尾崎豊が、真夏の深夜に急に「たこ焼きを買ってきてほしい」とスタッフに言って
買いに行き買ってきたら要らないと言った。
やしきたかじんさんも同じような事があったとTVで言っていました。たこ焼き。
スタッフが、「こんな時間 (深夜) にないです」と言うと、大阪中、探し回ったんか~と
言って買いに行かせて、買ってきたら「いらん!」と言ったと。
=あの姉妹が人を試して遊んでいた。
純ちゃんも、ある雑誌を買ってきてほしいと言われ、書店へ行き無かったと言うと、
たかじんさんみたいに同じ言葉が返ってきました。和歌山中探したんか~!
結局3~4件行き、ありました。やればできると言われたことを思い出しました。
尾崎豊さんは、ワガママだと言われていましたが本当は純粋な誠実な人でした。
女性関係も酷いと言われていましたが、そんなことはないです。
付き合っていた時から、束縛や嫉妬が凄かったと。感情の起伏が激しかった。
体調不良や人間不信にされていた。人に依存させられていた。
1988年
結婚をした後、刑務所で観た斉藤由貴さんと雑誌で対談をさせてほしいとお願いをして
実現後、恋に落ちたと言われて離婚の話後、調停まで行き結局、取り下げて
1年後に自宅に帰ってきた時に奥さんから聞かれ「かかかかか」と言われたと。
本当は、最愛の人は奥さんだった。斉藤由貴さんとは疑似恋愛だったんです。
カバンを取り上げて帰らないようにした尾崎だったけど、あれはさせられていた。
1988年2月21日(日)大阪城ホールで明治製菓主催で中森明菜イベントがあり
新曲「アルマージ」を歌いに来ていました。私もこの時、参加していました。
尾崎豊が1987年12月22日、ビニール袋に入れた覚せい剤を、
自宅トイレの貯水タンクに隠していた。逮捕。
1988年1月11日、覚せい剤取締法違反で起訴、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決。
1月21、22、25、26日に予定されていた初の日本武道館公演が幻に終わる。
逮捕されて1988年2月22日(月)「東京拘置所」 から釈放。
約3か月のその間の大半は「東京拘置所」にいました。
1991年3月、雑誌『 月刊カドカワ 』での対談がきっかけとなった
女優・斉藤由貴との不倫が発覚。その後10月に別離したことが報じられる。
同年5月20日、3年ぶりのライブツアーが横浜アリーナでスタート。
10月30日、代々木オリンピックプールにてライブを行う。結果的に生涯最後のライブと
なった。生前最後に歌った曲はオーディションでも歌われた「ダンスホール」。
1991年12月29日、母親が急死。
1988年2月23~25日名古屋アベック事件が起きた。凶悪事件NO.3
1992年(平成4年)
4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて泥酔状態で発見され、警察に通報される。救急車で墨田区の白鬚橋病院に運ばれ診察を受け、妻と兄とともに自宅マンションに帰宅
する。その後、夫人、兄、マネージャーが見守るなか、自宅マンションで暴れたり眠ったりを
繰り返しながら、突如危篤状態となり、救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容される。
蘇生措置がされるが午後0時6分に死亡。26歳没
人物
クールで尖ったイメージのある尾崎だが、プライベートの尾崎は明るい好青年であった。
当時はロックバンド「OZONE」でボーカルとして活躍し、尾崎と同じCBS・ソニーに所属していた俳優の坂上忍は、インタビューで「尾崎はいつも暗い顔して写真に写ってたけど、プライ
ベートはホントに明るくて。こっちのほうがよっぽど暗かったですから。『忍ちゃーん!』とか
言って登場して来るぐらいですからね」と語っている。別の対談では、坂上は尾崎のファー
スト・アルバムを聴いて「クドくない?」と思ったという。坂上は一度だけ尾崎と2人きりで
飲む機会があったが、そこで尾崎から「もう曲が書けない」という本音を聞いた。
それでも尾崎が(吉川晃司、本田恭章を含めた)4人の中では最後まで歌い続けるだろうと
思ったが、26歳の若さで誰よりも先に亡くなるとは信じられなかったと語っている。
2013年12月1日にWOWOWで放送された『 尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY 』で、
尾崎の曲のアレンジャーも務めたギタリストの町支寛二は「話を交わすときはいつも純真な
青年ってイメージで。だから初めてライブを観に行ったとき、スイッチがひとつ入っちゃう感じに鳥肌が立ちましたね」と述べた。また、RED WARRIORSの小川清史は「リハーサルの間に「実は尾崎、俺『 Bow!』って曲凄く好きなんだ」って言ったら、顔をくしゃくしゃにして
『 本当? 』って喜んでくれて」と語っている。
1991年(平成3年)の「1991 BIRTH TOUR」のサポート・ベーシストを務めた渡辺茂は
「初対面のときに、それまでいろんな仲間から変わってる奴だと散々聞いてたが、普段は
礼儀正しくて大人しかった。でもステージの上では破壊的で、跳ぶわ、ピアノの上に寝るわで
びっくりしました」と述べた。サクソフォーンを担当した関誠一郎は「服装は派手だけど、
普通の人で、気さくな感じだ」と、パーカッションの里村美和は「熊本(熊本県・阿蘇で
行われたロックイベントBEAT CHILDのこと)で僕が佐野元春とやってるときに初めて
会ったんだけど、真面目で礼儀正しいやつだと思った」と語っている。
また、10代のころは尾崎自身のカリスマ性やイメージを保つために、写真はすべて
モノクロームで掲載され、笑顔の写真も自粛された。
バックバンド
尾崎のバックバンドは、ツアーやライブごとに名称やメンバーが異なっている。
「Heart Of Klaxon」を参照
尾崎の交友関係
尾崎の友人の一人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人は1984年(昭和59年)8月5日に日比谷野外音楽堂で開催予定だった「TOKYO ROCK FEELING FESTIVAL」で
共演しようとしたが、尾崎が前日の「アトミック・カフェ」出演中に足を骨折してしまい、
実現しなかった。その後、無期限活動休止中の1986年(昭和61年)1月31日に
HOUND DOGの日本武道館での公演で吉川と共演している。
吉川のほか、岡村靖幸、金山一彦、RED WARRIORS、渡辺美里、川上麻衣子、白井貴子、
中村あゆみ、南野陽子、白竜、村上龍、坂本龍一、米米CLUBの石井竜也、チェッカーズの
藤井フミヤ、沢木耕太郎、筑紫哲也、元横綱の北勝海との交流もあり、大友康平、泉谷しげる、キラー・カーン、本田恭章、坂上忍、横山蒼空、とんねるずの石橋貴明、中山秀征、
加藤登紀子、Mr.Childrenの桜井和寿、福山雅治、小田和正なども素の尾崎を懐かしむ
コメントを出している。光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、
よく夜の六本木で遊んでいた。また、俳優・歌手の高橋克典は青山学院高等部の1年先輩で、
さらにバレーボール全日本女子元代表・ロサンゼルス五輪銅メダリストの中田久美は
練馬東中学校の同級生で、1年生の時同じクラスメートだったという。
オーディション受賞が同じだった辻仁成とはニューヨーク滞在時にも会っており、
自身の悩みを相談していた関係であった。
1984年8月4日ライトの鉄橋に登り、そこから尾崎豊さんが7m下に飛び降りさせられたのを
見ていたのが、ライティグを担当していた武中さんでした
死因について
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当初の公表と死体検案書との乖離
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初めは事件性がないとして行政解剖が行われる予定だった。しかし千住署、警視庁、
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切り替えられ、午前10時から東京監察医務院の医師らによって検視、その後解剖が行われた。その結果、死因は肺に水がたまる肺水腫であると発表され、極度の飲酒によるものだと考えられた。しかし1994年(平成6年)、司法解剖時に尾崎の体内から覚醒剤が検出されていたことが
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明らかとなった。覚醒剤について記された「死体検案書」がマスコミに流出すると、
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尾崎の死因について様々な憶測を呼んだ。
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なぜ2年後に新たなことが分かり、「死体検案書」がマスコミに流出したのか?
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吹石さんの弟が母親に頼まれて、情報が抜き取り雑誌社にリークをした
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司法解剖医による見解
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検視を担当した支倉逸人によれば、尾崎の死因は肺水腫であることのみを発表し、肺水腫の
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原因が覚醒剤中毒であることは伏せられていた。中毒は経時的な悪化によるものではなく、
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大量の覚醒剤服用(オーバードース、薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が
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引き起こした肺水腫と結論づけられている。
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内臓も覚醒剤を経口摂取した形跡があり、肺にも覚醒剤中毒の症状が見られたという。
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他殺の疑惑
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尾崎の遺体には全身のほとんどに多数の傷やあざがあり、亡くなった当初は傷害致死の
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可能性も指摘された。しかし警察は状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた
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結果、他者からの暴行によって生じるものとは異なる状態であったとの記述がある。
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またそれを裏付けるように尾崎が転倒したり暴れて転げ回っていたという証言を警官が
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確認しており、このような異常行動は覚醒剤中毒者によく見られるものである。
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なお、支倉によれば頭部に小さな外傷性くも膜下出血も確認されているが極めて微量の
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出血であり、死に至るほどの重症ではなかったという。
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1994年(平成6年)にはテレビ朝日が、流出した「死体検案書」のコピーやジャーナリストが取材した結果を元に妻と知人が覚醒剤を飲ませて殺害したとする説を主張、尾崎の死を検証する番組を制作した。ところが尾崎の妻がテレビ朝日と記事を執筆したジャーナリストを相手取り
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訴訟を起こしたため、番組はお蔵入りとなり放送されることはなかった。結果は原告の
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尾崎の妻が一審・二審・最高裁すべてで勝訴した。テレビ朝日は一審判決後原告と和解。
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尾崎の写真と死体検案書が掲載された。しかし、この記事は検死を行った支倉に対して
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一切の取材を行わずに書かれたものであったことが著書で述べられている
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支倉は著書内で覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには
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酒と同じくらい確実性が高いと述べている。
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2007年夏頃に、尾崎豊さんが死に至る前までをあるジャーナリストに告白している。
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それは、尾崎を呼び出し後、暴行をしてお酒に麻薬を入れて無理矢理飲ませ、
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近くの民家に尾崎を置いて立ち去った。この暴力団員は、余命が数が月なので真実を話そうと
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思ったと。言えないことは、【 墓場まで持って行く!】と書かれていました。
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2004年7月末に、私が占い師の母に「福山雅治さんを知っていますか?」「知らない」と
その後、母が水晶で占ったので、「福山くん、尾崎くんみたいになるよ!」
【 私しか助けられない!(救えない)】【 そうなってほしくなかったら頑張りなさい!】と
【 命まで取られないから 】占い師の母が言ってました。
尾崎豊さんは、何かあると幻冬舎の見城徹さんに毎日のように電話をかけてきて
【 見城さん、今すぐ来てほしい!話を聞いて欲しい! 】とよく言っていた。
【 尾崎、今、仕事中で行けない 】と見城さんが尾崎に言ったと聞きましたが、
2009年~福山雅治さんも純ちゃんに電話をよくかけて来ていました。
純ちゃんが【 俺は、お前の彼女じゃない!】と言ったと聞きました
この2人、あの姉妹から嫉妬や妬み、不安、プレッシャーを持って来られていたんです。
尾崎の場合、長女のパワーが入っているから凄いプレッシャーを感じたと思います
そして、次のターゲットに見城さんや純ちゃんに憑きました。
尾崎豊さん、人間不信になり、人を試すところが出て来ました
母が韓国から連絡があり2005年3月21日映画「クイール」を観なさい。
何か感じるものがるからといられれ、本当に感じました。それがフローレンスのこと。
この前に言われたのが、あなたたちには、フローレンスはもったいない!
本当なら、もっと良い所へ行けるよな血統を持っていた。
フローレンスに似た子犬が見つかる。亡くなる前に見つけていてくれたのよ。置き土産や!
この2人(夫)あなたたちには、もったいない!
=吹石一徳さん(父親)や福山雅治さん (夫) の事だと気が付きました。
結婚しなかったら、もっと良い人が現れて幸せな家庭生活をおくれた。(夫側のこと)
平凡だけど幸せな結婚をおくれた。平凡は一番難しい。
置き土産や!=ナベプロ社長・渡辺晋さんが亡くなる前に、沢田研二さん7年越しの離婚を
成立させた。本当に好きな人( 田中裕子さん )と結婚ができ、僕の夢が叶った
あの母娘、三女に頼んで相手の潜在意識に入ったり、サンドイッチにように挟んで
好きにさせた上、過去に好きで結婚しようと寸前まで行った時の気持ちを利用した。
トリックや錯覚をさせていたのは、短期間でバレないようにするため!
政略結婚 (相手の気持ちを無視した) & 策略
相手を選んだんじゃなく、選ばされたんです。
顔がよく、ステイタス(お金)が目的だった。
ぞうさんの歌のよう。( 本当に良く似ている!)
1997年5月に、永山則夫が死刑執行される前に暴れて、刑務官たちに暴行されたのを知って、
尾崎豊さんも亡くなる前、1992年4月24日明け方に暴力団から暴力を受け、
体に傷やアザができた、その姿を撮った写真をフライデーが報じた。
暴力団がポラロイドカメラで撮り提供?リークしたとしか考えられない
上記の2人、あの姉妹と戦っていた。誰にも悩みを言えず、周りの良い人間を切らせていた。
みんなに無理難題を言ったり、嫉妬妬み、プレッシャー、不安を持って来られ
暴言を言い2人の仲を裂いた。
尾崎は復縁しましたが・・・。
渡辺晋さん、尾崎豊さんも、永山則夫も、あの2人を許せない気持ちで亡くなった
占い師の母が【 世の中、上を見れば切りがない。いかに自分よりも低い立場の
人の事を考えられるか。】母が人生は一生勉強だとも言っていました
2005年の時に、母から今年は試練の年、じっとしていても過ぎるものでもないし
無理をして乗り越えられるものでもない。言えることは気持ちをしっかり持ち
初歩的なミスを避けることを考える方が短時間に解決に近い。
分かっているようで分かっていない。
目に見えない幸福がぶら下がっていても見えない。
それを感じないのでは何年経っても同じ。
母が伝えたいのは、人間誰しもお金、地位、名誉を欲しがる
そこを損を取って得を取れ。冬の後には春が来る。そのことだけは忘れるな。と。
突き放すことも大切だし、そこで本人が気が付くことも
これから先に大いに役立つとも言っていました。
この世界では【 裏切り 】は、絶対にやってはいけない。
【 ご法度されている 】一生、付いて回ると聞いていました。
1993年10月28日W杯アメリカ大会アジア最終予選日本VSイランで日本が負けて
占い師の母と姉妹が勝負し母が勝ち、私の言うことに従うという約束があったはずなのに、
一向に守られないので、2003年8月中旬頃に吹石一恵さんが帰省した時に契約書にサイン
したんです。3つの約束事をこれからは、絶対に守ってもらいます
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました
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