山田邦子「ひょうきん」時代月収1億円 2015.11.23 デイリー 

 

 お笑いタレントの渡辺正行と山田邦子が22日、カンテレ系のバラエティー番組

「お笑いワイドショー マルコポロリ!」に出演し、フジテレビ「おれたち

ひょうきん族」時代の収入を明らかにした。

山田は手渡しで紙袋に入った1億円を受け取ったという。

 

 渡辺は当時、「ひょうきん族」や「笑っていいとも」など、レギュラー番組は

週に16本を抱える超売れっ子だった。ある日、「いったい、幾らもらっているんだ

ろう」と疑問に思い、通帳を確認すると優に億を超える数字が並んでいた。しかし、「使う暇はないし、こんなにあっても」とさしたる感動もなかったという。

 

 原付に乗っていたある日、高級車に乗ることをすすめられ、約1000万円のベンツとポルシェを立て続けに買うこともあった。また、せんだみつおからすすめられて

1億8000万の家を買ったという。山田は週に14本を持つ同じく超売れっ子。

ゴールデンタイムで冠番組を持ち、全局制覇もなしとげた。

当時、月給は手渡しで、事務所から「はい、今月分」と紙袋に入った1億円を

受け取った。その袋を抱えたまま後輩たちと夜の街へ繰り出したという。

また、収録後に共演者やスタッフを引き連れて高級店でかに料理を食べに行き、

総額200万円を支払ったこともあったという。たまに4連休があるとファースト

クラスでニューヨークを往復し、現地でヘリをチャーターしてマンハッタンの

夜景を楽しんだという。

 

 34歳のころ、東京都内に135坪の自宅を購入しようと銀行に融資を申し込んだ

ものの断られたという。しかし、大河ドラマへの出演が決まるいなや、

銀行側は手のひらを返して「お借りください」と頭を下げてきたという。

結果、東京・四ッ谷に8億円豪邸を建てた。

 

この当時、漫才ブームでB&Bさんの島田洋七さんがTVで、給料は手渡しだったので

ダンボール箱に入れて、押し入れに入れているのを忘れていた。

ある日、奥さんが押し入れに入っているダンボールを見つけ、中を見て驚いたと

同時にこれ本物?と思ったと言ってました。旦那さんに聞くと、「使う時間がなく、

押し入れにいれていた」と。それも何箱もあったと言ってました びっくり

 

それにしても漫才ブームとバブル景気もあって、派手に使っていたんですね 笑ううさぎ パンチ!パンチ!

 

 

下積みゼロから瞬く間にスターダムへ。一転、借金22億円を抱えても折れない山田邦子が見たお笑いの世界

配信 Yahoo!ニュース オリジナル 特集

撮影:柴田フミコ

 

 レギュラー週14本、好感度ランキング8年連続1位。テレビに出れば高視聴率を獲得し、本を出せばベストセラー。1980年代後半から90年代初頭、日本がバブル景気に

浮かれるなか、それまで男性社会だったお笑いでひとつの時代をつくった唯一の女性タレントがいた。彼女の名は山田邦子。60歳を過ぎた現在もなお、YouTubeなど

飽くなき挑戦を続け、彼女が最も輝いた90年代を知らないZ世代からも再び熱い視線を浴びている。いいときもあれば、そうでないときもある。つらいことを乗り越えてきた山田の “順番こ” 理論に迫る。(取材・文:キンマサタカ/撮影:柴田フミコ/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

 

下積みはなく一気にスターダムへ

撮影:柴田フミコ

 

 お嬢様学校で過ごした山田邦子が芸能界入りしたのは1981年のことだった。

近所でも有名なひょうきん娘だったが、素人参加番組に出たところ、あれよあれよという間に勝ち進み、一気にスターダムを駆け上がった。 「それまでお笑いタレントといえば、漫才出身者がほとんど。そこに、ポッと現れた素人、それも女性でしたから珍しかったんでしょう」 かつてない経路で人気者になった山田に、テレビは一斉に

飛びついた。そして、歯に衣着せぬ発言に、ブラウン管の中の大人たちを面食らわせると同時に、お茶の間は喝采を送った。どんな相手でも臆せずズカズカ踏み込み距離を縮めていく姿は、しきたりが重視される世界で異彩を放った。「今でいうフワちゃんのような態度だったのでしょう」と山田は振り返る。 「私みたいな失礼な人間は

いなかったですよ。誰かの元で修業をしたわけでも、師弟関係があるわけでもない

から、どこの現場に行っても『 あんた誰? 偉い人なの?』って態度でした。

偉そうにねえ(笑)」 顔をしかめる大人も多かった。だが、売れっ子たちの多くは

山田のことを面白がった。お笑いの現場に珍しい若い女性ということも大きかったに違いない。多様なジャンルの先輩にかわいがられ、バラエティーにドラマにと声が

かかった。だがお笑い芸人の立場は低かった。 

「俳優がいて、歌手がいて、お笑いなんて芸能界で最も下の扱いでした」

だが、お笑いブームの到来とともに、自分たちの地位がだんだんと向上していくのを感じた。1980年にフジテレビでスタートした漫才番組が若者を明確なターゲットに

据え、人気と数字を獲得。お笑いブームに一気に火がついた。 「フジテレビの

『 THE MANZAI 』からじゃないかしらね、街中でキャーッて言われるようになったのは。お笑いを見たいという人がどんどん増えて、私はちゃっかりその波に乗ったんです」 お笑いブームはお茶の間に、お笑いとお笑い芸人を根づかせ、それはやがて

『 俺たちひょうきん族 』などのお化け番組の誕生へとつながっていった。

 「一番お世話になったのは同じ事務所だった(ビート)たけしさんですかね。

よく見ると、変な顔してんですよ(笑)。だけど、何とも格好良く見えちゃう、

ずるいよね。そして常に私たちの先を行っちゃう。さんまさんはもうハンサムで

優しいからみんな好きでしたよ。タモリさんには行きつけのバーが同じで、酔っ払っておんぶしてもらったことあります。みんな普段から優しかったな」 3人といると、山田はいつも楽しかった。おしゃべりな山田も、彼らといるときは聞き役に徹した。あの頃はとにかく毎日が楽しかった記憶しかないと笑う。 「ディズニーランドもない時代だったけど、きっと自分たちがディズニーランドだったのよね」 3人と会う機会はほとんどなくなったが、世界の北野とは今でも手紙での交流が続いているという。

 

22億円の借金とその返済

撮影:柴田フミコ

 

 山田が最も輝きを放っていたのは20代から30代にかけてだろう。各局で冠番組を持ち、多くのテレビ局には専用の仮眠室もあったとか。 「当時はお給料の手渡し時代。事務所で1億円ぐらい入った紙袋をもらって、そのまま街に飲みにいってましたね」 収入には恵まれていたはずの山田だが、意外にも「借金」に苦しめられたという。 「29歳ぐらいの時に、家族が節税対策で子会社を作ったのよ。その会社で不動産

やらを始めたの。そうすると、私がいくら稼いでも、すぐに投資に回されちゃう。

だから、働いていても全然楽しくないの。借金ができて、私ががむしゃらに働く。

返済すると、さらに大きな借金をする。いつも『 お金がない 』と言われ続けるのが

本当に苦しくてね」 周囲の人たちが幸せになるならと歯を食いしばって仕事を続けた山田だったが、精神は限界を迎えつつあった。借金を全部返して楽になりたいと懇願して会社を解散。最終的に2年かけて返済した借入金は22億円にのぼったという。

 

  「ときどき思うの。あの時どれだけ辛くても周囲の人たちのアドバイスを聞いて

いれば、大企業になっていたかもしれない。きっと私は小さな人間なんでしょうね。でも、こうなって良かったと思ってます。今は働くことが気持ちいいですよ。これ

だけ働いたからこれが買えたんだという達成感が、やりがいにつながっています」

 

自分は何者なのかという問い

撮影:柴田フミコ

 

 下積みがなくいきなり超売れっ子になった山田は、常に孤独と隣り合わせだった。

たけしにもさんまにも師匠がいた。「BIG3」と一緒に走り続ける山田には、心から

頼るべき存在がいなかった。 女性バラエティータレントの先駆者として批判を浴びることもあった。 「それもしょうがないと思ってましたよ。私はそれまで誰もやって

ないことをやっていこうと思ってたんだから。何だこいつという周囲の目には、

小さい頃から慣れていたから」 最高でレギュラー14本、隔週を入れると17本。

誰よりも多くの冠番組を持ち、一つの時代をつくった山田の活躍は多くの人の記憶に刻まれた。だが、時は流れ、出演番組が次々と終わり、第一線で走り続ける日々からは少し距離を置いた。それでも山田の脳裏から、面白いことをしたい、人を笑わせたいという気持ちが絶えることはなかったと振り返る。念願の寄席の板を踏むことも

できた。 「結局、人を笑わせるのが好きなのよ。勇気を出して出たいんですって言ったら、どうぞどうぞって」 念願の寄席の舞台に立ったのが、2年前のこと。その時の感慨は忘れられない。同時に一つの疑問にも直面した。 「出演者には、コント山口君と竹田君とか、漫才=おぼん・こぼんとか、やっぱり冠があるわけですよね。

そのとき、自分は何者なんだろうって悩んでしまったんです」

 

撮影:柴田フミコ

 

 自分という人間を一言で表すのなら、「タレント」がしっくりくるだろう。だが、一芸を持つ「芸人」が集まる寄席の場に、定義が曖昧な「タレント」として立つのは違うと感じていた。では自分は何者なのだろう。 「そうしたら主催の方が、ご存じ・山田邦子って書いてくれたの。それがすごくうれしくてね。私がバスガイドさんの

モノマネで芸能界デビューしたのも知らない方が増えているって聞いて、今は『 ものまね漫談 』という肩書がつきました。とてもいいでしょう」 お笑い以外にも活躍の

幅を広げている。 「2007年に乳がんになった経験を生かして、講演をすることも

多いんです。難しい話なんてできないから、まあ、漫談よ。あはは」 1000人を相手に90分間しゃべり倒す。その間、会場は爆笑の連続。彼女はマイク一本で勝負できる唯一無二の女性芸人と言っていいかもしれない。 「私もそう思いますよ。でも、終わるとヘトヘト。もう62歳だもん。あと18年で80歳だってさ。びっくりしちゃうね」

 

面白いと思い続けること

撮影:柴田フミコ

 

 還暦を超え、まだまだ精力的に活動を続ける山田の原動力は、面白いことへの

貪欲さだ。 「人間の持ついろんな感情の中でも、やっぱり『面白い』が一番好き。

自分も面白くありたいし、面白い人と一緒にいたい」 面白さのためなら、すべてを

武器にしてきたという自覚がある。ウケるためなら、変なメイクをしたり、丸坊主にだってした。山田がテレビをジャックしていた当時は、芸人が見た目を揶揄され

笑いをとってなんぼの時代でもあった。 「今は駄目なんだってね。いいじゃんね。

キャラクターであり個性なんだから。自分も面白がればいいのよ。あだ名なんかも

面白いね。そういえば私、メスゴリラって言われたことあるわ」 メスゴリラと揶揄された次の瞬間、山田の出した答えは、胸をたたいて「ウホホ!」とやることだった。言った相手も、周囲もみんな爆笑したという。 「反射神経でしょうね。そりゃ私だってメスゴリラなんて言われたらクソって思いましたよ。でも、人生が全部笑いに

直結してるの。だって笑いにしたほうが楽しいでしょう。もし自分が嫌だと思ったらそう言えばいい。我慢はしなくていい」

 

今日の衣装は『水曜日のダウンタウン』(TBS系)の「しんどい先輩芸人」の回で

話題となった、後輩芸人のアントニーが選んでくれたものだとか(撮影:柴田フミコ)

 

 逆に苦手なのは、しんみりするシーンや、真面目な会議、そしてお葬式。

 「(上島)竜ちゃんのことは悲しかったね。お葬式にどうしても出られなくて、

式が始まる1時間前に手を合わせに行ったんです。まるで寝てるようだから、『竜ちゃん、竜ちゃん』って何度も呼んだけど、やっぱり起きなかった。最初はずいぶん似合わないことしたなと思ったけど、『 違うな、これはおっちょこちょいだな 』と思ったの。竜ちゃんらしいなって」 山田邦子は元気が取りえ。そう言われ続けてきた。

だから、みんなが山田に元気をもらいにくる。人に与えてばかりの山田は元気を

どうチャージしているのか。 「元気はなかなかやってこないですよ。自分の中から

ひねり出さないと」 目が覚めたら丹田と呼ばれる腹部の真ん中を押し、深呼吸。

そうしてスイッチを入れる。自分にエナジーと活を入れてから一日を始める。

「疲れたなと思ったら、おいしいものを食べてリラックス。あとは寝なきゃ駄目

だね。忙しい時に睡眠が足りなくなると、要らないこともどんどんどんどん考え

ちゃうから。そして夜は難しいことを考えない。暗闇の中で落ち込んだら引っ張ら

れるから。朝になってまだその話の続きを覚えていたら、そのとき考えればいい」

 

人生のイベントは順番こにやってくる

撮影:柴田フミコ

 

 最近の楽しみは2020年から始めたYouTubeの更新だ。10代から20代前半の若い

スタッフと一緒に動画を作り上げる作業が楽しいという。 「彼らは私のことも知らなかったし、中森明菜もYouTubeで知ってファンになったって言うんだよ。若い人たちだってセンスのいい子はいるんですよ」 YouTube全盛の時代を山田は歓迎している。山田の若い頃を彷彿とさせるように、「勘違いした」素人や若手芸人がチャンネルを持ち、どんどんどんどん人気者になっていく。スターが足元から生まれていく。 

若手の子たちが自由にやってるのは楽しそうだし、刺激をもらってます」 負けじと動画を投稿する。アンチコメントにも真摯に対応する。 「死ね、老害とか書かれますよ。そんなときは『 おばあちゃんだからごめんなさい。ご指導くださいね 』って

コメントを返してます」 昔から、逆風は受け流してきた。

 

撮影:柴田フミコ

 

「昭和の時代は、『女なのに生意気だ』とか普通に言われたからね。『なんで結婚しないの?』って道歩いてる知らない人にも言われたし、結婚したら『ブスなくせに』と言われる。だからさ、気にしても仕方ないんです」 その半面、心のこもった温かいコメントをもらえると活力になる。ファンの声が山田のやる気に火をつける。

そして、元気がない時は少し立ち止まることも大事だという。 「落ち込んで寝られ

ない日が何日も続くようであればおかしいよ。小さな世界にはまっちゃってるのね。たとえば、大好きな人に振られて、『死にたい』と思うこともあるでしょう。もし

私が横にいたら、『あなたにそこまで想われて本当に素晴らしい人だったんだね』と言うと思う」 そして、いつか時が解決してくれたら、先に進んだらどうでしょうと。

人生にはいろんなことがある。「誰にだっていろいろあるんですよ」と山田は静かに笑う。 「嫌なことや辛いことは、心の中のすごくいい位置にいてさ、やたら目立つんだよね。でも、それって順番こだから大丈夫。嫌なこともあれば、良いこともある。嫌なことが来たら、次に良いことがあるぞと思えば、もう楽しくなっちゃいますよ。気分が下がった?よし大きな前フリが来たぞ。楽しい時代がまもなく来るぞってね。そういう風に考えましょう。そっちのほうがきっと楽しいよ」 山田邦子 1960年

生まれ。東京都出身。短大卒業後に数々のバラエティー番組に出演し人気者に。

88年から8年連続でNHKの「好きなタレント調査」1位に輝く。

2020年2月にYouTubeチャンネル「山田邦子 クニチャンネル」を開設。

 

 

邦ちゃんのことは、若い時からTVを観ていたので知っていましたが・・・。

借金が22億円もあったなんて知りまでんでした。

そして、その借金を2~3年で完済したとは、馬車馬のように働いたんですね 汗うさぎ おばあちゃん

 

モノマネ番組で、明菜さんのTATOOを歌っているのを覚えています。

赤のスパンコールの衣装で踊っていたのを 爆  笑 音譜

 

 

山田邦子、一時は22億円の負債も…約3年で完済 

「それは働きましたもん」[2024年4月13日18時30分] 日刊スポーツ

タレント山田邦子(63)が、13日放送のカンテレ「ドっとコネクト」(土曜午前11時20分)に出演。過去に巨額の負債を抱え、3年ほどで完済したことについて語った。

 

この日の番組では、ドジャース大谷翔平選手(29)の元通訳、水原一平容疑者(39)が違法スポーツ賭博で借金を抱えて大谷選手の口座から送金したとされる問題で、

水原容疑者が訴追されたことについて取り上げた。水原容疑者は、大谷選手の口座

から総額1600万ドル(約24億円)以上を送金していたことも報じられている。

ここから、山田が過去に約22億円の負債を抱えていたという話題に及んだ。

 

 山田はかつて、節税のために家族とともに会社を設立。「私は本当に分かん

ないんで、お金のことが」と、資金の運用を家族に任せていたという。

人気絶頂の山田はかなりの収入があったはずだが、なぜか赤字続きとなり

「もう苦しくて、時計も買えないし、車を買う時もいちいち文句言われるし。

『一体いくらあるんだ』って(調べると)、借金が22億あるんですよ」と、

家族の投資の失敗などで負債が膨らんでいたことを知った。

そこで「1回(会社を)解散して、全部払わせてくれって言って、全部払いました。

3年ぐらいかな?」と、22億円の負債を約3年で完済。「もったいなかったね。

その時に専門家を入れて立て直して運用していけば、私はもうちょっと大金持ち

だったかもしれない」と振り返ると、「すごいさっぱりした。今、何にも借金が

ないんで」と語る。

 

 MCの石井亮次アナウンサー(47)が「2年とか3年で、どうやって22億も返したんですか?」と改めて聞くと、山田は「体、壊しましたよ…それは働きましたもん。CMも、だいたい大きいコマーシャルはほとんどやらせていただいたんじゃないかしら」と、テレビ番組やCMの出演料で返済したことを明かしていた。

 

今は、この教訓を生かして、専門家にお金の管理を任せたり、

自分でお金を管理、把握しているんでしょうね ニコニコ

 

こういう時に、手を差し伸べてくれる人に感謝ですね。

大手会社のCMや広告代理店やスタッフに 照れ おばあちゃん 虹

 

 

「山田邦子の「がん再発」の真相と、22億円の借金の実態に衝撃を受ける… 『お笑い』で知られるタレントがアイドルとの「肉体関係」に関する正体に驚く」 

 

※出典:山田邦子の“がん再発”といわれる真相…22億円の借金の実態に言葉を失う…「お笑い」で

有名なタレントが“肉体関係”にあったアイドルの正体に驚きを隠せない…/日刊ウルトラ芸能(https://www.youtube.com/watch?v=KIfzSNQl6fc)

お笑いでおなじみの山田邦子さん、山田邦子のガサ発の深層22億円の借金の実態に

ついて紹介します。山田邦子さんの経歴とプロフィールから紹介します。

 

山田邦子の経歴とプロフィール

山田邦子さんは、1960年6月13日生まれで、東京都出身のタレントです。

B型でアスリートマーケティングに所属しています。1981年にデビューし、89年からはTBSの山田かつてないテレビや95年からは、山田邦子の幸せにしてよなどの番組を持ち、ピン芸人としても注目されました。1981年には、ドラマ野村病院物語で俳優

デビューし、映画やドラマ、舞台、ラジオDJ、小説執筆などでも活躍しています。00年に結婚し、07年3月には癌を患いましたが、08年4月に術後発となるミュージカル『アニー』に出演しました。現在は50歳で芸能生活30周年を迎えています。

山田邦子の癌発覚と闘病生活

山田邦子さんは、2007年にTBSの番組で癌が見つかり、手術を受けました。

しかし、再発の不安は絶えず心に残り、家庭や友達にも言えないことがたくさん

出てきました。テレビ番組でガンを告白したことで、再発への恐怖が消えることは

ありませんでした。放射線治療が始まる前に、自分が乳房の手術を受けたことを

公表することにした山田邦子さんは、プロデューサーの驚きを受けましたが、

即座に了承しました。癌発覚後は、食事にも気を使うようになり、

バランスの良い食事の大切さを感じるようになりました。

山田邦子の不倫スキャンダル

1995年に山田邦子さんの不倫スキャンダルが発覚し、世間の風向きが急変しました。当時、交際相の後藤史郎さんは既婚者であり、不倫関係が明らかになったことで

山田さんの好感度は急落しました。特に芸能レポーターの井上公造さんとの

暴言トラブルが報じられ、山田さんは一気に批判を浴びることになりました。

【捕捉】

不倫スキャンダルとリポーター罵倒騒動

もともと人気に陰りが見え始めていた山田邦子さんでしたが、干された一番の理由は不倫報道でした。1995年に写真週刊誌『FOCUS』で妻子持ちの男性との

不倫報道が掲載されたのです。

世間には「いいイメージを裏切られた」と感じた人が多かったことでしょう。

また、不倫が明るみに出たことで報道陣に追い回されるようになった山田邦子さん。

かなりのストレスが溜まっていたのでしょう、ある日、芸能レポーター・

井上公造さんに対し暴言を吐いてしまうのです。

「お前、もてないだろう」「バカじゃないの」

この罵倒シーンは、大々的にワイドショーに取り上げられました。
見る側からすれば、彼女の明るく楽しいイメージが完全に崩壊した瞬間ですよね。

当然のように世間からの支持は急落、1988年から8年連続首位をキープしていた

「好きなタレントNo1」も下降の一途をたどることに。

ちなみに、この時の不倫相手とは制作プロダクション・ゴッズダイナミックワールド社長の後藤史郎さん。現在の山田邦子さんの夫です。

 

2人は2000年に不倫愛を実らせ結婚しますが、不倫略奪婚にも関わらず

芸能界から招待客を招いて堂々と挙式。

そういう常識外れな行為も、世間のひんしゅくを買う結果に繋がったようです。

最近でも、不倫発覚で表舞台から消えた芸能人は結構いますが、

かつての山田邦子さんもそうだったのですね。

 

この時、ワイドショーを観ていました。邦ちゃんが帰国し、空港でレポーターが

待ち構えていて、公造さんが言ったのに対して、この言葉を言ったと思います。

「ちゃんと調べて言っているのか?」と言った記憶がありますが・・・物申す パンチ!パンチ!

 

態度が悪く業界内で反感を買った

山田さんがテレビから消えた理由として、わがまま放題な態度が業界内で

不評だったという見方もあります。

人気絶頂の頃「女帝」としてテレビ業界に君臨した山田邦子さん。

性格が悪いタレントの代表ともいわれ、業界にはバッシングを受けだした

彼女に手を差し伸べる人物はいなかったといいます。

自身の振る舞いが原因で業界で居場所をなくしていった彼女。

一番サポートしてくれるはずの所属事務所さえも、「山田さんのマネジメントに

情熱を持てなくなっていったのでは」といわれています。

ちなみに、最近の山田邦子さんは、かつての悪評が嘘のように

物腰が柔らかいと評判がいいのだとか。かつて自業自得で干された過去を反省し、

気持ちを改めたということなのでしょうか。

 

山田邦子の嫌いな3芸人

山田邦子さんは、2020年週刊誌の取材で「嫌いな3芸人」を実名で明かしたことが

あります。一体どんな方の名前が挙がったのか気になりますよね。

 

嫌いな芸人1人目は横山やすしさん。

理由は、突然面と向かって暴言を吐かれたことがあるからといいます。

山田さんが人気絶頂だった頃のこと。

大阪の番組のメイク室にいたところに、いきなり横山さんが入ってきて、

次のように言われたそう。

『ぶっ殺したるわ、お前なんか!』

横山さんとしては、大阪のテレビにまで山田さんが進出してきたことが、

よほど気に入らなかったのでしょうね。

 

2人目は、元所属事務所・太田プロの後輩芸人である有吉弘行さん。

なんでも山田さんが事務所を辞める時「根性なし」とかみついてきたそう。

“そんなことをお前に言われる筋合いはないんだよ!”

後輩にそんな口を利かれるとは。たしかに腹が立って嫌いになるかもしれませんね。

最後に嫌いな芸人として、名前が挙がったのは田代まさしさん。

田代さんは、これまでに何度も麻薬がらみで逮捕されていますよね。

2人はかつて、同じ番組のメンバーとして何度も一緒に仕事をした仲。

昔の仕事仲間のよしみで、彼が復帰するたに応援したいと思うのに、

田代さんは性懲りもなく同じ過ちを繰り返します。


そんな姿を見て、山田さんとしては、信頼や期待を裏切られたようで

辛いのでしょうね。

これは、全面的に田代さんが悪いですし、世間も納得の理由でしょう。

山田邦子さんの嫌いな芸人3人、横山さん・有吉さんに関しては双方に言い分は

あるのでしょうが、彼女の立場になって考えると理解できなくもありませんね。

 

この3人が言った言葉は、本意じゃなく言わされたんでしょう プンプン パンチ!パンチ!

山田邦子の現在

現在の山田邦子さんは癌の公表や闘病生活を通じて、癌撲滅のためのチャリティ

イベントなども行っています。子供はいませんが、数々の番組を通じて日本中の

子供たちに元気や笑いを届けていたことは間違いありません。

参考:山田邦子の“がん再発”といわれる真相…22億円の借金の実態に言葉を失う…「お笑い」で有名なタレントが“肉体関係”にあったアイドルの正体に驚きを隠せない…/YouTube「日刊ウルトラ芸能」(https://www.youtube.com/watch?v=KIfzSNQl6fc)

 

【動画】山田邦子の“がん再発”といわれる真相…22億円の借金の実態に言葉を失う…「お笑い」で有名なタレントが“肉体関係”にあったアイドルの正体に驚きを隠せない

 

まとめ:山田邦子の“がん再発”と22億円の借金の衝撃的実態

 

この動画では、山田邦子さんの経歴やプロフィール、ならびに彼女の22億円の借金の実態について紹介されています。山田さんはお笑いでおなじみのタレントで、一時は月収1億円を稼ぐなど、人気絶頂期もあったようです。しかし、家族の節税対策のために作られた子会社での投資などが原因となり、借金が膨れ上がってしまったようです。山田さんは精神的にも限界を迎えていたようで、借金を返済するために会社を

解散し、2年かけて返済したとのことです。その苦労や辛さが伝わってきました。

また、動画では山田さんの癌の公表や不倫騒動についても触れられています。

山田さんは、癌の公表やチャリティイベントなどで闘病生活を明かし、

多くの人に勇気や笑いを届けてきたようです。

しかし、動画の中で山田さんが渡辺徹さんのお別れの会で肉体関係がなくて良かったとジョークを飛ばしたことについては、意見が分かれるようです。

一部の人からは不適切な発言として批判の声も上がっています。

全体として、山田邦子さんの苦労や借金の実態について詳しく紹介された興味深い

動画でした。彼女の職業人生や闘病生活に対する姿勢には感銘を受けました。

 

 

山田邦子、若い頃に年収10億越え?全盛期の伝説。

借金22億返済&資産がすごい 

 

山田邦子さんは、2022年にM-1グランプリの決勝戦の審査員を務め、

他の審査員よりも低い点数をつけたため話題になりました。

若い世代には馴染みがないかもしれませんが、80年代から90年代にかけて、

多数の冠番組を持つ超売れっ子芸人でした。

ほぼ前例のなかった、ゴールデンタイムに冠番組を持った女性ピン芸人で、

一時期は天下を取ったとも言われていました。

そんな山田邦子さんの超売れっ子だった若い頃の年収についてや、

全盛期に残した伝説などについて、お伝えします。

 

山田邦子のプロフィール

愛称:邦ちゃん 本名:後藤邦子

生年月日:1960年(昭和35年)6月13日

身長:168cm  出身地:東京都荒川区

最終学歴:川村短期大学家政科卒業

所属事務所:アスリート・マーケティング

 

山田邦子、若い頃に10億越えの年収だった

月1億円もらってたのは自分だけではなく、ビートたけしさんや明石家さんまさん、、それ以上にもらってた、と語っていました。

山田邦子さんの人気は絶頂期で、CMやドラマ、映画などにも多数出演し、

テレビで顔を見ない日はないというほどの売れっ子ぶりでした。

月収1億円と聞くと羨ましいように思えますが、その多忙さは尋常ではなかった

そうです。

時代が変わり、2000年以降は組合があり労働条件にも規制があるため、

忙しいとは言えどある程度は守られていますが、当時は今では考えられないような

スケジュールで働いていたそうです。気絶寸前で収録を終え、ほとんど寝ていない

状態で次の現場へ行く生活が続きました。倒れそうになりながらなんとか続けて

いましたが、マネージャーからは「現場に行かないとギャラが出ないから、

倒れるなら次の現場で倒れてくれ」と言われていたそうです。なんとも壮絶ですね。

全盛期の売れっ子伝説

山田邦子さんは1981年ごろから芸能活動を始め、漫才ブームで巻き起こった

お笑いブームに乗り、大人気になりました。

1番多い時で、週に14本ものレギュラー番組を抱え、CMやドラマ、

映画の主演作品など、唯一女性ピン芸人で天下を取った存在と言われています。

中でも1989年から1992年まで放送された「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」は、高橋英樹さんや高岡早紀さん、大江千里さんなど、普段はバラエティー番組には出演しない方々までレギュラー出演し、大人から子供まで大人気でした。
番組がきっかけで大ヒットしたKANさんの「愛は勝つ」や、Winkのパロディー

グループ「やまだかつてないWink」なども生まれ、バラエティー番組としては

異例の日本武道館で収録を行うなどしました。

 

今でも語り継がれている伝説で、山田邦子さんは「好きなタレント調査」では、

1988年から8年連続で1位を取り続けるという快挙を成し遂げています。

 

 

ですが、1995年に妻子持ちの男性との不倫報道があり、好感度が急降下します。

その時に報道があった相手の方とは、2000年に結婚しました。

また、番組スタッフとの意見が合わず、喧嘩をしたこともテレビ出演が

減った原因とも言われています。

 

 

今まで、仕事や病気、不安など、人に言えなかったことが、今では公演で病気の

話をしたり、笑わせたりして、自分のペースでお仕事されているのが分かりました。

これからも、無理せずにお仕事頑張って、自分のしたいことをして下さい 笑ううさぎ おばあちゃん 虹

 

今夜、お母さんのことなどupします 物申す

 

 

 

あまり変わらないので省きます ムキー パンチ!パンチ!パンチ!むかっ

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート