怒号が飛ぶ中、山健組事務所に家宅捜索に入る大阪府警の捜査員ら=9月9日

  怒号が飛ぶ中、山健組事務所に家宅捜索に入る大阪府警の捜査員ら=9月9日

 

 30年前の9月、神戸は「ユニバーシアード休戦」と呼ばれた時期にあった。

昭和60年8月24日から9月4日まで夏季ユニバーシアード神戸大会が開催された。

学生の国際総合競技大会の期間中、何が「休戦」していたのかといえば、

史上最悪の暴力団抗争・山一抗争である。

 

 大げさな言葉を思い出したのは、国内最大の指定暴力団山口組(総本部・神戸市

灘区)が先月末に分裂したためだ。山口組は大会開催前年の59年にも割れている。

田岡一雄3代目組長の跡目をめぐって内部分裂を起こし、山口組を飛び出した

勢力が一和会を結成した。2つの組織は共存せず、この年の夏、抗争が勃発した。

 

 暴力団同士の対立には抗争が付きものだという考え方が、当時の世間にはあった

気がしてならない。そうでなければ、苦肉の策とはいえ、一時停止にすぎない

「休戦」などという言葉がまかり通ることもなかっただろう。事実、2カ月ほどの

休戦期間が過ぎると抗争は再開した。昭和が終わり、平成を迎えるまで続いた

山一抗争は、死者25人、一般市民や警察官も含め負傷者70人以上を出した。

 

 今年、結成100年の山口組は再び分裂した。

だが、30年前とは暴力団そのものも、取り巻く環境も、時代も変わっている。

かつてのように暴力団の論理で抗争を始めさせてはならない。

“山一” とは状況異なる

 今回の分裂は、弘道会(名古屋市)出身の6代目、篠田建市(通称・司忍)

組長らの組織運営への不満、弘道会中心のいわゆる名古屋支配に対し、

保守本流を自任する山健組(神戸市)らが反発したことによる。

山健組を中心とする勢力は「神戸山口組」を新たに組織した。

 

 山一抗争の時代と、現在の状況が異なるのは、法律や条例が暴力団を

縛っている点だ。平成4年に施行された暴力団対策法は、指定暴力団に対し、

みかじめ料の要求などに令状なしで中止命令を出すことができるほか、

抗争が起きれば事務所の使用を制限することもできる。さらに、23年には

暴力団に利益供与する企業や市民も罰する暴力団排除条例が全国で出そろった。

組員は銀行口座も開けないなど資金獲得に打撃を与えている。

暴対法と暴排条例は、主に資金面から暴力団を包囲しているといってもよいだろう。

だが、暴力団の論理は時として、それを簡単に破る。

暴対法施行から5年が経過した9年8月、新神戸駅近くのホテルの喫茶ラウンジで

白昼堂々、山口組の宅見勝若頭(当時)が射殺された。内部抗争による事件で、

ラウンジに居合わせた歯科医師の男性が巻き添えで命を落とした。

 

 筆者は当時、神戸で取材にあたった。この8月初めに神戸連続児童殺傷事件で

逮捕された「少年A」の精神鑑定の観護措置が決まり、一連の報道が一段落した

時期だった。射殺現場は新幹線の神戸の玄関口で、多くの利用客が行き交うだけに「ここで撃つのか、暴力団は」と感じたことを今も覚えている。

 

封じ込めの有効手段は

では、暴力団抗争を封じる有効な手立てはないのだろうか。

 

 抗争に二の足を踏ませ、末端組員に鉄砲玉になることを躊(ちゅう)躇(ちょ)

させる法律がある。一つは20年の改正暴対法で、抗争事件での巻き添えだけでなく、末端組員の犯罪でも、組織の代表者(組長)に使用者責任を負わせられるように

なった。そして、もう一つが組織犯罪処罰法(12年施行)だ。

 

 実際、25年7月のさいたま地裁の裁判員裁判では、暴力団抗争をめぐる報復の

ため、組員らと共謀して対立組織の幹部を射殺したとして、同法の組織的殺人の

罪に問われた山口組直系組長が、無期懲役、罰金3千万円を言い渡されている。

判決理由では「団体の威信を維持するための組織的な犯行で、

被告が意思決定者であり、主犯であることは明らか」とされた。

 

 この地裁判決は、抗争における組員の凶行が、組長をも厳刑に追い込むことを

知らしめた。こうした事例を踏まえ、警察にはあらゆる法令を駆使して

暴力団の取り締まりにあたることが求められる。

警察は信頼裏切るな

 前述の判決などを踏まえ、今回の山口組の分裂について「山一抗争のような

事態に陥る可能性は極めて低い」と指摘する捜査関係者は少なくない。

ただ、巨大組織の分裂は、余波も当然大きい。簡単に線引きができない資金獲得

活動の現場では、争いが生じることも予想される。山口組に次ぐ規模の住吉会、

稲川会(ともに東京)の動向も不透明さが漂う。

 

 分裂を受け、早速、大阪府警、埼玉県警が相次いで山健組の家宅捜索に入った。

警察当局は山口組、神戸山口組の双方に攻勢をかけている。

だが、前後して、大阪府警では集団強姦、埼玉県警では殺人という言語道断の

警察官の犯罪が発覚した。繰り返すが、暴力団抗争におびえる一般市民が頼れるのは警察だけだ。改めてその自覚を持ち、社会の信頼と期待に応えて欲しい。

(社会部次長 山田智章)

【補足】

「中野太郎」死から1カ月 長男が語っていた脳梗塞、

最側近が明かす「宅見若頭襲撃事件」

 

       中野会長は極端に写真を嫌っていた。右が竹垣氏

 

物欲も出世欲もなく

宅見若頭銃撃の総指揮を採った吉野和利中野会風紀委員

      宅見若頭銃撃の総指揮を採った吉野和利中野会風紀委員

 

 中野元会長自身、渡辺5代目の最側近を自認していたわけだが、

では、宅見若頭銃撃は実際どうだったのか?

「親分(中野元会長)は酒飲んだらワケがわからなくなるタイプで、ある酒の席で、中野会風紀委員の吉野和利と一緒にいる時に、“宅見を殺せ”と言ったのが真相では

ないでしょうか。その吉野が総指揮者となって、宅見若頭は銃撃されました。

親分はなんでそんなこと言うたんかなぁと思ってしまいますね。親分は物欲も出世

欲もなく、カネにもそこまで執着しない人間で、男の中の男だっただけに残念です。酒が入ってよくわからないまま口走ったことが、独り歩きして実行されてしまった

のか……。所属する組織のさらに上部の組織のナンバー2を “殺れ” というのは

いくらなんでも筋道が通らない。筋道を外したらヤクザの世界は成り立たないし、

そんなことくらい親分がわからないはずがない。酒が悔やまれます」

 

 若頭銃撃の約1年前には、中野元会長が行きつけの理髪店にいるところを、

会津小鉄会系の組員に銃撃されている。

「そのとき中野会若頭補佐の高山博武が店の内から、店の外からは私の舎弟・梁瀬

利治がそれぞれチャカを持って警戒していました。襲撃してきた相手2人をちょうど

挟み撃ちのような格好にして射殺し、親分(中野元会長)にケガはなかった。

京都駅の再開発で中野会と会津小鉄会とがぶつかっていて、それが事件の原因かなと思っています。この一件は宅見若頭が親分をすっ飛ばして会津小鉄側と手打ちをし、そのことに親分がひどく怒っていたという話もありますが、実態は判然としません」

 

右から順に、山下重雄若頭、井奥文夫会長代行、中野太郎会長、1人置いて、竹垣氏

右から順に、山下重雄若頭、井奥文夫会長代行、中野太郎会長、1人置いて、竹垣氏

 

九州を転々と

 

 中野元会長の晩年については、前妻の息子にあたる長男が竹垣氏に

明かしてくれたことがあったと言う。

「私とご長男は小さい頃からなじみで、私が中野会に在籍していた頃には、

家族でよく私の地元・姫路に遊びに来たものでした。彼はカタギとして暮らし、

私が中野会から古川組に移籍してからはしばらく音信が途絶えていたものの、

2019年になってFacebookを通じておよそ20年ぶりに交流が再開したんです」

 

 その年の7月、長男と再会したという。

「中野元会長は2003年1月に脳梗塞で倒れ、05年に引退し、しばらく大阪に住んだ後、福岡県の門司に移り、以降は九州を転々としていたようです。ちょうど2011年

ごろに死亡説が流れ、京都で暮らす長男のところにも“亡くなったのか?”という問い合わせがあり、中野元会長の後妻に長男が尋ねたところ、“そんなことはない”ということだったので、大分県の別府にいる中野元会長に会いに行くことにしたそうです」

 

右は、中野会長が理髪店で銃撃された際、ボディーガードとして居合わせた高山博武若頭補佐

右は、中野会長が理髪店で銃撃された際、ボディーガードとして

居合わせた高山博武若頭補佐

 

 思いのほか元気ではあったが、脳梗塞の後遺症なのか記憶障害が出ていた。

「長男曰く、『私が息子であることを認識してはいるのですが、話の途中で“誰?”と聞かれることが度々ありました。それでも調子が良いときにはまだ充分会話が

できたのです』ということでした。それが、13年に大分県の湯布院に移った頃には、息子かどうかが誰なのかもわからなくなり、言葉も不自由になり、『時々思い出したように、おー、おーと、うなることがあった』ということでした。怒っているように見えたが、表情から察すると、それは何かの意思表示だったと。ご長男は19年6月にも同じく湯布院に中野元会長を訪ねていると話していましたが、病状は改善する

ことはなかったそうです。ヤクザの最期は寂しいことが少なくないけれど、

親分はよりいっそう寂しい感じがします」

 

デイリー新潮取材班  2021年2月9日掲載

 

一切関与しなかった司6代目 

「遺体で見つかった組員には中野会から逃走資金が出ていたと見られます。

中野会は2005年8月に解散していますから、それに伴って資金が途絶え、

万事休すということになったのでしょう」(同)

 

 中野会長襲撃から宅見若頭射殺に至る5代目山口組内の水面下の動きは、

様々に語られてきた。

「宅見若頭一派が中野会長を看過し難いほど煙たく思うようになっていたのでしょう。それを察して中野会長が動いたということです。渡辺5代目をおろし、桑田若頭

補佐を6代目に据え、宅見若頭は総裁に就任し、院政を敷くプランが一時期検討されていたというのが定説になりつつあります。そういった構想に一切関与していなかったのが司忍6代目で、それも6代目の座を射止めた理由の一つなのだと思います」(同)

 

 当事者の思惑はさておいて、一般人に被害が及ぶような事件が許されないのは

言うまでもない。 デイリー新潮編集部

 

1997年の宅見組長狙撃事件

宅見組で思い出すのは、私の世代では1997年8月の宅見組長狙撃事件です。

ホテルのラウンジで昼食中の宅見組長(山口組若頭)が銃撃されわけですが、

隣のテーブルに座っていた歯科医師が巻き添えになりました。

山口組では若頭がナンバー2です。

1970年 大阪移転、宅見組を名乗る
1977年 宅見組長が3代目山口組直参に
1984年 4代目山口組発足、宅見組長が若頭補佐に就任
1989年 5代目山口組発足、宅見組長が若頭に就任
1997年 宅見組長が神戸のホテルで狙撃、2代目に入江組長就任
2005年 6代目山口組発足、入江組長が総本部長に就任
2013年 入江組長が山口組総本部長を辞任、舎弟頭に
2015年 6代目山口組を離脱、神戸山口組の副組長に就任

スクロールできます

▲宅見組

 

 思えば、入江組長が山口組ナンバー3とされる総本部長を辞任したあたりから、

今に至る抗争が始まっているわけです。宅見組については、千日前の本部事務所を

売却しようとしているとか、幹部が大量離脱したとかという話があります。

 

山口組は若頭がNO.2だから、即座に「副組長なら要らん。頭でいい」

言った宅見勝若頭の言葉の意味が分かりました ニコニコ

 

事件発生まで

 

1997年(平成9年)7月、当時の中野会若頭補佐の吉野和利が総指揮をとり、

東京都大阪府の中野会傘下組織から、宅見の動向を探るための偵察部隊と襲撃するための襲撃部隊をそれぞれ選抜した。当初の計画では東京で宅見を襲撃する予定

だったが、居場所が掴めずに断念し、後日大阪で襲撃することになった。

その後、同年8月27日に宅見が大阪市内のホテルを訪問することがわかったが、

その場には中野も同席することがわかったため、またも襲撃は見合わされた。

一方の宅見は翌8月28日、山口組の他の最高幹部2人・岸本才三総本部長(当時、

後に最高顧問野上哲男副本部長(当時、後に最高顧問)と共に昼食を摂るため、JR新神戸駅に隣接する新神戸オリエンタルホテル(現・ANAクラウンプラザホテル

神戸)のティーラウンジに向かった。

 

宅見若頭射殺事件

 

 8月28日午後3時20分ごろ、宅見・岸本・野上の3人は、ティーラウンジの一番奥

まったテーブルに着いた。その直後、襲撃犯が38口径と45口径の拳銃で宅見を銃撃

した。宅見は7発の銃弾を受け、救急車神戸市立中央病院に緊急搬送されたが、

約1時間後の午後4時32分に同病院で死亡した。

宅見と同席していた岸本・野上の2人は無事であった。

襲撃の際、ラウンジの隣のテーブルに座っていた歯科医師の男性が流れ弾に

当たって負傷し、病院へ運ばれたが、事件から6日後の9月3日に死亡した。

 

 

この事件には謎が多い!

この計画が本当なら、なぜ前日に中野組長と一緒なのが分からなかったのが不思議物申すそして、当日も先日同様、(大阪、神戸の)ホテルのラウンジで宅見若頭を

狙ったのか? あんな場所で、市民がいているのは分かっていてムキー おばあちゃん パンチ!パンチ! 星

 

この被害者の遺族のコメントを探したんですが、見当たらない。

昨日、見たと思ったんですが、勘違いなのかな?

 

このブログを書いている最中、私の胃の付近であの子の母親が変なことを言ってきたので二度と言ってこないで!気味が悪い。後ろに憑かないで プンプン パンチ!パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうぼざいます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート