2020.12.10(木) 07:10
福岡ダイエーの球団本部長、球団代表を務めた瀬戸山隆三氏※写真提供:Full-Count
【第1回】福岡ダイエーの中内功社長は、
南海買収後の新球団は神戸を熱望
2020年のプロ野球は福岡ソフトバンクが圧倒的な強さを見せつけ日本シリーズ
4連覇を飾った。V9の巨人以来、2チーム目の4連覇となり、日本シリーズの連勝
記録を12に伸ばしポストシーズンの連勝も16。投打でスター選手を揃え12球団
随一の育成力で “常勝軍団” を作り上げたが、ホークスの福岡移転となった
1988年は苦しいスタートだった。当時、福岡ダイエーの球団経営に携わり
球団本部長、球団代表を務めた瀬戸山隆三氏が福岡移転の真相、王貞治監督誕生など当時を振り返る。第1回は福岡移転。
福岡ダイエーホークスが誕生したのは1988年オフ。南海を買収し翌年から新天地・福岡でスタートを切ることになるが、その役割を全うしたのが瀬戸山氏だった。中内功社長に呼ばれ鈴木達郎専務と共に買収調査を命じられた。中内社長は福岡ダイエーのお膝元・神戸に本拠地を置くことを熱望していたが厳しい現状が待っていた。
南海から伝えられていた前年のシーズン観客動員数は88万人だったが実際には
30万人だったことが判明。赤字も30億円ほどあり神戸を本拠地とした球団経営が
成り立つのかは未知数だった。
「当時、関西ではパ・リーグは阪急、近鉄と閑古鳥が鳴く状況。セ・リーグは圧倒的人気を誇る阪神がいましたから果たして神戸で成功することができるのか、と。
そんな状況の中、福岡の青年会議所が熱心に誘致を行っていると聞き何度も足を
運んだ。プロ野球誘致に向けた100万人の署名もあり、ビジネスの観点から
いっても福岡だった」
「やるからには日本一のチーム、経営を目指す」
かつて南海と激しい戦いを繰り広げた西鉄ライオンズ (その後、太平洋クラブ、
クラウンライター) が福岡の地を去り10年が経ち、地元民はプロ野球を求めていた。さらに福岡ダイエーが福岡で球団を持てば九州全体の下地を引き、アジア進出に
向けても格好の宣伝となる。
さらに、当時のパ・リーグ会長だった堀新助氏が口にしていた「これからの野球は地方の時代になっていく」という言葉も “武器” にしてデータを交え中内社長を
説得すると、思いのほかすんなりと福岡移転の話は進んでいった。
南海から買収に向けた条件は3つ。(1) ホークスの名を残すこと
(2) 杉浦忠監督をそのまま起用すること (3) 選手、首脳陣、球団社員は希望する
ものを全員連れていくこと。これら、すべての条件を飲み、さらに社員には
モチベーションを上げるため給料は現状維持ではなく1.2~1.5倍を提示するなど
中内社長も全面的にバックアップしたのだ。
「ああ見えて中内さんは柔軟性があった。2か月はかかりましたが何とか説得することができた。やるからには日本一のチーム、経営を目指すと大きな目標を立てていた」
本拠地は平和台球場に決まり、いよいよ福岡ダイエーホークスがスタートを
切ったが、中内社長はより壮大な計画を実現させるため動いていた。巨人の本拠地・東京ドームを超える、日本初の開閉式屋根を持つ福岡ドームの誕生だった。
【第2回】「このチームは同好会、全部入れ替える」
弱小ホークスを変えた “球界の寝業師” 2020.12.14 07:10
ドーム球場と商業施設のドームが並ぶ「ツインドーム」計画
2020年のプロ野球は、ソフトバンクが圧倒的な強さを見せつけ日本シリーズ4連覇を飾った。投打でスター選手を揃え12球団随一の育成力で “常勝軍団” を作り上げたが、ホークスの福岡移転となった1988年は苦しいスタートだった。当時、ダイエーの球団経営に携わり球団本部長、球団代表を務めた瀬戸山隆三氏が福岡移転の真相、
王貞治監督誕生など当時を振り返る。第2回は福岡ドーム誕生、根本陸夫氏。
1992年に福岡ドームが誕生した。日本初の開閉式屋根を持ちドーム球場の広さでは日本一を誇るホークスの目玉だった。本来はドーム球場と商業施設のドームを
「ツインドーム」としてホテルを併設するテーマパーク化する計画で落ち着いて
いたが一方は断念することになった。
「中内さんは『この国の野球を変えないといかん。巨人を超える日本一のチーム、
世界一のドームを作る』と大きな目標を立てていた。残念ながらツインドームは
実現しなかったが、そういった構想を持っていた方だった。
ああいう球場を作ったのは、強いチーム作りのスタートとなったと思っている。
あの時の中内さんの意気込み、心意気があったから今があると思っている」
巨人を倒すための戦力補強にも余念がなかった。1993年のドラフトでは巨人と
競合の末に小久保裕紀を獲得するなど城島健司、井口資仁、松中信彦、斉藤和巳ら
将来のスター候補たちを次々に獲得した。小久保には関しては、巨人が一歩リード
している状況だったが「中内さんは『俺の前に連れてくることはできるだろ』と
言って(笑)。どんな状況でも最後まで諦めてなかった、巨人が相手だったという
こともあるかもしれない」と死力を尽くした。
根本監督からは「全部、引き継げると思ったら
大きな間違いだぞ」
Bクラスが続く中、1993年には “球界の寝業師” として辣腕を振るっていた
根本陸夫氏を監督として招聘。現場、フロントと全権を託し改革も行った。
中内オーナーは根本氏に「こいつ(瀬戸山氏)を鍛えてやってほしい。野球界の
人脈、どうしたら強くなるか教えてやってほしい」と伝えたようだが、その後に
根本氏と2人で会った際には「全部、引き継げると思ったら大きな間違いだぞ。
もし、助けてほしいことがあったらお前から言ってこい」と厳しい指導を受けた。
様々な改革を行った根本氏だが「このチームは同好会だ。全部入れ替える、
オールメンバーチェンジだ」と、“血の入れ替え” を決行。
西武から秋山幸二外野手、渡辺智男投手、内山智之投手をトレードで獲得するなど、ドラフトでも上記のような選手たちを加えチームを活性化させた。
日本一のチームを実現する中内オーナーの思いは、現在のソフトバンクホークスが
引継ぎ、今シーズンはリーグ優勝、そして巨人を下し日本一に輝くことで成し遂げ
られたのだった。昨季も巨人を下し日本シリーズを制したが、パ・リーグ2位から
クライマックスシリーズを勝ち抜いたもの。セ・パの王者として対峙したのは
2000年の「ON決戦」以来、20年ぶり。当時は、敵地で連勝しながら4連敗で
敗戦したがようやく当時の “借り” を返した。
ホークスを語る上で外せないのが王貞治の存在。瀬戸山氏は、
中内オーナーと根本監督から、失敗は許されない重大な任務を受けることになる。
【第3回】常勝ホークス築いた王貞治監督の招聘
球団史上最大の任務は月イチの“サシ飯” 2020.12.17 07:50
根本監督は次期監督に王貞治を指名「近々、
ワンちゃんに会う。自分の次の監督だ。お前も来い」
2020年のプロ野球は、ソフトバンクが圧倒的な強さを見せつけ日本シリーズ4連覇を飾った。投打でスター選手を揃え12球団随一の育成力で “常勝軍団” を作り上げたが、ホークスの福岡移転となった1988年は苦しいスタートだった。当時、ダイエーの球団経営に携わり球団本部長、球団代表を務めた瀬戸山隆三氏が福岡移転の真相、
王貞治監督誕生など当時を振り返る。第3回は王貞治監督の誕生。
1994年、根本陸夫監督が指揮するダイエーは、一時は首位争いを続けたが
69勝60敗1分でリーグ4位とBクラスに終わる。だが、このシーズン前には、
王貞治氏の招聘は着実に進んでいた。
「近々、ワンちゃんに会う。自分の次の監督だ。お前も来い」
1月に東京都内のフランス料理店で根本監督、瀬戸山氏、王氏の3人が顔を合わせた。巨人の黄金期を築いた王、長嶋の「ON」が日本シリーズでプロ野球を盛り上げる
王ホークス、長嶋巨人の “ON決戦” 構想を実現させるためのものだった。
根本監督は「中内さんは、ワンちゃんのために福岡ドームを作った。プロ野球界も人気に陰りが見える。この流れを変えるには20世紀の間にON対決をやるしかない。
ワンちゃんのチームを作ってくれ。何でも協力するし金はいくら使ってもいい。
来年でも何年か先でもいいから」と思いをぶつけた。だが、突然の誘いに王氏は乗り気ではなかった。「私は巨人、セ・リーグの野球しか知りません。東京の人間なので…」。根本監督はその場で答えを求めることはなく「わかった、俺は2月からユニ
ホームを着るからもう会えない。いい答えがもらえるまでコイツ(瀬戸山)が会いに行く。なので必ず月1回は会ってくれ」と瀬戸山氏を “交渉人” として送り出した。
王氏からは、逆に気を遣われる「大変な役割ですね」
そこから “世界の王” と月1回の会食が始まった。食事はのどを通らず、緊張感に
満ち溢れた空間。瀬戸山氏のプレッシャーを感じ取っていた王氏は「大変な役割
ですね」と逆に気遣うほどだった。2、3、4月と会うが話合いは堂々巡り。だが、
5月に「野球人なのでユニホームを着たくない訳ではない」と風向きが変わった。
「何を食べたか思い出せないぐらい緊張してました。回数を重ねるうちに
お酒の力も借りてある程度話せるようになりましたが相手は “世界の王” ですから。
球団としても絶対に失敗できない、とんでもないプレッシャーでした」
月1回、熱心に東京に通い続けていた瀬戸山氏は初めて手応えを感じた。
そして6月には「やっぱりユニホームは着たいものですね」と変わり、
これで確信を得えると勝負に出た。「次は中内を連れてきていいですか?」。
王氏の返事は「大丈夫です」だった。
7月には球団フロント総出で東京に出向き、王氏と最後の意思確認を行い
「ダイエー・王貞治監督」が正式に決まった。
シーズンでBクラスに終わったが根本監督の顔は晴れ晴れとしていた。
「瀬戸山、来年からはワンちゃんが指揮を執る。世話になったな」
打倒巨人、日本一を掲げ1995年から始まった王政権だが、当初は苦難の
連続だった。そして1996年には球史に残る「生卵事件」が起こってしまう。
(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)
この買収の話は有名ですが、まさか、南海ホークス側が球団を高く売りたいために
嘘を言っていたとは知りませんでした。本当に中内さんは、球団を持ちたかったので
相手が言った条件を全部飲み、柔軟に対応して行ったのが分かりました
伊勢物語のあらすじ
9 東下り ここはしっかり学んでください
むかしおとこありけりそのおとこ身をえうなき物に思なして京にはあらしあつまの方にすむへきくにもとめにとてゆきけりもとより友とする人ひとりふたりしていきけりみちしれる人もなくてまとひいきけりみかはのくにやつはしといふ所にいたりぬそこをやつはしといひけるは水ゆく河のくもてなれははしをやつわたせるによりてなむやつはしといひけるそのさはのほとりの木のかけにおりゐてかれいひくひけりそのさはにかきつはたいとおもしろくさきたりそれをみてある人のいはくかきつはたといふいつもしをくのかみにすへてたひの心よめといひけれはよめる
歌
から衣きつゝなれにしつましあれははるきぬるたひをしそ思ふ
とよめりけれはみな人かれいひのうへになみたおとしてほとひにけりゆきてするかのくにゝいたりぬうつの山にいたりてわかいらむとするみちはいとくらうほそきにつたかえてはしけり物心ほそくすゝろなるめをみることゝ思ふにす行者あひたりかゝるみちはいかてかいまするといふをみれはみし人なりけり京にその人の御もとにとてふみかきてつく
歌
するかなるうつの山へのうつゝにもゆめにも人のあはぬなりけり
ふしの山をみれはさ月つこもり雪いとしろうふれり
歌
時しらぬ山はふしのねいつとてかかのこまたらにゆきのふるらん
その山はこゝにたとへはひえの山をはたちはかりかさねあけたらんほとしてなりはしほしりのやうになんありける猶ゆきて武藏のくにとしもつふさの國との中にいとおほきなる河ありそれをすみた河といふその河のほとりにむれゐておもひやれはかきりなくとをくもきにけるかな とわひあへるにわたしもりはやふねにのれ日もくれぬといふにのりてわたらんとするにみな人物わひしくて京に思ふ人なきにしもあらすさるおりにしろきとりのはしとあしとあかきしきのおほきさなるみつのうへにあそひつゝいをゝくふ京にはみえぬとりなれは人々みしらすわたしもりにとひけれはこれなむ宮ことりといふをきゝて
歌
名にしおはゝいさ事とはん宮こ鳥わかおもふ人はありやなしやと
とよめりけれは舟こそりてなきにけり
現代語訳
昔、男がいた。その男、自分を世の中には無用の人間であると思い込んで、
「京には住まないつもりだ。東国の方に住める国を探しにいく」ということで
出かけて行った。昔からの友人一人二人と連れ立って行った。道を知っている人も
いなくてあちこち迷いながら行ったのだった。三河の八橋という所に着いた。
そこを八橋というのは、水が流れていく川が蜘蛛の手のように八方に分かれていて、橋を八つ渡してあることから八橋といったのである。その沢のほとりの木蔭に馬から降りて座って、乾飯を食べた。その沢に、かきつばたがとてもきれいに咲いていた。それを見てある人が、「かきつばたという五文字を各句の頭に置いて、
旅の心情を詠みなさい」と言ったので、男は詠んだ。
歌
着て馴れ親しんだような妻が都に居るものだから
はるばるとこんなに遠くまで来てしまった旅を悲しく思うのです
すると、皆の乾飯の上にポロポロと涙が落ちて乾飯はふやけてしまったのだった。
更に行き進んで駿河の国に着いた宇津の山に着いて、自分の分け入ろうとする道はひどく暗くまた細い上に、蔦や楓が生い茂り、なんとも心細く、またとんでもない
目に遭うことだろうと思っていると、偶然に修行者とばったり出くわした。「こんな道にどうして居られるのですか」と言うのを見ると、それは京で知っている人であった。京にいるあの方の所に届けてもらうということで、手紙を書いてことづけた。
歌
駿河の国にある、宇津の山辺の来てみると
現実でも夢でも、あなたに逢えないのでした
富士の山を見ると、五月も末だというのに、雪がとても白く降り積もっている。
歌
雪が降る時期というものを知らない山は、この富士の嶺なのだ
一体今がいつだと思って、鹿の子にまだら模様に、雪が降るのだろうか
その富士の山は、京に例えれば比叡山を二十個ほど積み重ね上げた程で、
恰好は塩尻のようであった。
更にどんどん行くと、武蔵の国と下総の国との間に、かなり大きな川がある。
それを隅田川という。その川のほとりに群れをなして、京に思いをはせれば、
限りなく遠くに来てしまったのだなあと悲しみを分かちあっていると、渡し守が、「早く舟に乗れ。日も暮れてしまう」と言うので、乗って渡ろうとするのだが、
皆わびしくて辛い思いである。というのも、京に恋慕う人が居ないわけでは
なかったからである。丁度そんな時に、白い鳥でクチバシと脚とが赤く、
鴫ぐらいの大きさの鳥が、水の上で遊びながら魚を捕らえて食べている。
京では見たこともない鳥なので、誰も知っていなかった。
渡し守に聞くと、「これが、ほら、都鳥というのですよ」と言うのを聞いて、
歌
都という名を持っているならば、さあ聞いてみようよ、あの都鳥に
私の愛する人が、まだ健やかに生きているのかいないのかと
と詠んだものだから、舟の一行は皆いっせいに泣いたのであった。
補足説明
八橋=愛知県知立町大字八橋
ここは、今でも有名多くの人が訪れています
かれいひ・ほしい 乾飯。旅行に持っていった携帯用食料
戦の時も携行した。
あまり変わらないので省略します。
でも、占い師の母との3つの勝負( 約束は必ず守って )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました