もあったが、そこから凡打の山を築き、宣言どおり、354個目を王から奪った。江夏と王の通算対戦成績は、321打席、258打数74安打、20本塁打、57三振、打率.287。
江夏にとって、もっとも本塁打を許したのも、もっとも三振を奪ったのも、この王だった。
村山選手と長嶋選手は、本当に良いライバルだったのが分かりました
村山選手は、展覧試合で長嶋さんにホームランを打たれましたが、村山さん一人だけ
意地なのか? あれは、ファールだったと最後まで言い続けていたと
江夏さんも、タイ記録と新記録を勘違いしたのも、あの三女の仕業です
阪神ひと筋の村山、流浪の “優勝請負人” 江夏
村山の引退は72年。翌73年のオープン戦での引退試合では、一時は確執もあった江夏らが
騎馬を作って、マウンドまで運んでくれた。胸部疾患もあって体はボロボロ、さらには
阪神の “お家芸” というべき内紛にも巻き込まれての引退だったが、阪神ひと筋を貫いて、
「タイガースは私の人生だった」と言えただけ、幸せだったのかもしれない。
71年には球宴で9連続奪三振、巨人がV9を決めた73年には24勝で2度目の
最多勝に輝いた江夏だったが、やはり心臓疾患や血行障害で体はボロボロ。
75年オフには追われるように南海へ放出された。
そこで兼任監督の野村克也と出会い、クローザーに転向。77年シーズン終盤に
野村が解任されると、オフに広島へ移籍して、79年には初めて優勝を経験する。
近鉄との日本シリーズでは第7戦(大阪)で “江夏の21球” と言われる名勝負を繰り広げた。
翌80年も連続日本一に貢献し、続く81年に移籍した日本ハムもリーグ優勝に導く。
阪神時代の剛速球は取り戻せなかったが、歴戦の投球術で “優勝請負人” として
新たな花を咲かせた。
村山と江夏。悲運や反骨といった言葉が似合うエースだ。影の色も濃い。
だが、それこそが、この両雄を魅力的にしているように思える。 写真=BBM
江夏さんは、本当に野村さんと出会って、野球人生が変わったと思います
その前は、村山さんに王さんのライバルになれと言われ、本当にライバルになりましたね。
巨人vs阪神「伝統の一戦」でのライバル対決・三番勝負
[ 2015年4月17日 11:23 ] スポニチ
1968年9月17日、阪神―巨人20回戦の7回、王貞治(下)を
空振りの三振に討ち取り、シーズン354個の奪三振日本新記録を達成した江夏豊
今年は阪神の球団創立80周年。阪神の歴史で常に語り継がれてきたのはライバル球団・
巨人との伝統の一戦だろう。その阪神vs巨人の戦いでは、球史に残る投打の
ライバル対決が繰り広げられてきた。そして、その対決が伝統の一戦をさらに盛り上げ、
阪神、巨人双方のファンのボルテージを高めていった。
その代表的な3つの対決を紹介しよう。
◎村山実vs長嶋茂雄
「ライバル」でまず思い出すのは「ミスター・タイガース」村山実と
「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄の対決。そのライバル関係を印象付けたのは
1959年6月25日の天覧試合だった。4-4の同点で迎えた9回裏、7回途中から登板した
ルーキー・村山が対峙したのは巨人の4番・長嶋。村山が投じたストレートを
長嶋はフルスイングし、打球はレフトスタンドへ。劇的なサヨナラホームランとなった。
打たれた村山は生涯、「あの打球はファウルだった」と言い続けた。
その後も2人は阪神のエース、巨人の4番として伝統の一戦の主役として対戦し続けてきた。
天覧試合では敗れた村山だったが、実は通算1500奪三振、2000奪三振と節目の記録は
長嶋から奪っている。1972年に村山が引退するまでの2人の対戦成績は、
302打数85安打、21本塁打、39三振だった。
◎江夏豊vs王貞治
巨人vs阪神の「伝統の一戦」は村山vs長嶋だけでなく、江夏豊vs王貞治の
ライバル対決にも注目が集まった。江夏はプロ1年目の時、先輩の村山から
「オレはこっち(長嶋)、お前はあっち(王)や」と王をライバルとするよう指示される。
以降、江夏は長嶋よりも王との対決に執念を燃やした。
なかでも奪三振記録を塗り替えた、甲子園球場での1968年9月17日の一戦での出来事は、
今でも語り継がれている。稲尾和久(元西鉄)の持つシーズン記録の353奪三振に
あと8と迫った江夏は「新記録は王さんから獲る」と狙いを定め、初回から三振を積み重ねた。4回に王から三振を奪い新記録達成! と思った江夏だったが、
捕手の辻恭彦(元阪神ほか)から「まだタイ記録」と指摘される。
ここで困った江夏。王から新記録となる三振を奪うためには、もちろん王までの
打者から三振を奪ってはならない。そして、接戦だったため、打たせながらも、
失点は許されない状況。特に、試合中盤で投げ合っているのが阪神のエース・
江夏となれば、その日に先発した巨人の高橋一三は、打撃は捨て投球に専念したくなる。
そこで、三振を奪わず、アウトにすることに苦心したという。そして7回、王に再び打席が
回り、江夏は空振り三振に仕留め、日本新記録を樹立した。その後、試合は延長12回に
江夏がサヨナラ打を放ち、1-0で阪神の勝利。まさに江夏の一人舞台の試合となった。
ちなみに、このシーズン奪三振記録は401にまで伸ばした。これはメジャーでも及ばない
大記録(最多はノーラン・ライアンが1973年エンゼルス時代に記録した383奪三振)である。
◎江川卓vs掛布雅之
1980年代の巨人vs阪神を彩ったのは巨人のエース・江川と阪神の4番・掛布の
対決だった。どちらかが年上だった村山vs長嶋、江夏vs王とは違い、
この2人は同じ1955年5月生まれの同級生。
高校卒業後にプロ入りした掛布が阪神の中心選手にまで成長した時に、
一連の騒動を経て江川が巨人へ入団する。初対決となった1979年7月7日では、
掛布がホームランを放ち「プロの先輩」として意地を見せた。
江川が掛布との勝負に強いこだわりを見せたのが1982年9月4日の試合。
8回裏2死二塁の場面で掛布を迎えた時、巨人・藤田元司監督は敬遠を指示する。
江川にとってはこの試合、リーグタイに並ぶ無四球試合の記録が懸かった一戦でもあった。
結局、江川はベンチの意向通りに敬遠で掛布を歩かせる。しかし、江川の投じた
4球は勝負できない悔しさもあってか、全力のストレートだった。
後に江川は「ホームランを打たれるより悔しい」とその時の気持ちを口にしている。
この3つのライバル対決で共通しているのは死球が1つもなかった事。
その正々堂々としたフェアな戦いが、今でも語り継がれる大きな要因となっているだろう。
「伝統の一戦」やプロ野球の盛り上がりを促す、このような個人vs個人のバチバチした
対戦がまた新しく生まれてほしいものだ。(『週刊野球太郎』編集部)
掛布さんと江川んさんには、監督になってほしいです
江川さんのあの事件のことは、また後日くわしく書きます
2014年9月28日ジュピター以外の占い師、テレサさんからメールで送られてきました。
「正」というイメージが私の運勢から感じられました。
正確や正直、公正や正義といったことを指しているようですね。
私は、真面目な方ですし、大丈夫だと思いますが、適当にしてきたことや
少しズルしていたことがあるのなら、これからは、そういったことが
表に出てしまう時期になります。
今まで以上にマナーなどを意識していけるといいですね。
良い機会ですから一度、自分を見直してみると良いでしょう。
しっかりやっていると思っても、思い込みがないかを確認し、
言葉使いや振舞いなどを自分で見直しておきましょう。
周囲からも指摘を受けやすい時期ですが、もし指摘をされたら、
素直に受け取って感謝を出来るといいかなと思います。
指摘する側もエネルギーを使うものですかた、私をいじめたり、
嫌な気持ちにさせるためではなく、私のためと思って指摘をしてくれているのです。
(中略)私に対しても、直してほしいと思っていたことを
周囲から言われやすい時でもあります。
そんな時も、相手の気持ちを考え素直に反省をしましよう。
意識しすぎても動きづらくなってしまうかもしれませんから、
人に感謝をする気持ちを忘れず、表現できるといいですね。
占い師の母が「とんでもないことが起きない限り変わらない」と言ってました
伊勢物語のあらすじ
四十四 馬のはなむけ
むかし地方へ行く人に
餞別のごちそうをしてあげようと思って招待した。
疎遠な人ではなかったので
男の妻が侍女に盃を勧めさせ
女の衣装を与えようとする。
あるじの男が歌を詠んで
贈り物の衣装の裳(も)の腰紐に結びつけさせる。
旅立つあなたを祝すため いでてゆく君がためにと
着ていた「裳」を脱いだので ぬぎつれば
私たちまで「喪」が晴れて われさへもなく
互いにめでたいことですね なりぬべきかな
この歌は多くの歌のなかでもとくにおもしろいので
頭で考えて読まず腹で味わって。
註記「馬のはなむけ」とは、餞別のこと。
「裳」とは、女性の正装の、腰から下につける衣装のこと。
思考低下にしないで、脳の中枢神経を触って来ない、喉を傷めないで(声を出にくくしない)
体調不良にしないで、人の感情やネガティブ、自殺願望を持って来ないで。トイレ関係
後ろに憑かない、憑依して人をコントロールしないで。話しかけてこないで
人の過去を水晶で見て、リークや脅し、マウントに使わないで
その技術、人に良いように使って、決して人にとって悪いように使わないで
個人的、連帯責任と全部の責任はフイリピンのお母さんに取ってもらいます
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました