愛川欽也さん死去 80歳、3月「アド街」降板、名司会もう見られない | poohta8のブログ

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  [ 2015年4月17日 05:30 ]  スポニチ

       

  死去したことが分かった愛川欽也さん。昨年12月、菅原文太さんの訃報を

  受け会見したのが最後の公の場となった

 

 テレビ東京「出没!アド街ック天国」の司会や俳優として活躍した愛川欽也

(あいかわ・きんや、本名井川敏明=いがわ・としあき)さんが死去したことが16日分かった。80歳。東京都出身。関係者によると15日に亡くなった。70年代に大ヒットした映画「トラック野郎」シリーズを企画・出演し、テレビの司会でも活躍。

最近は「アド街」を3月7日放送回を最後に降板し、体調不良が伝えられていた。

 「キンキン」の愛称で親しまれた愛川さんが亡くなった。

 愛川さんをめぐっては、15日昼ごろに都内の自宅から救急車で誰かが病院へ

搬送される様子が目撃された。妻で女優のうつみ宮土理(71)やマネジャーは

一切取材に応じず、愛川さんが重篤な状態にあるのではと心配されていた。

16日夜になって、所属事務所のスタッフが自宅前に現れ、17日午前10時にマスコミ

各社にファクスを送信することを約束した。複数の関係者はスポニチ本紙の取材に「愛川さんが15日に亡くなられたと連絡がありました」と明らかにした。

 発表を亡くなってから2日後に設定した背景については「奥さまの気持ちが

少しでも落ち着くまでに相当の時間を要したということです」と説明。

一部関係者は「それだけ取り乱されたということはどういうことか。

それは察していただきたい」と話しており、亡くなった詳細について、

うつみがどこまで明らかにするかは分からないという。

 アド街を3月7日放送の1000回記念スペシャルを最後に突然降板したため、

体調不良が指摘されていた。今月6日にはメーンで出演していた

インターネット放送局「 kinkin.tv 」の閉鎖も発表された。

 翌日、病気のため長期療養に入ったとの一部報道を受け、うつみが

「風邪をひいて少しせきが出て、今は自宅で休んでおります」と文書で説明。

軽症を強調したが、本人のコメントがなく、体調を不安視する声は消えなかった。
さらに、アド街降板後は舞台製作に力を入れていく意向を示していたが、自身が

演出した公演(今月3~5日)会場にも姿を見せていなかった。公演中の3日には

自宅に介護用ベッドや点滴器具が運び込まれ、翌4日には在宅医療クリニックの

車が訪れるなど、愛川さんの心身が深刻な状態であることが判明。

15日には50人以上の報道陣が自宅前に集まる事態になっていた。

 愛川さんは声優などを経て74年から86年にかけて日本テレビ「11PM」の司会を

務めるなど若者を中心に人気に。長距離トラック運転手を題材にした「トラック

野郎」シリーズを企画し東映に持ち込み映画化。故菅原文太さんの相棒役として

出演し10作が公開される大ヒットシリーズとなった。

 私生活では78年にタレントのうつみと結婚。芸能界一のおしどり夫婦として

知られていた。「アド街」では、95年の番組開始から「宣伝部長」「宣伝本部長」の肩書で出演。毎回、「おまっとさんでした」の名ぜりふでスタートし、

人気の長寿番組に育てた。

 報道陣の前に姿を見せたのは、昨年12月、文太さんの訃報を受け、都内で取材に

応じたのが最後。「残念で仕方ない」と涙ながらに思い出話などを語っていた。

 ◆愛川 欽也(あいかわ・きんや)1934年(昭9)6月25日、東京都生まれ。

埼玉県立浦和高校卒業後、俳優座養成所に入所。声優などを経て、71年から深夜の

TBSラジオ「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティーなどで若者の人気を集めた。「トラック野郎」での俳優業のほか、うつみと共演したTBS「シャボン玉

こんにちは」や、フジ「なるほど!ザ・ワールド」の司会などで活躍。大橋巨泉、

藤村 俊二ら同年生まれの芸能人で結成した親睦会「昭和九年会」のメンバー。

 

 

愛川欽也さん壮絶死…がん脊髄転移、最期まで

「仕事行こう」公開日: 更新日:

 

「キンキン」の愛称で親しまれ、テレビ東京「出没!アド街ック天国」の司会や

 

俳優として活躍した愛川欽也(本名・井川敏明)さんが15日午前5時過ぎに自宅で

亡くなっていたことが分かった。80歳だった。妻でタレントのうつみ宮土理(71)や家族の意向で、17日都内で密葬が営まれ、荼毘に付された。

 17日午前、愛川の所属事務所はコメントを発表。それによると、昨年冬から体調に不安を訴えるようになり、検査をしたところ肺がんであることが判明。本人の希望によって入院はせず、在宅での治療を続けてきたという。「根っからの仕事人間で

あった愛川は肺がんを発症した以降も仕事に情熱を燃やしており、息を引き取る

直前まで『仕事に行こう』と寝言のように申しておりました」と記されている。

 愛川は3月に20年間司会を務めてきた「アド街」を降板。肺がんを患っていたが、病名を公表せず、仕事を続けてきた。妻のうつみは周囲を心配させまいと「風邪」と説明してきたが、がんは脊髄にも転移しており、今月になって容体が悪化。

いよいよ歩行もままならなくなり、治療に専念することにしたという。

今月3日には自宅に介護用ベッドや医療器具が運び込まれる様子が伝えられた。

15日昼ごろに渋谷区の自宅から誰かが救急搬送される様子が目撃されたことから、

たくさんのマスコミが自宅前に詰めかけていた。

 

 愛川は埼玉県随一の進学校、浦和高校出身。東大→ 弁護士の道も描いていた

いうが、高校時代に映画館に入り浸り、俳優の道へ。故菅原文太の相棒“やもめの

ジョナサン”こと松下金造役で出演した「トラック野郎シリーズ」が大ヒットした。

 74年からは日本テレビ「11PM」の司会としても人気になり、バラエティーに

進出。楠田枝里子とコンビを組んだ「なるほど!ザ・ワールド」(フジテレビ)は

15年間、「おまっとさんでした」の名ゼリフが有名になった「アド街ック天国」ではメーン司会を20年間務め上げ、14年には「世界最高齢の情報番組司会者」に

ギネス認定された。

 おしどり夫婦として知られるうつみとは、78年11月、前妻との離婚が成立した翌日に再婚して話題になった。09年には小劇場「キンケロ・シアター」をオープン。

自分を慕う「劇団キンキン塾」のメンバー育成に “余生” を費やそうとしていた

矢先の訃報だった。

 

 

愛川欽也さん死去「テレビは大衆に愛されてこそ」

業界に神話残す    産経新聞

 

俳優やテレビの司会者として知られる愛川欽也さんが亡くなりました。

平和家族憲法テレビブロブ訃報俳優仕事愛川欽也儀

 

 テレビ番組の司会者や俳優として知られる愛川欽也(あいかわ・きんや、本名井川敏明〈いがわ・としあき〉)さんが15日、肺がんのため亡くなりました。80歳で

した。愛川さんの個人事務所が17日午前に発表。「昨年冬より体調の不安を訴え、

検査したところ、肺がんと判明」「本人たっての希望により、入院はせず在宅での

懸命な治療を続けて参りましたが、容体が急変し自宅にて旅立ちました」と書面で

報道各社に伝えました。妻はタレントのうつみ宮土理さん。

 

棺を車に乗せる男性たち=17日午前8時ごろ、東京都内の愛川欽也さんの自宅前

棺を車に乗せる男性たち=17日午前8時ごろ、東京都内の愛川欽也さんの自宅前

出典:朝日新聞デジタル

 

 個人事務所は「最期まで仕事に復帰する可能性に懸けていた本人の強い希望で病状を伏せておりました」「根っからの仕事人間であった愛川は肺がんを発症した以降も仕事に情熱を燃やしており、息を引き取る直前まで『仕事に行こう』と寝言のように申しておりました」「最期まで仕事に恵まれた幸せな、愛川欽也の人生を支えてくださった全ての皆様に心より感謝致します」としています。愛川さんの遺志に従い、

妻のうつみさんら近親者ですでに密葬がとりおこなわれました。

 

棺を乗せた車の助手席に座る、妻のうつみ宮土理さん=17日午前8時ごろ、東京都内の愛川欽也さんの自宅前

棺を乗せた車の助手席に座る、妻のうつみ宮土理さん=17日午前8時ごろ、

東京都内の愛川欽也さんの自宅前出典:朝日新聞デジタル

 

 愛川さんは、東京都豊島区巣鴨生まれ。偶然入った映画館のフランス映画を衝撃を受け、埼玉の名門・県立浦和高校を中退。俳優座養成所の研究生として演技を学び、声優や深夜ラジオ「パック・イン・ミュージック」のディスクジョッキーで人気に。「キンキン」の愛称で親しまれました。その後、「トラック野郎」シリーズなどの

映画やドラマに数多く出演「11PM」「なるほど!ザ・ワールド」「出没!アド街ック

天国」といったテレビ番組の司会者としても幅広く活躍しました。

 「劇団キンキン塾」も主宰。夫妻の愛称にちなんだ劇場「キンケロ・シアター」を私財を投じて東京・目黒の住宅街に建て、次世代の役者たちの

指導に情熱を注いでいました。

 

自主規制のない映画「トラック野郎」

 愛川さんを国民的な人気俳優に押し上げたのが、1975~79年に10作が公開された映画「トラック野郎」でした。菅原文太さんが演じる失恋ばかりの「一番星」と、

愛川さん演じる子だくさんの三枚目「やもめのジョナサン」の運転手コンビが、

デコトラに乗って涙と笑いの珍道中を繰り広げるストーリー。
実はこの映画、アイデアを出したのは愛川さんでした。「映画をやりたいなと

思っていたときに、派手に飾った面白いトラックが流行しているというテレビの

特集番組をみて、これだと思ったんだよね」。

 愛川さん自身がかつて吹き替えした米国の人気ドラマ「ルート66」を下敷きに

して、簡単な企画書を東映に提出。準備から公開まで2カ月という急ごしらえの企画でしたが、大ヒットしました。「主人公のアウトロー性、警察へのおちょくりが

受けた。誰しも交通違反の切符きられて、罰金とられて、悔しい思いをしていたから痛快だったのでしょう」。このシリーズは、特殊浴場のシーンあり、ベテラン女優のヌードシーンあり、ケンカに脱糞など、とにかく下品でメチャクチャでしたが、

世代を超えた一大ブームを巻き起こし、東映のドル箱に。

「映画が元気だった時代の最後の作品。ぜいたくなロケもできたし、へんに自主規制せずに自由に作ることができた」。後年、愛川さんはそう振り返っています。

 

「街ってのは建物じゃない。人なんだ」

 愛川さんは数々のテレビ番組で司会者も務め、多くの長寿番組を育てました。「11PM」(日本テレビ)は12年間、「パックインジャーナル」(朝日ニュースター)は14年間、「なるほど!ザ・ワールド」(フジテレビ)は15年間続き、

「キンキンの番組は長い」との業界神話が定着しました。


 1981年に始まった「なるほど!ザ・ワールド」は、海外の話題を紹介する「情報

クイズ番組」ブームの先駆けでした。最高視聴率は36.4%、平均でも20%超という

お化け番組でした。同じく司会を務めた93年のTBSのクイズ番組では、生放送中に

視聴者からの解答電話が殺到。放送中の午後7時半過ぎから1時間半ほど、関東各地で電話がかからなくなる騒ぎも起きました。

 「おまっとさんでした」のあいさつで始まるテレビ東京の地域密着バラエティー「出没!アド街ック天国」には1995年から今年3月まで、20年間にわたり出演。

「あなたの街の宣伝本部長」として、1千回の司会を務めました。プロデューサーの1人は「下町でがんばる高齢の商店主のVTRが流れる時なんか、愛川さんは実に優しい目になるんです。街や歴史に対する知識が豊富というだけではなく、愛川さんの

優しさが視聴者に伝わっているからこそ番組が長く続いている」と語っていました。

 「アド街」では、歌手デビュー前の「ゆず」や、新宿2丁目時代の

ミッツ・マングローブさんらも地道に取材しており、愛川さんは

「街ってのは建物じゃない。人なんだ」との言葉も残しています。

 

「テレビは、バカばっかりでも飽きられる」

 「本業は俳優」という愛川さんは、テレビ朝日系の土曜ワイド劇場で、70以上の

作品で主演し続けました。土曜ワイド劇場は大衆受けする作品が多いことで

知られていますが、愛川さんはこう語っています。「テレビは大衆に愛されてこそ

価値がある。いかに心地いいマンネリを作るかを常に意識しているんだ」

 テレビ界を知り尽くし、お茶の間を沸かせた愛川さんですが、テレビ業界の

将来に警鐘を鳴らし続けていました。「テレビはメジャーですから、大勢の人に

受けなきゃあいけない。だから、本当にやりたいってことばかりはできない」

「でも、バカばっかりやっていると、あきがきますよ」

 96年には女優の中村メイコさんら業界の同志を集め、「テレビについて話す会」を結成。愛川さんは当時、「最近、テレビがひどい、という話を聞く。仲間に聞いても本当だ、という。テレビ界で働く我々が、番組の質や表現法などについて話し合い、どうすればよくなるかといった意見を小冊子にまとめ、発表していくことにした」と語り、世間に一石を投じました。

 同世代でラジオやテレビで活躍した永六輔さんは愛川さんを

「この人は手を抜くことを絶対にしない」と評しています。

 

「ぼくの頭の中の座標」

 04年に発表した自伝的小説『泳ぎたくない川』。この作品で愛川さんは、

自身が婚外子だったことを初めて明かしました。母と2人きり、東京・巣鴨を離れ、茨城や福島、埼玉を転々としながら戦中戦後を苦労して生き抜いたといいます。
疎開先で母と一緒にナタを持っていじめっ子の家に怒鳴り込んだり、母が着物を

売って日々の飢えをしのいだり・・・。それから数十年たっても、戦争などの

ニュース映像を見るたびに、東京大空襲があった45年3月10日に、埼玉県から

見た東京方面の真っ赤な空を思い出したそうです。

 愛川さんはいつも、意外なものをカバンに入れて持ち歩いていました。

「日本国憲法」の小冊子。終戦後、復員兵だった社会科の先生から、中学2年で

「民主主義の国で一番大切なもの」と教えられたといいます。「国で一番大切な

法律に、戦争をしないと書いてある。すごい憲法だ、と先生が言った。

以来、ぼくの頭の中の座標は、この年齢まで一度もぶれたことがありません」

 今年3月、戦後70年にちなんで東京都墨田区が開いたイベントでは

「反戦は憲法を守ることです」という自筆のメッセージを寄せていました。

 テレビにかかわって半世紀。愛川さんは取材にこう話していました。

「かつては撮影の待ち時間や食事時などに、スタッフと戦争や憲法の話をよくした。最近は敬遠されるけど、イヤなじいさんだといわれても、若いディレクターを

捕まえての平和談議は続けたい」

 

愛川欽也さんの「出没!アド街ック天国」での肩書は「あなたの街の宣伝本部長」=2010年2月24日、東京都港区、鈴木好之撮影

愛川欽也さんの「出没!アド街ック天国」での肩書は「あなたの街の宣伝本部長」=2010年2月24日、東京都港区、鈴木好之撮影

 

--『アド街』の収録では

 「愛川さんは元気があまりないな、というのはありました。

熱が出てつらそうな状態は、去年の暮れくらいからありました」

 --突然のことでした

 「突然というより、ちょっと休養するからMCをやってくれと言われ、

愛川さんがいずれ戻ってくるものと思ってやっていました」

 --峰さんにとって愛川さんはどんな存在だったか

 「20年、そばで仕事をさせてもらいましたが、芸能界の中では大きな存在でした。うつみさんにも番組でお世話になっているし、うつみさんに何と声をかければ

いいのか…」

 --愛川さんとの思い出は

 「お互い、奥さんの名前が『みどり』なんで、『俺たちは日本みどり党だな』と

言ってかわいがってもらった。食べ物の好みも一緒でしたし」

 --愛川さんが亡くなったんだという実感は

 「まだないですね。自分の中では、うつみさんが最後まで愛川さんを

かっこよく見送った、最後の最後まで守ったんだ、という感じがしています」

 --最後に会ったのは

 「『アド街』1000回記念の収録のときで、その後はお会いすることはなかった。

1000回の収録が終わったとき、『俺は今日、できるかどうか分からなかったんだよ』と話しておられた。最後の力を振り絞っておられたんだと思う。

番組は新しくなりましたが、愛川さんの存在は私たちの中に残りますね」

 --愛川さんの思いをどう受けついでいくか

 「何かにつけて『峰くん、後は頼むよ』とよく言われたが、番組をやらせて

いただく中で、愛川イズムができていけば恩返しができるかな、と」

 --愛川さんの仕事とプライベートの区別について何かあれば

 「仕事になるといろんなことを追求し、ハッキリさせたい、いいかげんな

ままでは終わらせない、というところがありましたね」

 --「アド街」での「おまっとさんでした」は名せりふだった

 「あれがもう聞けないのは寂しいですね。僕も『代理ですが』と言って、愛川さんのマネをしてやっていましたが、代理をやらせていただいただけで光栄です。

いい刺激を与えてもらいました」

 --最後に、愛川さんに声をかけるとしたら

 「愛川さん、最後までかっこよかったね、と」

 --どう答えてくれそうか

 「『ありがとね!』と言ってくれるでしょうか…」

 

 

愛川欽也「休みのつもりが降板に…」『アド街』卒業の真相

  女性自身
 

 7日の放送を最後に、20年間司会を務めたバラエティ番組『出没!アド街ック

天国』(テレビ東京系)を降板した愛川欽也(80)。昨年9月には、情報番組の

現役最高齢司会者としてギネス世界記録に認定されたキンキン。だが最後の出演と

なった1千回目の放送で、別れの言葉が語られることはなかった。

いったい何があったのか。番組スタッフが語る。

「2月初旬に1千回達成の記念パーティーが開かれましたが、そこに主役の愛川さんの姿がなかったんです。代わりに奥さんのうつみ宮土理さん(71)がいて、欠席の

由を『愛川はインフルエンザで……』と語っていました。たしかに直前に行われた1千回目の収録で、愛川さんはかなり辛そうにしていました。しかしその後も

一向に収録に来なかったので、隔週の撮影峰竜太さん(63)が代役を務めていた。

そうしているうちに愛川さんが最後に出演した1千回目が放送されることになり、

突然、降板が発表されたんです」

 報道によると、愛川サイドは1千回で出演に区切りをつけると制作サイドに

伝えていたという。制作サイドは慰留したものの、彼の決意は固かった。そのため、

局は止むなく降板を決定したという。だが、前出のスタッフはこう首を傾げる。

「1千回記念スペシャルが最後になるなら、スタッフにも事前に報告があるはずです。収録当日は花束の贈呈もありませんでしたし、何より20年間応援してくれた

視聴者への挨拶さえなかった。あまりにもあっけない愛川さんとのお別れに、

スタッフは困惑しています」

 これまで皆勤賞を続けてきた愛川が、予告もなしに降板。高齢なだけに体調面が

心配されるが……。所属事務所に問い合わせると、担当者はこう語った。

「たしかに1千回の収録でもかなり体調が悪く、記念パーティーは欠席させて

いただきました。当初はしばらく休ませていただくだけという話だったのですが、

結局、そのまま降板することになってしまったんです」

 つまり、愛川にとっても予想外の降板だったようだ。

「愛川は、いろいろな仕事が重なったこともあって疲れちゃったんだと思います。

80歳なんでね。今も体調面で引きずってはいるものの、熱は下がりました。

もう動けるので、仕事も始めています。5月からは『港古志郎警視』シリーズ

4作目の撮影もありますし、秋の公演に向けて台本も書いているところです。

だから、ご心配されることはありませんよ」

 

 

上記の記事を読み比べると矛盾点があります。

一時、体調が悪いので休みたいと言うことだったのに、スタッフにも言わず、

花束贈呈もない、視聴者に最後のお別れの挨拶もなく、急に降板が決まったのは

不自然。そして、新しいMCにイノッチに変わり・・・。

 

5月からはドラマの仕事が、秋の向けて台本を書いているほど元気だったのなら、

急に容態が悪くなったということ? プンプン おばあちゃん パンチ!パンチ! 星

 

愛川さんの番組を楽しく良く観ていました。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

伊勢物語のあらすじ

十四 くたかけ


むかし男が奥州にあてもなくたどり着いた。
そこに住む女性が
都の人を珍しいと思ったのだろうか
心から男を恋しく思うようになった。
そこでその女性は

 恋にこがれて死ぬよりも            なかなかに恋に死なずは
 夫婦仲良く蚕になり                     桑子にぞ
 ほんのひととき過ごせたら               なるべかりける
 そっちの方がいいのにね                 玉の緒ばかり

と詠んだ。
歌までが田舎臭い。
それでも男はしみじみ感じ入ったのか
女性の所へ行って寝た。
ところが深夜のうちに
男が女性の家から出て行ってしまったので
女性は

 夜が明けたら馬鹿鶏を                   夜も明けば
 冷たい水にぶち込んで                 きつにはめなで
 お仕置きせずにおくものか                 くたかけの
 暗いうちから鳴き出して                まだきに鳴きて
 男を帰らせちゃうなんて                せなをやりつる

と詠んだ。
男は「都に帰ろうと思います」といって
 
 姉歯の松が人ならば                栗原のあねはの松の
 都へ連れて帰りたい                     人ならば
 でもあなたではお土産に                  都のつとに
 ならないのです御勘弁                いざといはましを

と詠んだので
女性はうれしがって
「私を好きだったのだわ」と言いふらした。

 

 

人の思考を低下したり、心に入って来ないで。モヤモヤするから 物申す パンチ!

中枢神経を触らないで。感情やパワーを抑えないで。言うことを聞いて パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました 愛飛び出すハート