オリックス・宮内オーナー 「申し訳ない」 退任発表の場で | poohta8のブログ

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振り返った球団統合 「合併から17年たつ間に…」

2022年1月21日 20時47分

 

オリックス・宮内オーナー 

 オリックス・宮内オーナー

 

 今季限りで退任するオリックスの宮内義彦オーナー(86)は21日、

本拠地・京セラドーム大阪で開いた会見で、阪急からの球団買収、

近鉄との統合についても振り返った。

 

 リース業から多角経営を進め、社名をオリエント・リースからオリックスへ改称。その過程で球団譲渡を持ち掛けられ「(会社として)『 相当宣伝 』しないという

ところで、こんな縁はないな 」と1988年秋に球団経営へ。

 

 「何をしている会社か知られてなくても、すぐにオリックスの名前が全国に

知られた」。オリックスが経営に乗り出しても、当初は阪急から継続して上田利治

監督が指揮を執り、次は巨人V9時代の二塁手、土井正三監督が就任。そして球団を

持って7年目の1995年に仰木彬監督の下、イチローらを擁してリーグ優勝。

1996年には日本シリーズで巨人に勝ち、日本一に輝いた。

 

 仰木監督時代まではほとんどAクラス常連だったものの、イチローがメジャー移籍

した2001年からは弱体化。石毛宏典、レオン監督、伊原春樹監督、仰木彬監督の

再登板、中村勝広監督、大石大二郎監督、コリンズ監督、岡田彰布監督、森脇浩司

監督、福良淳一監督、西村徳文監督と続いたが、ほとんどBクラスと低迷した。

 

その原因が宮内オーナーは、自らにあったと語った。

 

 「野球を広告宣伝と見てもらうのを、ビジネスとして成り立つようにしたいと

思った。広告宣伝費ではなく、赤字。球団には赤字をどうにかしろとプレッシャーを与えたら、前向きな施策ではなく、経費を何とかしようとなった。それが足腰の

弱くなった原因と思う。あれは時期尚早だった。広告と思い続けていれば

こういうことはなかった。10年、20年早すぎたと思う」と後悔を口にした。

 

 2004年には近鉄との球団統合があり、フランチャイズも神戸から大阪へ移転する。阪急ファン、神戸のファン、近鉄のファン。複雑な感情を持たれるのは否めず、

宮内オーナーは「ご負担をかけて申し訳ない」と振り返りつつも

「合併から17年たつ間に、ファンにだんだん心を一つに

してもらえたんじゃないかな」と満足そうに語った。

 

 

【 オリックス 】宮内義彦オーナー今季限り退任発表 

  88年に阪急を買収、04年には近鉄と合併

スポーツ報知 

 

      会見で笑みを浮かべる宮内義彦オーナー(カメラ・石田 順平)

 

 オリックス・宮内義彦オーナー(86)=本社シニア・チェアマン=が21日、

京セラDで会見し、今季限りでオーナー職を退くことを明かした。阪急から球団を

買収した88年から務めてきたが「ここ数年、次の世代に渡したいと考えていました」と明かし、昨季の25年ぶりのリーグ優勝を「一つの区切りができたと思う」と

退任理由に挙げた。後任はオリックス本社の井上亮(まこと)社長兼

グループCEO(69)の予定だ。

 

 オリックスへの思いは最後まで尽きなかった。「オーナーという名前の他に、

熱烈なファンというものがありまして」。シーズン前の勇退発表も、チームの発奮を期待する狙いがあった様子で「『あの宮内オーナーがおしまいになる。

もう一回、胴上げをしてやろうじゃないか』と思ってくれれば励みになる」と

リーグ連覇と日本一奪回を注文した。

 

 オリエント・リース社長だった88年11月、譲渡された球団を

「オリックス・ブレーブス」とし、89年に本社を「オリックス」に。

「企業の知名度を上げることが球団を持つ値打ちだった。

こんないい広告宣伝媒体はない。話が来て飛びついた」と振り返った。

 

 「球団と縁を切ろうという考えは全くございません。いつ球場に行っても

『あいつ、おるな…』というふうになりたい」。自身も長く草野球も楽しんできた

名物オーナー。「オリックス・ファン」という肩書は今後も変わらない。

(長田 亨)  ◆88年11月の各球団オーナー(敬称略)

 

89年1月26日、お披露目パーティーでマスコットのブレービーと笑顔で握手するオリックス・宮内義彦オーナー

89年1月26日、お披露目パーティーでマスコットのブレービーと

笑顔で握手するオリックス・宮内義彦オーナー

 

 巨人・正力亨、ヤクルト・松園尚巳、阪神・久万俊二郎、広島・松田耕平、

中日・加藤巳一郎、大洋・中部新次郎、ダイエー・中内功、オリックス・宮内義彦、西武・堤義明、ロッテ・重光武雄、日本ハム・大社義規、近鉄・佐伯勇

 

 ◆宮内オーナーの過去の発言集

 

 ▼2000年10月12日(イチローのポスティングによる大リーグ移籍を容認)

「ギリギリまで( 承諾 )できないと言ってきたが、球団から

『 この際、思い切ってくれ 』と言われ、数日前に決断した。

今までの大変な貢献に報いたい。金銭ずくの話じゃない 」

 

 ▼02年9月6日(最下位のチームに)(石毛)監督の前に(岡添)社長が

クビになるんじゃないか。キャンプの時は戦力は充実していると言っていたのに。

戦力を完全に見誤っている」(石毛監督は翌年4月、岡添社長は同9月に解任

 

 ▼09年8月17日(甲子園で母校・関西学院を観戦)「高校野球は

負けてもさわやかだけど、プロ野球を見ていると腹が立つ!」

 

 ▼13年3月12日(開幕前に)「毎年のように(優勝と)言っていますので、

もう言いません。うそつきオーナーと言われたくないので」

 

 ▼19年3月13日「冥土(めいど)の土産がないまま、閻魔(えんま)

さんに会うのは非常にまずい。早く土産を作ってもらいたい」

 

 ▼21年10月27日(優勝決定で胴上げされ)

「25年間、待ってですね…。私も感激しております」

 

 

オリックス宮内義彦氏「球団オーナー

34年の記録を残す理由」 

 

 オリックス球団のオーナーを34年間にわたって務めたオリックス シニア・

チェアマンの宮内義彦氏。オーナーとしての苦闘や、プロ野球改革に向けた数々の

挑戦や歴史の裏側をまとめた『 諦めないオーナー  プロ野球改革挑戦記 』(日経BP)を刊行した(2023年12月18日発行)。オーナー視点のプロ野球史。

その一部を抜粋、再構成してお届けする。(日経ビジネス編集部)

 

 2022年10月30日の夜、私は神宮球場の真ん中でオリックス・バファローズの

選手たちに抱えられ、5度宙を舞いました。

シーズン後にオーナーを辞めると発表していた私に、選手たちが最高の引き際を

プレゼントしてくれたのです。87歳を胴上げするのは、選手たちも

きっと緊張したでしょう。1988年に阪急ブレーブスを買収した時には、

ここまで劇的な締めくくりは想像していませんでした。

 

 53歳でオーナーに就任し、34年間務めるうちに、元号は昭和から平成を経て、

令和へと変わりました。その間、プロ野球界には様々なことが起こりました。

本拠地の神戸を襲った阪神・淡路大震災、イチローの登場と渡米。

そして近鉄との球団合併や球界再編……。オリックス球団に限れば、

長期に及ぶ低迷を経験した後の復活劇もあります。

長く球団のオーナーを務めてきた私は、その歴史の渦中にいました。

 

 今年1月、とても悲しい知らせがありました。球団買収のきっかけをつくり、長く

オリックスの球団社長を務めてくれた西名弘明さんが、78歳の若さで急逝してしまったのです。私がオーナーとして見てきた球団や球界の歴史を知る人がどんどん少なくなってきました。阪急ブレーブスオーナーだった小林公平さん、近畿日本鉄道(近鉄)元社長の山口昌紀さん、そしてオリックス初代監督の上田利治さん。2代目の土井正三さんに、球団の礎をつくってくれた仰木彬さんも天に召されてしまいました。

 

 私は今年で88歳になりました。まだまだ元気で、やりたいことに満ちあふれて

います。ですが、私の記憶も時間の経過とともに曖昧になっていくでしょう。

それならば、少しでも多くの記憶を記録しておきたい――。

これが、「諦めないオーナー」を記すきっかけとなりました。

 

 やはり、何でもヒストリーはきっちり残しておかなければなりません。

会社の場合 は周年の節目に、手間をかけて振り返って記録を残すでしょう。

 

 プロ野球については、選手や監督など、様々な立場の方が球史を残して

こられました。ただ、同じ事象であっても、人や立場が変われば

見え方や記憶も変わってきます。実際、歴史はそうして紡がれてきました。

それなら私は、「オーナー視点で見た球史」という、

今までとは少し違った球史を残そう。そう考えたのです。

 

(写真=菅野 勝男)

(写真=菅野 勝男)

 

 この連載では、私が見たこと、考えたことをなるべく正確に振り返った

つもりです。自身でつけてきた日記やメモなどを参考にしつつ、

当時の関係者などに確認も取りながら書きました。

もしかしたら、これまで語られてきた、皆さんが知っている歴史とは異なる部分が

あるかもしれません。あくまで私の視点・記憶からの史実だとお断りしておきます。

 

 球団オーナーとは、皆さんから見てどのような存在でしょうか。

 

 たまにオーナー会議のニュースなどが出ますが、ベールに包まれていて、

ほぼ分からないというところでしょうか。ましてや、オーナーが何を考えてどんな

アクションを起こしているかなど、ほとんど気にすることはないかもしれません。

 

 私は野球が大好きです。1人の野球好きという意味では、球場で応援してくれている熱心なファンと同じ存在です。けれど、球団を経営するオーナーの立場になると、

見える景色だけでなく、思考や行動もまた変わってくる。1人のファンとしては、

カネに糸目をつけずに名だたる選手たちを呼び寄せ、最強のチームをつくりたい。

一方で経営者としては、組織を永続させるためにも、きちんと採算が取れる

組織をつくる必要があると考える。ファンとオーナーという相反する立場が

私の中に併存していて、その間で葛藤を繰り返すのです。そこから生まれる

「迷い」が、オリックス球団の長期低迷につながったのかもしれません。

 

 球団の成績が振るわなかったのは、歴代の監督や選手ではなく、

すべて経営トップだった私に責任がある――。

こうした自戒の念も込めて、34年の歴史について記していきます。

 

 

「イチローと仰木マジック」がチームを変えた 

オリックス宮内氏の証言 2023.12.26 日経ビジネス

 

前回の、オリックス宮内氏「後にも先にもない『デュュ―デリなし』での決断」に

続く今回のテーマは、「イチローの登場と球団改革」だ。(日経ビジネス編集部)

 

 買収後の4シーズン目を迎え、ようやくオーナーとしての振る舞いも覚えてきた1992年2月。春の陽気を求め、沖縄県糸満市と那覇市で行われていた

春季キャンプを視察した時のことです。当時は、オーナーがキャンプを視察すると、

新人選手を紹介してくれるのが慣例でした。

 

 「彼はいずれ中軸を打つ存在になりますよ」

2軍の練習場を訪れると、担当スカウトがこう声をかけてきました。

その視線の先を見ると、線が細く色白で、少年のようないでたちの選手が

打撃練習をしています。高校をまだ卒業していない18歳。

即戦力ではなく、これからじっくりと育てていく選手です。

普通ならあまり印象に残らない選手かもしれません。ですが、どうも他と違う。

未完成な体つきながら、打球音が違うんです。確実に芯を食う、いわゆるシュアな

バッティングができている。そんな不思議な存在こそが、背番号51を付けていた

鈴木一朗選手。そう、「イチロー」です。

 

1991年12月、オリックスに入団が決まり、写真に納まる鈴木一朗(イチロー)選手(後列左から2人目)。(写真=共同通信)

1991年12月、オリックスに入団が決まり、写真に納まる鈴木一朗(イチロー)選手(後列左から2人目)。(写真=共同通信)

 

 「彼は非常にスイングが速いんです。速球にも対応できて、

もうちょっと体を鍛えたら中核バッターになるでしょう」

 

 担当スカウトは熱を込めてプレゼンしてくれました。

担当スカウトにとって、自分が見つけてきた選手とはそういうものなのです。

投球練習場を見にいくと、全然ストライクが入らないピッチャーでも、

スカウトたちは「制球力をつけたら必ず先発の一翼を担います」と胸を張る。

それだったら、オリックスはエースだらけになって毎年優勝しているはずですが、

そうはならないのがまたプロ野球の面白いところでもあります。

いずれにせよ、縁があってオリックスという組織に入ってきてくれた原石の存在は

毎回、私に希望を感じさせてくれます。球団の選手も会社の社員も、です。

自社や自軍にとってだけでなく、彼らの人生にとっても、素晴らしい結果に

つながってほしい。いつもそう願っていました。

担当スカウトの慧眼、ドラフト4位獲得の賭け

 イチロー選手は愛工大名電高時代、エースとして春の甲子園に出場を果たすも、

あえなく初戦で敗退。当時中部地区を担当していたスカウトが、投手ではなく

野手としての力量を見抜いて、91年のドラフト会議で4位指名しました。

 

 他球団もイチロー選手の存在は分かっていたものの、やはり「線が細すぎる」

いう評価だったとか。そんな未完の高卒選手を、ドラフト4位で指名する。

これにはスカウトの慧眼と編成の覚悟が不可欠です。当時のオリックスは

ブレーブスからブルーウェーブへとチーム名を変え、本拠地を神戸に移転した1年目。

新たな地で心機一転、市民球団としてスタートしたものの、

人気という点では、まだまだ突き抜けたものがありませんでした。

もっとドラスティックに選手の入れ替えをすればよかったのかもしれません。

ただ、プロ野球について素人の会社が経営し始めたから後手に回ってしまった。

ずるずると主力選手の引退が続いたブレーブスを引きずっていたために、

変革が遅れてしまったことは否めません。

イチロー選手に象徴する「新しい軍団」ができるのに数年かかったわけです。

イチローをあえて使わなかった土井監督

 イチロー選手といえば仰木彬監督をイメージする人も多いでしょう。ただ、

イチロー選手の育て方についての評価では、実は土井正三監督が割を食っている

のです。土井さんは「イチロー選手を全然1軍に上げず、見る目がなかった」と

後によく言われました。ですが、真実はそうではありません。

土井監督も非常に早い段階からイチロー選手のすごさを分かっていました。ただ、

いかんせん体が出来上がっていなかった。だからまだ使ってはいけないと思っていたのです。最近で言えば千葉ロッテマリーンズにドラフトの目玉として入団した佐々木朗希投手を、球団がじっくり時間をかけて育成してきました。それと同じです。

 

 半年強も続くプロ野球シーズン。いくら他の高校生よりも身体能力が

高いとはいえ、プロ野球選手として1シーズンを乗り切る体力はありません。

選手としての身体を仕上げる時間が必要だったのです。

 

 仰木監督へと代わり、イチロー選手が大ブレークしたのは入団3年目の94年。

シーズン210安打のプロ野球記録を樹立しました。50年に記録された191本という

それまでの記録を大幅に上回る前人未到の成績を20歳の若きスターが残し、

プロ野球界の歴史を変えたのです。その後、記録は塗り替えられていますが、

当時は、シーズンが130試合で今よりも10試合以上少ない。

イチロー選手の偉業が色あせることはありません。

 

    入団3年目の94年、プロ野球史上初のシーズン200本安打を本拠地で達成し、最終的にシーズン210安打に到達した

入団3年目の94年、プロ野球史上初のシーズン200本安打を

本拠地で達成し、最終的にシーズン210安打に到達した

 

 イチロー選手は野球の虫ですね。本当に心から野球が好きなのでしょう。初めて

シーズン200安打を達成した日も、試合後にずっと素振りをしていたそうです。

普通だったら飲みに行くなどして盛大にお祝いをしそうなものですが、それでも

野球に打ち込む。それが、メジャーでも一流の選手になった礎なのだと思います。

 

 「仰木さんはさすがだ」と思うのが、鈴木一朗から「イチロー」への登録名変更

です。佐藤和弘選手も、あだ名であった「パンチ」に登録名を変えるなど、

今までの常識を覆すユニークな発想を持っていた。

監督だけではありません。「ウグイス嬢」という言葉がよく使われていたように、

かつては球場のアナウンスを務めるのは女性が一般的でした。

本拠地の神戸で、ラジオのDJ(ディスクジョッキー)のような陽気な男性が

「イチロー・スズキ!」と紹介するのも球界で話題になりました。

チームの編成や事務方など、球団が一つになって新たな取り組みを始めていた。

その結果、阪急時代から続いた「スタジアムに閑古鳥が鳴く」という状況が

徐々になくなっていったのです。

 

 新生スターの登場に沸いた94年は、西武ライオンズがパ・リーグを制しました。

イチロー選手は野手としてプロ野球最年少でのMVPを受賞。

オリックスはリーグ2位 と健闘しました。新たな布陣で、いよいよ優勝を

目指せるところまで来たと確信を持ちました。

 

 私たちのホームタウンである神戸を大きな揺れが襲ったのは、そのすぐ後でした。

 

 

1回目の連載~イチローまで( 一部や全部upしているので )飛ばしています。

もし、もっと知りたい人はググって読んで下さい 笑ううさぎ 野球

 

球団を買収した目的( 宣伝効果 )を忘れて、赤字を減らそうとした為に、優勝争いもできず万年Bクラス。その人達の立場から考えると難しいけれど、一番に何を目的に

して進めたらいいのかを考えると、自ずと答えは出るはずのが分かりました ニコニコ おばあちゃん虹

 

2022年1月22日に宮内オーナーが今期で勇退すると発表。

その年にパ・リーグ優勝し日本一に輝きましたが、

同年2月1日のキャンプインを前に、阪神タイガースの矢野燿大監督が

今季限りでの退任を表明し開幕から9連敗。明暗分かれましたが、

その後、「あの時は怖かった!」と言っていました ムキー パンチ!パンチ!

 

糸井さんが番組で「矢野監督から、今期調子が良くても、俺はお前を使わない!」と

言われたといっていました。相手が金本さんだから言ったと思います 照れ虹 パンチ!パンチ!

 

イチロー選手がTVで、土井監督のことを言っていたので、

そこで本当のことが分かりました。( 宮内オーナーと同じ )

そして、仰木監督と出会い、文句(注文もなく)自由にさせてもらったと。

2日前に、解説で野茂英雄さんも同じようなことを言ってました。

占い師の母も「ダイヤの原石で磨けば光る。自分で磨きなさい」と言っていましたおばあちゃん

 

 

純ちゃんに嫌な事をしてこないで! 咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、

体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、、

体などを痛くしない。身体を暑くしないで、イレ関係も。脅さないで!  プンプン 爆弾

 

【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、

「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト! プンプン

その技術を使わないで!


 

TV等の撮影でスタッフに付いて行って、ロケや取材等の邪魔をしないで ムキー パンチ!

束縛、嫉妬や執着、妬み、依存を止めて、人に嫌な事をしてこないで パンチ!パンチ!

人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこない。トイレ等禁止 プンプンパンチ!パンチ!

思考低下、頭を空っぽにしないで!仕事の邪魔や記憶障害にしない。 目の錯覚、

老眼近視、他人に言われたことを人に言わさない。心の中に持って来ない ムキー爆弾パンチ!

ブログを書いている時邪魔しない!自分で考えて書いて。深夜に連絡してこないパンチ!パンチ!

負けず嫌いも程々に高圧的な態度禁止。口臭も。咳込まさない。毒舌禁止、

散財させないで、調子づかないで、無理強いしないで、身体を暑くしないで プンプン パンチ!パンチ!

乗り物関係を運転時は邪魔をしない。中枢神経を触って来ない。頭を重くしないで!

人の感情やパワーを抑えない、唇を痺れさせない。人をコントロールしないで パンチ!

マウントを取って来ない、過保護にしない! 耳を痛くしないで!あの母親のパワーが

胃の付に感じて、あの子が後ろに憑き、あの三女が遠隔でコントロールしてくるの

止めて!あの親子、両依存水晶を使って人を脅さない。個人情報保護法、

プライバシー侵害しない! 日本には言論や表現の自由がある ムキーパンチ!パンチ!パンチ! 

その力、仕事以外に使わないで人の為に使って、決して悪いように使わないで。パンチ!パンチ!

 

全責任は、お母さん達に取ってもらう。 もちろん本人にも取ってもらう!

あの長男、人のPCやスマホに侵入してきて、ハッカーのようにしてこないで パンチ!パンチ!パンチ!むかっ

長女のパワーを使わない! 上記に書いていることは、みんなのことを指す 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。

アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )

契約書を読んで!約束を破るとペナルティーが、母との勝負を忘れないでムキー爆弾パンチ!パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート