突然駆けめぐった訃報(ふほう)に、落語界は大きな悲しみに包まれた。 東京・目白の小さんさんの自宅には午前中から一門や落語関係者が続々と 弔問に訪れた。 小さんさんは、15日夜も食事を残さず食べるほど元気だったという。 普段と変わらない様子で床についたが、16日の朝8時に長女の美喜子さんが寝室に行ったところ、体はすでに冷たくなっていた。医師の診断では、 亡くなったのは午前5時ごろ。弔問に訪れた三遊亭円歌(73)によると 「起こしたら起きてきそうなくらい安らか」で、眠るような大往生だった。 自宅の剣道場に祭壇が作られ、遺体は剣道の本などと一緒に安置された。 小さんさんは昨年夏ごろから体が弱り、一人で風呂に入ることも大変に なったという。大好きだった剣道のけいこの回数もめっきり少なくなった。 2月2日の鎌倉芸術館が最後の高座になった。 長男で落語家の柳家三語楼(54)は、偉大な父で師匠の死に「優しい ところもあれば厳しいところもあった。いつまでも長生きしてほしいと思って ましたが…」。孫で最後の直弟子となった柳家花緑(30)は明治座の公演後に駆けつけ「自分の中ではかなり教えてもらったので、それをバネにして これから伸びていきたい」と、悲しみを胸にしまって飛躍を誓った。 3歳から東京・浅草で育ち、18歳で4代目柳家小さんに入門した小さん さんは、二・二六事件(1936年)に二等兵として反乱軍に参加している。 立てこもりの間に落語を披露したエピソードを持つ。50年に5代目小さんを襲名、72年から24年にわたって落語協会会長を務めた。自然体の落語に 親しみやすい容ぼうに加え、ドラマやCMでもお茶の間で人気者だった。 95年には落語界で初めて人間国宝に。「昔は歌舞伎と落語は同列だったが、いつの間にか、落語が下になっちゃった。今回のことは、あたし一人でなく、落語界全体の喜びだね」と話したように、常に落語界全体を考えていた。その前年に胆のう炎で手術し、96年1月には脳梗塞(こうそく)で入院した。そのたびに剣道の素振りや居合で鍛えて克服してきたが、ついに力尽きて しまった。 |
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◆柳家 小さん(やなぎや・こさん) 本名・小林盛夫。1915年1月2日、長野県生まれ。1933年、4代目柳家小さんに入門。栗之助を名乗る。39年、二ツ目に昇進、小きんに改名。47年、真打ち昇進。小三治を襲名。50年、5代目小さんを襲名。72年、落語協会 会長に就任。95年、人間国宝に。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、 名誉都民、浅草演芸大賞、紀伊国屋賞などを受賞。剣道7段。 |
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◆真打ち昇進を実技試験制に数々の改革を断行 する不満から脱会するなど、協会運営が厳しい局面を迎えた時期もあった。
16日に心不全のため亡くなった落語家で人間国宝の柳家小さん 葬儀・告別式は19日正午から同寺で営まれる。
浴衣姿でほほ笑む遺影 1300人が焼香
祭壇には浴衣姿でほほ笑む小さんさんの遺影。菊の花の上の遺影は参列者の 名誉都民のメダルも飾られ、生前の偉大な業績を物語っていた。 団体からの供花は500以上。読経後には弟子の鈴々舎馬風が歌う盆踊り調の 笑いに人生をささげた人間国宝を、明るく見送る落語協会葬だ。 だという。右手側には木刀、左手側にはステッキも。愛した落語と、毎日 けいこをして7段の腕前を持つ剣道のための愛用品ばかり。天国でいつでも 高座にあがり、剣をふるえるようにとの遺族の願いがこめられた。 つまんないな」と言われたことが忘れられないという。 「いつか来るとは思ったが寂しくなるね。芸風と立場は違うが 一番のライバルだね。落語界が小さくなってしまったようだ」としんみりした表情。落語芸術協会会長の桂文治(78)は「安らかにお休みください」と 涙ながらに言うのが精いっぱい。漫才師の内海桂子(79)は、昭和の演芸界を支えた“同志”の死に「人間国宝にふさわしい、芸に奥行きのある人だった。
遺言状に「語」「咄」使って 小さんさんの戒名は「本行院殿法勲語咄日盛居士(ほんぎょういんでんほうくんごとつにちじょうこじ)」。寺への多大な貢献者にしか付けられないといわれる『院殿』の文字も使用、まさに人間国宝にふさわしい最上級の いう。落語にちなみ「語」「咄」を使ってほしいと遺言状にも記してあった。 訪れ、夜を徹して祈った。以来、信心深くなり「寺のためなら」と 何よりも優先し、熱心な信者であり続けたという。
談志来なかった 訪れた。2人とも83年に破門された小さんさんのかつての弟子・立川談志の紹介で交際がスタートしただけに、心境は複雑だ。玉置は「元気なうちに 何とか2人が会うチャンスがあれば」と和解できなかったことが悔やまれて ならない様子。談志はこの日も姿を見せなかった。 アポなしでお会いしてお世話になりました。ゆっくりお休みください」
森繁悲痛「順序が逆…」
16日に心不全のため亡くなった落語家で人間国宝の柳家小さん(本名・小林盛夫=享年87歳)さんの落語協会葬が19日、 告別式には、落語関係者の他に俳優の森繁久彌(89)、中尾彬(59)、 黒柳徹子(68)ら約800人が参列し、小さんさんと最後のお別れをした。小さんさんより1歳年上の森繁は「私が早くあちらに行けばいいんですが、 順序が逆になってしまって。まじめな方で、ときどき面白いことを言う。その話も聞けなくなり、まことに残念です」と沈痛な表情でめい福を祈っていた。 1983年に小さんさんとたもとを分かち、立川流を創設した立川談志(66)は、この日の告別式も姿を見せなかった。小さんさんは3年前にインタビューをした春風亭小朝(47)に「いつまでたっても弟子は弟子だろ」と言って いたという。小朝は談志に落語協会に戻るように働きかけたこともあり 「(談志は)天才・小さんの唯一の遊び相手でおもちゃですよ。 寂しいんだろうな、遊びたいんだろうなと思った」と2人が再会できなかったことを悔やんでいた。 告別式の最後には、親族代表で小さんさんの長男・柳家三語楼(54)が「子ども2人で見送れたのは最後の親孝行でした」と涙ながらにあいさつ。 多くの人に親しまれた小さんさんは木遣りと参列者の拍手に送られて 天国に旅立った。
石原都知事も弔辞 小さんさんは名誉都民に認定されていたため、石原慎太郎都知事の弔辞も読まれた。石原都知事がしたためた弔辞を高橋信行東京都生活文化局長が代読。「人々に笑いと潤いを与えたご功績と人柄は、これからも多くの人々の 心に残る」とたたえていた。
五代目柳家小さんは本名小林盛夫。大正四年(一九一五年)生まれ。十三歳の頃から剣道に親しみ、剣道家になることを夢見たが、中耳炎を患い断念した。昭和八年(一九三三年)、四代目小さんに弟子入りしたものの、昭和十一年に兵役にとられ、直後に起った二・二六事件では反乱部隊の兵卒として、 警視庁占拠に動員された。
戦後、復員して真打に昇進したが、師匠が急死し、八代目桂文楽の預かり 弟子となった。昭和二十五年、五代目小さんを襲名。おりからラジオの全盛時代に落語ブームを迎え、滑稽話で人気を博した。昭和四十七年、落語協会会長に就任。経済的に恵まれない二つ目を救済しようと真打制度の改革に尽力し、大量の真打昇進を認めようとしたが、制度に対する見解の相違から、六代目三遊亭円生らが、落語協会を脱退した。このため、落語協会分裂騒動が起るが、昭和五十四年、円生の死をもって一応の収束をみた。
それでも、噺家の条件としてあげたのは、貧しさに耐えられることという。 < まず貧乏が出来なきゃダメ。昔はよほどの大幹部だって、しょっちゅう 質屋がよい。あたしの師匠なんぞは、実に貧乏だった。おかみさんが「おい、寄席に行く前にナンだよ、ソバでも取って食べていきなよ」「そすか」で 電話をかける。「えー、柳家ですけど・・・・・・」「あ、柳家さん・・・・・・ ダメ・・・・・・ガチャン」。勘定払ってないから持ってきやしねえ > (「週刊 文春」昭和五十二年一月二十日号より) 写真はこのときに撮影されたもの。 平成十四年(二〇〇二年)没。
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2018年 12月 20日
五代目・柳家小さん(1915~2002)
五代目・柳家 小さん(やなぎや こさん)
落語家 1915年(大正4年)~2002年(平成14年)
1915年(大正4年)長野県長野市に生まれる。本名は、小林 盛夫(こばやし もりお)。実父は長野市で紡績業、次いで金融業を営むも破産し、一家で東京府浅草に
転居。さらに関東大震災の被災を免れた一家は丸の内に転居。日比谷尋常小学校から麹町高等小学校に入学(いずれも現在の千代田区立麹町小学校)。13歳の頃から
剣道を学び、在学中は剣道部副将として東京市剣道大会で優勝している。
職業剣道家を目指すも中耳炎で断念。卒業後は東京市立商業学校夜間部に入るが、
後に中退。法律事務所の事務員として働きながら夜学に通う中で落語家を志すようになる。1933年(昭和8年)4代目柳家小さんに入門。4代目は人のあだ名を考えるのが巧く、盛夫は「おまえは栗に似ているから」と柳家栗之助と名付けられた。前座
時代の1936年(昭和11年)、大日本帝国陸軍歩兵第3連隊に徴兵され二等兵となる。
同年2月26日に起こった二・二六事件では、反乱部隊の機関銃兵として警視庁占拠に出動した。小さんや同僚兵士は事前にまったくクーデター計画を知らされず、当日
出動命令を受けて支給された弾薬が実弾だったことから「あれ、今日は、演習じゃ
ねえんだな」と思ったという。1939年(昭和14年)、二つ目に昇進して柳家小きんと改名する。2代目三遊亭歌笑、4代目柳亭痴楽らと若手のホープと目されたが、1943年(昭和18年)再び召集。仏印で終戦を迎え、1946年(昭和21年)に復員した。
1947年(昭和22年)、九代目柳家小三治を襲名して真打ちとなるが、間もなく師の
小さんが急逝。8代目桂文楽の預かり弟子となる。1950年(昭和25年)、師の名で
ある5代目小さんを継いだ。滑稽噺を専ら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で落語界の第一人者となる。特に蕎麦をすする芸と酒の飲み方の芸などは有名であり、その真に迫った仕草は絶品として知られた。映画・テレビにも積極的に出演し、特に永谷園即席みそ汁「あさげ」と墓所・墓石業の須藤石材の広告塔として長らく活躍した。1962年(昭和37年)、芸術祭賞奨励賞を受賞。1967年(昭和42年)には二度目の芸術祭賞奨励賞を受賞。1972年(昭和47年)、落語協会会長に就任。1975年(昭和50年)、紫綬褒章を受章。1978年(昭和53年)、真打ちの大量昇進や昇進試験などの
問題で落語協会前会長の6代目三遊亭圓生と対立して円生一門の脱退を招く。1983年(昭和58年)には愛弟子であった7代目立川談志とも真打ち制度をめぐって衝突し、談志一門の離脱騒動が起こった。性格は非常に穏やかで、大御所でありながらも
情にもろく、周囲の意見をよく聞くという面が災いし、こうした混乱に繋がってしまったという指摘もある。1985年(昭和60年)、勲四等旭日小綬章を受章。1995年(平成7年)、落語家初の人間国宝に認定。1996年(平成8年)、高座の合間に上野
広小路でマッサージを受けている最中に脳梗塞を発症。この時、たまたま同室の客が東京大学の医師で迅速な対処を受けることができたため、後遺症が比較的軽く済んで高座に復帰することができた。その後も落語家として活躍したが、 2002年(平成14年)5月16日午前5時、心不全のため東京都豊島区目白の自宅で死去。享年87。
死去前夜、「ちらし寿司が食べたい」と言い、寿司屋から取り寄せて夕食に食べ、「明日はいなり寿司が食べたい」と言って寝室に行った。翌朝起きてこないので
家人が見に行くと、眠ったまま死去していたという。
没後、従五位を追贈。
【補足】
死因は、心不全であった。87歳。前日夜には寿司を食べるなど元気な様子だったが、翌朝家族が起こしにいくと、心臓発作で亡くなっていたという。
その際に出血を伴い、枕が血で赤く染まっていたとのこと。
落語界で初となる人間国宝となった5代目柳家小さん。小さんの魅力は何といっても
仕草に尽きる。特にそばの食べ方、酒の飲み方はまさに絶品であり、小さんが
「時そば」を話した後は寄席近くの蕎麦屋が混み合ったという伝説まで残している。話芸もピカイチで、人情噺よりも聴衆者を惹きつけにくい滑稽話で多くの人を魅了
させることができるのは、やはり「名人」と言わざるを得ない。生前「芸は人なり。噺に出てくるのだから心は清廉潔白でなければいけない」と語っていた柳家小さんの墓は、東京都世田谷区の乗泉寺世田谷別院にある。墓には「南無阿弥陀」とあり、
右側面に墓誌が刻む。戒名は「本行院殿法勲語咄日盛居士」
2021年5月11日 / 最終更新日 : 矢部義徳
【ファミリーヒストリー】「小さん師匠と二・二六事件」は “軍隊的組織” の愚を現代の私たちに教えてくれた
NHK総合の録画で「 ファミリーヒストリー 柳家花緑 祖父・小さんの
二・二六事件~その真実 」を観ました。( 2013年1月28日放送 )
五代目柳家小さん師匠が二・二六事件の反乱軍にいた、というのは有名な話で、
僕も知っているくらいだから、孫の花緑師匠もさほど驚かなかったと思うが、
その経緯の詳細について知ることができたのは収穫だった。50分番組であるにも
かかわらず、DVDのデータ移行の不具合で半分しか観られなかったが、それだけでも十分価値のある内容だった。ただ、二・二六事件以降の花緑師匠も知らない祖父の
姿はもっと知りたかったし、悔しい。それと、花緑師匠がそれをどう受け止めたの
かも観たかった。まあ、しょうがないことなので、番組前半をまとめて記録し、
若干の感想を残したい。(以下、敬称略)
冒頭、取材VTRを観る前の花緑のコメントがいい。
僕は父親が離婚していなかったから、(小さんが)父親代わりであり、祖父であり、師匠であり、本当に濃いので、どんな些細なことでも知らないことが知れたら、
僕にとっては喜びです。
五代目小さんは本名、小林盛夫。その父が伝之助である。東京都日の出町に
小林家の本家が今もあり、小林洋子さんが出迎えてくれた。ここが伝之助の生家だ。
農業、養蚕に従事していた。次男として生まれた伝之助は家を出て、養蚕で繋がりのあった紡績工場に就職。そこで安藤てふと出会い、結婚する。4人の子どもが生まれ、盛夫は大正4年に末っ子として生まれた。
伝之助は金融業に手を出すが、人が良いのが災いして、失敗。夜逃げ同然で、東京
浅草に出る。大正7年のことだ。盛夫は話し上手で人気者になった。7歳年上の兄、俊雄が空想をして新しい話を作り、それを盛夫に教えると、すぐに覚えて友達に
披露していたのだ。俊雄は病弱で18歳で亡くなった。
昭和3年、盛夫が中学に進学すると、ますます話術に磨きがかかり、人気者になる。日常のエピソードを面白おかしく話すのが得意だったと、同級生だった根岸幸三郎が語る。「先生もファンだからね。きょうあたり、小林を呼ぶか?ってな具合で。
そのうち、校長先生にまで知れ渡って、ほかのクラスにも呼ばれる始末」。
同時に剣道にも夢中になり、七段の免許を取り、先生になるのが夢だった。
昭和5年、中学を卒業すると、法律事務所に雑用係として就職。そのとき、
弁護士が寄席に連れて行ったのがきかっけで、落語の面白さにはまる。
著書「咄も剣も自然体」にこうある。「面白かったですよ。なんだか、
別世界に来たような気持ちでした」。
18歳で落語家になる決意をし、四代目小さんに入門する。が、修行3年目で徴兵されてしまう。陸軍歩兵第三連隊入隊。剣道で鍛えた体格の良さが買われた。21歳のときだ。それが、入隊後わずか一カ月で大きな運命に出っくわす。陸軍の中に「軍部中心の新しい政府を打ち立て、世の中を変える」という気運が高まっていた。
昭和11年2月26日。「非常呼集!全員起きろ!出動だ!」。
上官に言われるがままに、初めての実弾を持たされ、どこで何をするのか
何も知らされず、命令のままに動いた。
当時を小さんが降り返っている。
こんな夜中に何しに行くんだと思ってね、二年兵に聞いたんだよ。「二年兵どの、何です?きょうはどうしたんですか?」って訊いたら、「俺もよくわからねえけどな。ともかく、偉い人を襲撃する奴がある。その警備のために行くんだ」と。
ああそうですか、と返すしかないよな。
警視庁を占拠した反乱軍。盛夫たち兵士は、何も真相を知らされずにただ、
歴史の渦の中にいた。盛夫と同じ部隊にいた増田初一は語る。
ただ市内に暴動が起きたから、これを鎮圧するために出動するということくらいしかわからないんだ。他のことは考えている間がなかった。
午前5時。大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤実らと警官8人を殺害。道路を封鎖し、永田町を占拠した。午後になって、盛夫たちのところにも、クーデターの内容が伝わってきた、自分の置かれた状況もわかってきた。だが、陸軍大臣内示として、「決起部隊の行動は天皇の耳に入り、天皇を守るという真心が認められた」と
伝えられた。クーデターは成功したかのように思えた。
しかし、2日後に異変に気づく。連隊本部から食糧が届かなくなった。奉勅命令と
して、天皇が決起部隊の鎮圧を命じたのだ。反乱軍は2万の鎮圧部隊に包囲された。28日午後。「昭和維新」は失敗した、自決しようという空気が流れる。
これを冷静に見つめていた兵士がいた。のちに埼玉県知事にもなる畑和である。
「二・二六事件と郷土兵」という手記にこう残している。
部屋の中は興奮と怒声が渦巻き、悲憤のあまり泣き叫ぶ声も起こり、私は面前で
彼等がやりとりする姿に何か悲愁を感じずにはいられなかった。
夕方になると絶望的な空気が支配した。そこへ上官がやってきて、盛夫に思いも
よらぬ命令をした。「皆を元気づけるために落語をやれ」。無茶である。
だが、上官の命令は絶対。「子ほめ」を選んで演じた。しかし…小さんは語る。
ちっとも笑わねえんだよ。そりゃあ笑わないよ。今生きるか死ぬかの最中でね。どうなるか分からねえんだよ。そういうさなかだからね。落語どころの騒ぎじゃないよ。そこで俺が一席やったってね。笑うわけないよ。驚いたね、あの時は。
畑和著「生涯成功―私の履歴書」にこうある。
だれも笑わず、静まり返っていた。あすはどうなるかわからないという
瀬戸際では当然だろう。
2月29日。包囲する鎮圧部隊からの「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」という
投降勧告に反乱軍は折れた。そして、4日間の「事件」は収束した。
というところで、DVDは途切れてしまった。残念、無念。二・二六事件が、
後に人間国宝にまでなる落語家・柳家小さんにどのような影響を与えたのか、
それを知る手がかりがきっと取材されていたに違いない。
兎にも角にも、戦時中というのは頭がおかしいんじゃないかというようなことが
幾つもあったのだなあと思うし、軍隊という組織における「上官の命令は絶対」と
いう不条理に怯えるばかりだ。これだけ取っても、戦争なんか絶対やっちゃいけないという単純なことではなく、「軍隊的組織」の愚という意味で現代にも通じる
メッセージがあるように思う。教科書で数行しか勉強しなかった「二・二六事件」について、ほんの一部かもしれないが深く知れたことに感謝したい。
伊勢物語のあらすじ
十一 空ゆく月
むかし男が東国へ行ったとき
友人たちに旅先から詠んでよこした歌。
忘れないで下さいね 忘るなよ
雲ほど遠く離れても ほどは雲居になりぬとも
空ゆく月がまたいつか 空ゆく月の
再びめぐり会う日まで めぐりあふまで
私も、柳家小さん師匠のことは、TVで観ていたので知っていましたが、
まさか、2.26事件に関わっていたとは知りませんでした。
落語家初の人間国宝も知りませんでした。上方は、桂米朝さんが初めてだと。
小さん師匠、1996年に脳梗塞で一命を取りとめ、高座に上がれて良かったですが、
2002年に心不全になり寝てるようだと。昨夜は、元気でお寿司(ちらし寿司)を
食べ、次の日においなりさんを食べたいと言っていたのに残念です
小さん師匠と談志さん、亡くなったので天国で出会い、今頃、楽しい話や落語の話で盛り上がっているでしょうね。そして、いろんな落語家さんや漫才師さんも天国へ
旅立ったので、懐かしい顔ぶれで楽しそうですが、今残っている落語家さんを
そちらに呼ばないで、見守っていて欲しいです。小さん師匠の直弟子の花緑さん。
今一番、聞いてみたい落語家さんです。これからも頑張って下さいね。
そして、みんなと協力をして落語会を盛り上げてほしいです
本当に、人の嫌なことをしないで。人の思考を低下させないで。忘れさせないで
人の後ろに憑かないで、憑依しないで。人をコントロールしないで
人のPCやスマホに侵入して、遠隔操作をしないで
人のマネをしないで自分で考えて。深夜に連絡をしてこないで
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました