92年7月、バルセロナ五輪 柔道・男子71キロ級金メダルを獲得した古賀稔彦さん  日刊スポーツ

 
 92年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの「平成の三四郎」こと
古賀稔彦氏が24日、死去した。53歳だった。

関係者によると、昨年からがんの闘病中で24日朝に亡くなった。

福岡県久留米市生まれ。福岡・宮ノ陣小1年で柔道を始めた。

名門・講道学舎へ入門し、東京・弦巻中-世田谷学園高と進み、86年に日体大入学。卒業後、同大学院に進学した。

弦巻中3年時に全国中学大会で優勝し、世田谷学園高ではインターハイ個人戦2連覇。高校3年の17歳の時に史上最年少の日本代表(フィンランドオープン)に選ばれた。

代名詞ともいえる鮮やかな背負い投げは、弦巻中2年から。兄元博さんのアドバイスがきっかけだった。日体大の卒業論文(90年)のテーマは「背負い投げの魅力を探る」だった。

 

 五輪には88年ソウル大会に71キロ級で初出場するも3回戦で敗退。

92年のバルセロナ五輪で悲願の金メダルを獲得した。

その金メダルへの過程が壮絶だった。24歳、71キロ級代表の古賀は、

78キロ級代表の吉田秀彦とのけいこ中に左ひざを負傷。

靱帯(じんたい)損傷で全治1カ月の大けがだった。

講道学舎の先輩後輩だった2人は、選手村でも同部屋。

そんなアクシデントを乗り越え、奇跡の金メダルを獲得した。

歩くことさえ満足にできなかった左ひざのけが。だが、畳の上では、

一度も足を引きずらなかった。前日、先に後輩の吉田が金メダルを獲得していた。

そのことを聞かれ「けがをしたのは吉田との練習だったので、あいつは責任を

感じていた。早くけがが治るようにいつも祈っていたという後輩の気持ちを聞いて、

今回は本当にいい優勝をしたなと思います」と言った。

まさに、奇跡の金メダルリレーだった。

96年アトランタ五輪では78キロ級銀メダル。00年に現役引退し、その後は指導者に。全柔連のコーチなどを務めた。自らの道場「古賀塾」でも指導していた。

指導者としても、手腕を発揮。04年アテネ五輪女子63キロ級で指導した

谷本歩実が金メダルを獲得した。谷本は、古賀に抱きついて喜んだ。

07年からは、環太平洋大の体育学部体育学科教授で、女子柔道部総監督を

務めていた。

 

 

さらば平成の三四郎…古賀稔彦さん死去 がん闘病1年、

バルセロナ五輪で金 

         2011年取材に応じる古賀さん。

        スター選手は現役引退後、指導者としても柔道界に貢献した

 

 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリスト、古賀稔彦

( こが・としひこ )さんが24日、川崎市高津区の自宅でがんのため死去した。

マネジメント会社が発表した。53歳の若さだった。佐賀県出身。

葬儀・告別式は29日に営まれるが、時間や場所は非公表。複数の関係者によると、

古賀さんはがんのため昨年3月に腎臓の片方を摘出した。芸術的な一本背負いで「平成の三四郎」の異名を取った柔道家が、7月23日の東京五輪開幕を前に力尽きた。

 

 相手を高々と担ぐ芸術的な一本背負いで多くの柔道家から尊敬された「平成の

三四郎」が、53歳の若さで旅立った。岡山・環太平洋大柔道部の総監督を務めるなど後進の指導に力を入れ、年間100回近い講演で全国を飛び回っていた古賀さん。

体に異変を感じたのは昨年だった。複数の関係者によると昨年3月、がんのため腎臓を片方摘出。見た目にもやせていた。それでもその後は以前と変わらない量の仕事をこなしていたという。昨秋の講道館杯全日本体重別選手権(千葉ポートアリーナ)

では現場を訪れ、「まあまあ元気」などと笑顔を見せていた。

 

 ところが、今年2月中旬ごろ、腹水がたまるなど再び体調が悪化。「ちょっと療養するわ」と自宅療養に入ったという。マネジメント会社の関係者は「それまで忙し

かったので疲労がたまっていると思い、しばらく休んだ方がいいと話した」。その後も電話やメールで連絡を取っていたが、「普通に話していた。やせてはいたが、

知らない人が見たら減量しているのかと思う程度だった」。容体急変に唇をかんだ。

 

古賀さんが急死したと知り、本当にビックリしました。なにがあったのか?

周りの人が一番驚いたと思いますが・・・。ムキー パンチ!パンチ! 星

これからは家族で力を合わせ、心身ともに健康でお仕事頑張って下さい。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

「言葉もない」「早すぎる」…古賀稔彦さん死去に

バルセロナ五輪柔道監督ら  

 

        1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級で優勝し、吉田秀彦さん(右)に抱きついて号泣する古賀稔彦さん(共同)

  1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級で優勝し、

 吉田秀彦さん(右)に抱きついて号泣する古賀稔彦さん(共同)

 

 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんの死去に、上村春樹・講道館館長(バルセロナ五輪日本男子監督)は「信じられず、言葉も

ない。早すぎる。順番が違うだろう。これからの柔道界を支えていく存在だった。

バルセロナ五輪の激闘を抜きに彼は語れない。相手を引っこ抜くような一本背負い

投げで一世を風靡しただけでなく、周囲に慕われる精神的にも強い柔道家だった」

と話した。

 

 柔道男子日本代表の井上康生監督は「古賀さんは素晴らしい柔道センスに加え、

スピードとパワーに裏打ちされた抜群のひらめきがあった。普段はさわやかな笑顔で明るく声を掛けてくれた。非常に早すぎる死で、柔道界にとっても本当に残念だ」と話した。

 

 

古賀稔彦さん死去、全柔連の山下会長

「真っ向から闘う姿勢は忘れられない」

教え子の素根選手の世界選手権優勝を喜ぶ古賀さん(右)(2019年9月、環太平洋大学で)

    教え子の素根選手の世界選手権優勝を喜ぶ古賀さん(右)

    ( 2019年9月、環太平洋大学で )

 

 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで「平成の三四郎」と呼ばれた古賀稔彦(こが・としひこ)さんが24日午前、がんのため、川崎市内の自宅で

死去した。53歳だった。関係者によると、昨年体調を崩して手術を受け、最近は自宅で療養していた。告別式は29日に行われるが、場所は非公表。喪主は妻、早苗さん。

 

 佐賀県出身で、中学生時代に東京の柔道私塾「講道学舎」に入門。得意の背負い投げを磨き、日体大に進学した。中量級ながら、体重無差別で争う90年の全日本選手権にも出場し、決勝で重量級の小川直也選手に敗れたが、2位と健闘した。

 

 五輪は88年ソウル大会から、3大会連続で出場。バルセロナ五輪では大会直前に

負った左膝じん帯損傷の大けがを乗り越え、不屈の精神力で金メダルに輝いた。

96年アトランタ五輪でも、78キロ級で銀メダルを獲得した。

2000年に引退後は、全日本女子強化コーチとして、04年アテネ五輪、

08年北京五輪金メダリストの谷本歩実さんらを育てた。

谷本さんは「アテネ五輪の時は、古賀先生の期待に応えたい一心だった。

私の柔道の一本を取る姿勢や心構えは、全て古賀先生から受け継いだと思う。

古賀先生に出会わなければ、五輪もなかった。感謝の気持ちしかない」と悲しんだ。

 

 全日本柔道連盟の山下泰裕会長は「柔道界にとって、貴重な存在を失いました。

重量級の選手とも正々堂々、真っ向から闘う姿勢は、忘れられません」と悼んだ。

 

 

「平成の三四郎」古賀稔彦の愛弟子・谷本歩実、

“オール一本勝ち”でオリンピックを連覇し「女三四郎」に【師と弟子の五輪】

代表初選出時から二人三脚で “一本の美学” を追求

1 分執筆者 オリンピックチャンネル編集部     2021年3月 03日 19:52

 

2004年のアテネ五輪女子柔道63キロ級で金メダルを獲得した谷本歩実(あゆみ)は、試合後、真っ先にコーチと抱擁を交わした。彼女の「師」とは、バルセロナ五輪

男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦(としひこ)だ。豪快な一本背負いで

輝かしい功績を残し、「平成の三四郎」と呼ばれた古賀の教えとは。

 

谷本歩実(左)と古賀稔彦(右)。ともにオリンピックの大舞台で金メダルを獲得している 

 

オリンピックに3度出場した「平成の三四郎」、

2000年より指導者に

 

 柔道界では、小柄ながら身体の大きな選手を投げ倒すことを得意とする選手は、

人気小説の主人公の名を取り、「三四郎」という愛称がつけられる。

身長170センチと、海外選手に比べれば小柄な部類に入る古賀稔彦はかつて「平成の三四郎」として名を馳せ、世界を舞台に活躍した。佐賀県出身の古賀は小学生から

柔道を始め、中学生になると、東京都世田谷区にあった中高一貫の柔道私塾「講道

学舎」に入門。1975年に柔道家の横地治男によって創立された「講道学舎」は、

全国から有望選手を集め、寄宿制の施設で心身を鍛え上げていた。やがて吉田秀彦や海老沼匡ら数多くの名選手を送り出した同塾で、古賀は「勝負の厳しさ」を学んだ。

中学、高校時代に数々の全国タイトルを手にした古賀は、日本体育大学進学後も成長を続け、1988年のソウル五輪でオリンピック初出場を果たす。この時は3回戦敗退に終わったが、4年後のバルセロナ五輪では選手団の主将を務め、金メダルを獲得。

実は現地入り後の練習中に左ひざを負傷し、出場すら危ぶまれた状態だったが、

強い精神力により痛みをモノともせず、金メダルを勝ち取った。その後、1996年のアトランタ五輪は階級を71キロ級から78キロ級に上げ、2大会連続の頂点を目指した。しかし、大会前の臀部の負傷の影響もあって満足な練習を積めず、

決勝で惜しくも判定負けを喫して銀メダルに終わっている。

シドニー五輪代表を逃したこともあり、2000年4月に現役を引退し、指導者に転身。全日本女子柔道コーチを務めながら、2003年には自身の町道場「古賀塾」を開塾した。古賀は柔道の創始者である嘉納治五郎の教え、「精力善用」「自他共栄」を

次世代の子どもたちへ継承すべく、指導に邁進していった。

 

2003年に自身の町道場「古賀塾」を開塾した古賀は、柔道の創始者である嘉納治五郎の教えを軸に指導に励んできた

 
地道に信頼関係を築いた愛弟子の谷本歩実がアテネで金
 

谷本歩実(あゆみ)との出会いは2001年のことだった。谷本が大学進学直前に

日本代表に初選出された時、全日本女子柔道コーチであった古賀の指導を受け、

以降、 二人三脚による歩みが始まった。

古賀は、右組みの谷本に対して左の一本背負いを教え込み、オリンピックで “必殺技” として繰り出すために、右の技との駆け引きを教え込んだ。直伝ということで、

谷本の一本背負いは形も切れ味も古賀の現役時代によく似ていると言われた。

だが、なかなか思うように結果を出せず、古賀は戸惑った。当時の指導法について、古賀はのちに「一方的なアドバイスになっていた」と振り返っている。

選手は指導者の言うことを素直に聞くもの、と思い込んでいた古賀は、

選手との信頼関係がなかなか築けないことに悩んだ。そういった背景のなか、谷本は2003年に大阪で開催された世界選手権で開始から10秒足らずで投げられ3回戦敗退。大会1カ月前に肉離れを負った影響もあったとはいえ、屈辱を味わった。

一方的な指示ではなく、“聞き上手な先生” を目指すよう指導方針を変えた古賀は、

辛抱強く谷本と向き合い続けた。歩き方などから選手の状態を見て取れるようになるまで、観察を続ける日々。選手の言い分を否定せずに悩みをすべて吐き出させ、

また、選手の気持ちに寄り添うことも意識した。谷本が大阪世界選手権で敗れた際、「俺のほうがもっと悔しい」という言葉で谷本を激励した。

それでも谷本は敗戦のショックを拭うのに時間を要し、古賀から毎日のように

かかってくる電話に出ることもできなかった。谷本自身が古賀と向き合えたのは、

講道館杯全日本柔道体重別選手権大会優勝後だった。試合後、真っ先に古賀に

挨拶に行き、嬉しさから大泣きしたという。古賀が指導者として悩み、もがき

ながらも丁寧に育て上げた谷本は、初出場のアテネ五輪で金メダルという形で

恩返しを果たした。決勝終了直後、真っ先に古賀と抱擁を交わしたシーンは、

日本のオリンピック史に残る名場面の一つとして語り継がれている。

 

バルセロナの時もTVを観ていました。あの大ケガをして、後輩の吉田選手も

責任を感じながら、試合に挑み金メダルを獲得をしても、心から喜べなかったはず。

それを察した古賀さんは、気にするなと言ってくれて、気分が楽になったと。

そして、翌日に古賀さんも金メダルを。あの試合も観ていましたが、

本当にケガしているとは思えない柔道でした。判定となり、審判が赤3本旗を上げた

瞬間、良かったーと思いました。古賀さんの努力が報われた瞬間でしたニコニコおばあちゃん パンチ!パンチ! 星

 

谷本は北京五輪でも優勝を果たしオリンピック2連覇。全9試合オール一本勝ちはオリンピック史上初の快挙だった

史上初の「オール一本勝ち」でオリンピック連覇の快挙達成

アテネ五輪の後、谷本は世界中の選手たちから厳しいマークに遭い、腰痛の発症なども重なり、苦しい4年間を過ごした。ケガを押して無理に試合に出続けていたこと

から、北京五輪の直前の時期は、歩くことさえままならない状態だったという。

自信を失った谷本に対し、古賀は辛抱強く寄り添い続け、アテネ五輪の時と

同じように自分の柔道に集中できる心理状況を整えられるよう促した。

再起を果たした谷本は北京五輪でも金メダルを獲得し、見事に2連覇を達成して

みせた。アテネ五輪、北京五輪を合わせて全9試合において、オール一本勝ち。

これはオリンピック史上初の快挙であった。“一本勝ち” へのこだわりは、古賀の

現役時代を想起させることから、谷本には「平成の女三四郎」の異名がついた。

2010年に現役を引退し、指導者の道を歩む谷本は、古賀と同じ信念を抱いている。

それは、“一本柔道” を後世へと伝えていくこと。ただ試合に勝つことだけを目指す

のではなく、“一本勝ち” を極めることで、おのずと結果もついてくる。

それが日本の柔道に古くから伝わる “一本の美学”。谷本は負傷明けの北京五輪でも

決して守りの姿勢は取らず、“一本” を狙い続けた結果、金メダルを手繰り寄せた。

2人の意志は今後も日本柔道界において受け継がれていくだろう。

そして、新たに「三四郎」の名を継ぐ者の誕生が待たれる。

 

古賀さんが経験しているのでアドバイスができ、谷本選手との絆や信頼関係があったからこそアテネ、北京オリンピックで初のオール1本勝ち、2人で勝ち取った金メダル 

古賀さん直伝で相当な努力があって、あの綺麗な背負い投げ習得できたんですね クラッカー

決勝終了直後、真っ先に古賀さんと抱き合った本当の意味が分かりました 笑ううさぎ おばあちゃん  

 

 

第2回 覚醒のとき - 勝利へのターニングポイント 

古賀稔彦(柔道)     2016年09月05日

“日本のために” から “自分のために”

 1992年バルセロナ五輪柔道71キロ級金メダリストの古賀稔彦が初めて

オリンピックに出場したのは88年のソウル五輪である。
20歳の古賀は伝家の宝刀・背負い投げを武器に金メダルの最有力候補と見られて

いた。「昭和の三四郎」という呼び名が、期待の大きさを物語っていた。
ところが、である。オリンピックの畳には魔物が棲んでいた。3回戦で旧ソ連の伏兵

ゲオルギ・テナーゼに組ませてもらえず、早々に敗退した。テナーゼは古賀の柔道を研究しきっていた。奥襟をつかんで動きを止め、古賀の背負いを封じたのだ。


 精神面の弱さも露呈した。後に古賀は、こう語った。
「あの時は、試合前の練習も言われるままにただこなしているという感じで、

気持ちがフワフワしているような状態でした。要するに自分を見失っていたんです。
それにプレッシャーを背負い過ぎて、マイナスの方からものを見ていたような

気がする。たとえば “日本のために勝たないといけない” といった具合に。

これじゃいけない、とハッと我に返ったのは、ソウルが終わってからでした」

 

1988年ソウルオリンピック時は、気持ちがフワフワしているよう、

自分を見失っていた。プレッシャーを感じさせられたのは、あの姉妹のせい ムキー パンチ!パンチ!

 

第2回 覚醒のとき - 勝利へのターニングポイント 古賀稔彦(柔道)

写真: 日刊スポーツ/アフロ

 

 ソウル五輪後、古賀はどう変わったのか。
「練習でも、あくまでも自分自身を中心に据えて行うようになりました。

“日本のために” から “自分のために” と考え方を切り換えたんです。

そうすれば、つらい合宿も苦にならない。時には練習後、酒を飲んだりして

気分をリフレッシュすることも覚えました」


 4年後、バルセロナ五輪。またしても古賀に試練が襲いかかる。柔道の私塾・

講道学舎の後輩である吉田秀彦との乱取り中に左ヒザを痛めてしまったのである。
「亜脱臼の状態で、ヒザのまわりのじん帯が伸び切ってしまい、歩くことすら

できませんでした。加えてそこが炎症を起こしてしまい、その時点で出場しても、

まともな柔道はできないと覚悟しました」ここで4年前の苦い経験が生きた。周囲の

雑音に惑わされず、できることに集中しよう。ジタバタしても、仕方がない――。


 古賀によれば、ケガをするまでの「優勝したい」という思いが、「これで優勝

できる」に変わったのだという。「ケガをして、いろんな雑念が吹っ切れたんです。調子がいいと、考えなくてもいいことまであれこれ考えるでしょう。ところがケガをしたことによって、気持ちが勝負だけに集中できるようになった。また、今までの

経験から、最悪の状態でも優勝できるだけの戦い方は身につけていたつもりでした。だから、負ける気は全くしなかったですね」 ハンガリーのベルタラン・ハイトシュとの決勝。赤旗3本がサッと上がった瞬間、古賀は両手の拳を握り締め、

宙を見上げて「ハーッ」と叫んだ。同時に大粒の涙が頬をつたった。


 負けて泣かずに勝って泣く――。挫折を力に変えた男の姿が、そこにあった。

 

女子53キロ級、2回戦で阿部詩選手がまさかの1本負け。

録画で観ましたが、攻めて行った結果が1本負けなら分かりますが・・・

本人が頭を抱えたり、畳を降りてからコーチの胸で声を出して大泣き~えーん 

あれは、感情があふれ出させられたからです。あの三女によって 物申す パンチ!パンチ!

二宮氏プロフィール
にのみや・せいじゅん

1960年、愛媛県生まれ。スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツ

ジャーナリストとして独立。五輪、サッカーW杯、メジャーリーグなど国内外で

幅広い取材活動を展開。『プロ野球 名人たちの証言』、『広島カープ 最強のベスト

ナイン』など著書多数。

プロフィール 二宮清純

 

 

伊勢物語のあらすじ

三十三 こもり江


むかし男が
摂津の国菟原(うはら)の郡(こおり)に住む女のところに通っていたが
今度帰ったらもう二度と来ないだろうと
女が思っているようすだったので
男が

 蘆の生える岸辺から                    あしべより
 潮が満ちてくるように            満ちくるしほのいやましに
 あなたを慕うこの気持ち                   君に心を
 ますます深くなりますよ                 思ひますかな

女の返し歌は

 波も立てずに耐えている              こもり江に思ふ心を
 入り江のようなこの気持ち                 いかでかは
 どうして舟から棹さして                  舟さす棹の
 測ることができるでしょう               さしてしるべき

田舎の人が詠んだ歌にしては
良しや芦屋?

 

【 別の解釈 】

伊勢物語』(Cf. 在原業平825-880)「第33段 こもり江」 :荘園主の子息と荘官の娘の恋!「男」は優しい心遣いを

示した!「女」は事情が分かっているが、とても悲しい!

2022-01-12 15:12:05 | Weblog

 

むかし、男、摂津の国の菟原(ウバラ)の郡(コホリ)に住む女に通っていた。

ところが女は、「男がこんど帰って行ったら、もう来ないだろう」

思っている様子だった。男が歌を詠んだ。

「あしべより満ちくるしほのいやましに君に心を思ひます(※増す)かな」
蘆の岸辺を満ちて来る潮のように、いよいよますます、

あなたを思う心が深くなります。

女が歌を返した。

「こもり江に思ふ心をいかでかは舟さす棹(サヲ)のさしてしるべき」
人目に隠れた入り江のように私が思う心を、どうしてそのような心だとあなたは

指さして(棹を「さす」と懸詞)知ることができるでしょうか。(反語!)

田舎の人の歌としては、相当に素晴らしいできだ(「よしやあしや」)と

男は思った。(男は「相当に素晴らしいできだ」と思っているのだが、

はっきり言うのを避けて「よしやあしや」と言った。)

《 感想 》

上級貴族の在原業平(「男」)と、父 阿保(アボ)親王の荘園にすむ在地の荘官の

娘(「女」)とでは身分が違いすぎる。しかし「男」は優しい心遣いを示した。「女」は事情が分かっているが、とても悲しいのだ。荘園主の子息と荘官の娘の恋!


★こもり江

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート