【 チェッカーズのドラム 】
大人気バンド「チェッカーズ」にてドラムを担当していた徳永善也。彼は早くに
実家の父を亡くしていて、自身も40歳という若さで舌癌について亡くなってしまい
ました。今回は徳永善也の死因や闘病生活、葬儀などについてまとめてみました。
徳永善也のプロフィール
徳永善也のプロフィール
名前:徳永 善也( とくなが よしや )
生年月日:1964年6月7日
出身地:福岡県 身長:174㎝ 血液型:A型
職業:ドラマー、ミュージシャン
徳永善也の実家の父が死去?彼の結婚についても紹介
徳永善也は実家の父を早くに亡くしていた
徳永善也の父親は、地元福岡で会社を経営していたようで、亡くなったのは会社の
従業員を車で送り届けた帰り道だったようです。彼の父親は軽自動車での帰り道、
遮断機の無い踏切内で車がエンストしてしまい、立ち往生していたようです。
そこにちょうど電車が走ってきたようで、そのまま事故に遭ってしまい、
帰らぬ人となってしまいました。
父の死には、当時の所属事務所が補償などを行った。
徳永善也の父が交通事故で亡くなったことは、当時大きなニュースとなり、その事後
処理などはすべて彼の所属事務所が行ったようです。また、事故による補償なども
所属事務所が行っていて、彼は、その恩義からチェッカーズが解散したあとも
事務所に残り続けたんだそうです。
徳永善也は結婚していた?
チェッカーズは、藤井フミヤを皮切りにメンバーが続々と結婚しましたが、
徳永善也は結婚しなかったようです。なぜ彼が結婚しなかったのかは
わかりませんが、彼は生涯独身を貫いていました。
徳永善也の死因は舌癌?闘病や葬儀、お墓までを紹介
徳永善也は40歳の若さでこの世を去った
徳永善也は、2004年に40歳の若さでこの世を去りました。彼の闘病は2003年から
始まったようで、この頃彼は、チェッカーズ時代のメンバー武内享、大土井裕二、
藤井尚之とともに「アブラーズ」というバンドを結成したばかりでした。
出典:https://livedoor.blogimg.jp
徳永善也の死因は "舌癌"
徳永善也の死因については "舌癌" と発表されていて、当時は大きな
ニュースになりました。舌癌はその名の通り「舌」にできるガンのことで、
彼は舌癌発覚から入退院を繰り返していました。
ちなみに舌癌の発症者数や死亡者数は年々増加しているようで、とくに若い年代での発症が多く、女性よりも男性のほうが多く発症するんだそうです。
徳永善也の闘病生活について
徳永善也は、2003年の「アブラーズ」結成後に舌癌が発覚し、その後は
闘病生活に入り、入退院を繰り返していたそうです。ただ、その一方で
「アブラーズ」としての活動も続けていて、闘病しながらライブ出演を
繰り返すなど闘病しているようなそぶりは見せなかったようです。
ただ、当時はすでに舌癌の影響から発音が上手くできなくなっていたようですが、
チェッカーズで彼がメインボーカルを務めた「青い瞳のHight School Queen」を
披露したこともあったのだとか。
葬儀は、近親者だけで行われ、のちに送る会も行われた
徳永善也は、2004年8月17日に死去し、葬儀は近親者のみで執り行われたようです。その後、元チェッカーズの武内享、大土井裕二、藤井尚之、藤井フミヤなどが
発起人となってファンのための送る会が催されました。
送る会には、一般人の参加が認められていて、確執が噂になっていた
高杢禎彦と鶴久政治は発起人から除外されていたそうです。
生前は、チェッカーズの確執を憂いていた
徳永善也は、生前チェッカーズの解散理由にもなったメンバー同士の "確執" に
ついて憂いていたようで、亡くなる直前まで確執があるメンバー同士の和解を
求めていたのだとか。
亡くなった年の七夕には、メンバー同士の仲直りを短冊に書き記し、
「みんなが仲良く、人間関係がうまくいきますように」と書かれていたようです。
徳永善也のお墓はどこ?
徳永善也のお墓については、実家がある福岡県内にあると思われていますが、
ハッキリとした場所などはわかっていません。お墓参りに行きたいファンも
大勢いるとは思いますが、場所がわからないため、多くのファンがネットで
彼の誕生日などを祝っています。
まとめ
徳永善也は「チェッカーズ」のドラムとして活動し、解散後も音楽活動を続け、
2004年に舌癌によって亡くなってしまいました。彼が亡くなったあとは送る会も
行われ、多くのファンが彼と最後のお別れをしたようです。
ただ、その一方で彼は死ぬ間際までチェッカーズメンバーの同士の確執を憂いて
いたようで、また再びみんなで集まれることに期待を寄せていたのではないかと
思われます。ご冥福をお祈りします。
メンバーの確執が表面化したチェッカーズ クロベエの死
公開日: 更新日:
< 2004年8月 >
1983年「ギザギザハートの子守唄」でデビューして以来、ヒット曲を連発した
チェッカーズ。92年紅白出場を最後に解散した後、元メンバーはそれぞれの道に
進んだが、04年8月、ドラムス担当のクロベエこと、徳永善也が舌がんにより
亡くなった。まだ40歳の若さ。突然の訃報は世間を驚かせた。
92年に解散後、メンバーはそれぞれ音楽活動を中心に芸能界で活躍。
クロベエも93年に「リトルバッハ」というバンドを結成し、リハーサルを重ねて
95年2月、フジテレビの昼ドラマ「指輪」の主題歌「眠れぬ美女」でデビューした。
しかし、セールスが伸びず、リトルバッハはわずか3年で解散。
元メンバーとの仕事もうまくいかず、「オレ、芸能界に向いてないや、
スティック下ろすわ」と芸能活動を休止した。
その後しばらく消息不明となり、ネットの掲示板には「ファンの前に姿を
見せてください」「あなたはどこで何をしているんですか」と書き込みが続いた。
ファンの間では「広島で電器屋をやっている」「実家で犬の散歩を
しているところを目撃した」などのウワサも流れた。
その頃、クロベエはトラック運転手として生計を立てていた。「食べるために何か
仕事をしなくちゃならない」と言うクロベエに対して、元メンバーの鶴久政治は
「トラックの運転手がいいんじゃない?」と勧めたという。
募集広告を見て運送会社の正社員として採用され、元チェッカーズということを
冷やかす同僚もいる中、お菓子の配達などで働いていた。「大型免許を取得して
自分のトラックを持ちたい」とも語るほど、芸能界から離れた生活だった。
だが、その後、徐々に芸能活動を再開する。02年ごろからバンド
「WILD―G」に所属、さらに元メンバーの武内享、大土井裕二、藤井尚之らの
バンド「アブラーズ」にも参加し、本格復帰に向け準備を進めていた。
そんな時期の03年8月に舌がんが判明する。以降、入退院を繰り返すようになった。それでもクロベエは、病を押してステージに立っていた。
ライブハウスの関係者は「最近はちょっと痩せたかなあ」と思ったという。
病室では母親に「ぼく、舌溶けてるから」と冗談を言ったりもした。
04年7月にはアブラーズのライブに病室から駆けつけたが、演奏に参加したのは
1曲だけ。これが最後のステージとなり、8月17日、安らかに息を引き取った。
ただ、この時、最期をみとったのは藤井フミヤとアブラーズの3人。
鶴久と高杢禎彦は病室に入れなかったという。
というのも、高杢は03年6月に出版した「チェッカーズ」で解散の経緯などを
暴露していた。そのため、鶴久と高杢は9月13日に行われた “送る会” の
発起人からも外され、一般参加となり、マスコミも以前にも囁かれた
「遺恨の再燃か」とメンバー間の確執を報じる騒ぎになった。
ファンはクロベエの死を悲しんだが、メンバーにとっては後味の悪さも
残るお別れとなった。
【補足】
鶴久は、当時を思い起こしながら「あれはショックでしたね」と告白。
「フミヤさんと高杢さんは幼稚園のころからの幼馴染みで仲良くしてた。
2人しか分からない何かがあったと思うんですよね」と、複雑な胸中を吐露していた。
鶴久いわく「僕らの前では、何かあったのかは全然分からない」とのこと。
高杢派2人と他のメンバー4人が分かれた形になったのは “事務所に残った人間” と
“事務所を辞めた人間” に分かれただけ。「しょうがなかったんですよね。
記者会見やる時も」と、自身は微妙な立ち位置にいたことを明かしていた。
◇2004年8月9日、関電美浜発電所で蒸気漏れ事故。5人が死亡。運転中の国内
原発初の死亡事故。13日、アテネ五輪開幕。柔道8階級制覇などメダル37個。
22日、甲子園で駒大付属苫小牧高が北海道勢として初優勝。
メンバーの死でも繰り広げられたチェッカーズ
「ドロ沼の罵倒応酬」 2022年8月16日 09:58
83年に「ギザギザハートの子守唄」でデビューするや、瞬く間にトップバンドに
上り詰める。藤井フミヤを中心とした7人組グループ、チェッカーズだ。
グループでドラムを担当し、クロベエの愛称で親しまれた徳永善也が舌ガンのため
死去したのは、04年8月17日である。ところが、9月12日に予定されていた、東京・新木場「STUDIO COAST」での「送る会」前日、編集部に2枚のファクスが届いた。送信元は、元メンバーの高杢禎彦と鶴久政治の所属事務所だった。
うち1枚には「当日、11時30分から行われる記者会見において高杢、鶴久の両名は
元チェッカーズのメンバーとして、徳永善也さんを6人で送りたいという希望を持っておりましたが、残念ながらその望みはかなえられませんでした」と綴られていた。
もう1枚は、フミヤをはじめとした「送る会」発起人が高杢の事務所あてに送った
通信文で、そこには「さて、記者会見なんですが、これに関しては送る会を立ち
上げた発起人5人で行います。これまでの経緯上、そうする事が僕らの責任でもあり、義務だと思いますので、その旨ご了承ください」。
つまり、2人への「出席辞退」申し入れともとれる内容だったのだ。
高杢、鶴久と、フミヤらほかのメンバーとの確執が表面化したのは、92年の
解散から11年後、03年6月である。高杢が、解散の真相と内幕を赤裸々に
綴った著書「チェッカーズ」(新潮社)を出版したことがきっかけだった。
同著の中で高杢は〈 金のためなら恩も売る。これがチェッカーズの本質だったか!〉と、金銭トラブル、さらにフミヤの恩師に対する「忘恩」などを暴露。
それが両者の間に大きな「遺恨」を生み出したとされる。
さて、「送る会」当日、最前列に4人が並び、2人は1列空けた3列目に。
その距離が、埋めることができない両者の溝の深さを表していた。
別々に会見に臨んだ両者。フミヤは、「本自体は、デタラメな本だから
読まない方がいいよ、ってみんなに言われたので、僕は読んでいないし、
ここにいるメンバーも読んでいないと思う。溝にならないと言ったら嘘になる」
この言葉に対し、病床のクロベエを見舞うこともかなわず、死去の知らせも
親族からの電話で聞いたという高杢は猛反発し、唇を噛んだ。
「誰が僕たちをクロベエに会わせなかったのか。面会は誰ならOK、誰はダメと、
それを担当した方がいらっしゃるらしいと聞きました。残念でたまりません」
クロベエは死の1カ月前、七夕の短冊に「みんなが仲良く」と綴っていたという。
しかし、その願いはついに叶わなかったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」
「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。
藤井フミヤ、チェッカーズ曲“解禁”に透ける打算と
「フミヤは許せない」高杢禎彦の今 2021/4/21
チェッカーズ解散後に2人を引き合わせたのは2004年、元メンバーの
“クロベエ” と徳永善也さんの告別式だった。その後に高杢と鶴久を除く、
元メンバー4人のみが発起人となって「徳永善也さんを送る会」を開いたのだが、
この時のフミヤの発言が2人の仲を修復不可能なものにしてしまった。
「送る会」翌日の2004年9月13日、『週刊女性』は高杢と鶴久の独占インタビューを行なった。その中で告別式の際に、高杢とフミヤとの間でこんなやりとりが
あったことを明かしていたのだ。
インタビューに答えた高杢禎彦と鶴久政治(2004年9月)
《 フミヤから声をかけてくれたんだよ。“元気か ?” って。そりゃうれしかったよ。
解散以来12年ぶりに再会したんだから。まあ、オレらもいろいろあったけど、
やっぱりわかってくれてるんだな。そう思ってたんだけどね 》
この頃には「チェッカーズ再結成もあり」という考えもあった高杢。しかし、その後の「送る会」で彼の著書『チェッカーズ』について問われたフミヤは、「モク
(高杢)の本はデタラメって聞いてるから読んでません」とまで言い切ったのだ。
2002年に40歳で胃がんを告知されて、死を覚悟して病と闘った高杢。
それだけに “遺書” として綴った著書を “デタラメ” 呼ばわれされたこと、
何よりも徳永さんのお別れの会という席上で言い放ったことが我慢ならなかった。
当時のインタビューでは《 他人からいわれたことなら、なんとも思わないよ。
フミヤだから、ガキのことから一緒にやってきたアイツだから許せないんだ 》と、
かつての幼馴染みへの憤りと、悔しさをにじませた高杢。
「チェッカーズ再結成」は、フミヤ自身の手で葬られたのかもしれない。
「チェッカーズ」を歌いたい理由
そんなフミヤが今年になって、たったひとりで『 ギザギザ〜 』を歌うことを
半ば強引に押し進めたというわけだ。当然ながら、また歌われることを待ち望んだ
ファンも大勢いるであろうし、「抵抗があった」と話していた “ビジネス” に
なるのは間違いない。
「近年のフミヤといえば、最後にCDシングルをリリースしたのが2013年で、
それでもオリコンランキング10位止まり。その後に配信限定シングルを
3曲出していますが、やはり大ヒットとは言い難く、毎年のように開催している
コンサートツアーもマンネリ感は否めなくなっています。
そこにYouTubeなどで若い世代の間で広がっている昨今の “昭和歌謡” ブームが
来た。チェッカーズの関連動画も再生回数が伸びていることから、フミヤも
この流れに乗ろうとしたのではないでしょうか」(音楽情報サイト編集者)
彼にとって “チェッカーズ” は再浮上のための切り札であり、突如として35年ぶりに恩師に “詫び” を入れたのも曲を歌うためだったのだろうか。NHKの番組では
デビュー曲の他にも、芹澤氏が手掛けたチェッカーズの曲も披露したフミヤ。
今後は、自身のコンサートでも積極的に歌っていくのかもしれない。
これに老舗レコード会社関係者は「違和感を覚えますね」と首を傾げる。
「そもそも、芹澤さんはフミヤのためではなく、チェッカーズのために曲を作って
いたはず。かつてデビュー間もないチェッカーズに今後も楽曲を提供する上で、
芹澤さんがメンバーに注文したことがあったと言います。
それは小柄なフミヤをメインボーカルに置くとバンド全体の見栄えが弱くなる
ことから、高杢と鶴久と3人でマイクを並ばせるというもので、これで初めて
“チェッカーズになるんだ”という話でした。つまりはフミヤひとりで歌う曲は、
それはチェッカーズとは呼べないのではないでしょうか」
地元の福岡を中心に活動
では、その高杢と鶴久が再びフミヤの横に立つ日がくるのだろうか。
現在も音楽家としてライブや創作活動を行っている鶴久の一方で、
意外なところで高杢の名前があがっていた。
《【建築測量・墨出工】未経験でもOK!元チェッカーズ高杢と○○がタッグを組み
新事業(社内独立制度)も始めました 》(注:編集部伏字)
フミヤと芹澤氏の和解報道がなされていた3月15日から4月12日までの間、
求人・転職情報サイトに掲出されていた求人案内だ。埼玉県内にある某社の求人情報には作業着を着た高杢と思われる人物が、敷地や建物の位置を測る測量器の横に並び笑顔を見せていた。さらに企業情報を見ると、代表者欄に《事業顧問:高杢 禎彦》と
あったのだ。いったい彼に何が起きているのだろうか。
ローカル局の情報番組ディレクターによると、「現在は地元の福岡を中心に
活動しているようです」と彼の近況を明かす。
「講演活動をしたり、ラジオ番組や企業イベントに出演しているそうですが、
音楽活動はほとんど行っていないみたいですよ。それでも数年前から運送業に
乗り出したり、運搬用機械を扱う会社とも付き合いがあったりと、事業者としての
顔も持っているようです。
デビュー前のモクさんは、土木業に従事していた時期もあると言いますし、
おそらくはその経験から “事業” を始めているのかも。体調に問題がないのなら、
また歌ってほしいとは思うのですが……」
高杢は、フミヤが芹澤氏と和解したこと、そして「チェッカーズ」の
名曲を歌うことについてどう思っているのか。同社と彼の妻を通して
接触を試みるも折り返しはなく、以降は連絡が途絶えてしまった。
徳永さん亡き今、チェッカーズ再結成はありえないのかもしれない。
それでも、ファンはケンカをしながらも歌い続けた、ヤンチャ仲間が
また揃う姿を見たいのだがーー。
チェッカーズと同世代なので、ある程度分かりますが・・・。
チェッカーズとあの姉妹がLIVE中や歌番組なので戦っていたのが分かりました。
だから、急に解散すると決めたんだと。あの2人(鶴久さんと高杢さん)は、
フミヤさんのフォローをしていたり、助けていたのをネットを観て分かりました。
だから、この2人をクロベエのお見舞いや送る会の発起人のメンバーから外されたのは
あの姉妹がそうさせていたのが分かりました
クロベエのお父さんも事故で亡くなったのは、あの姉妹が関係していたと思います。
たぶん、1988年の東京ドームLIVE後、車を止めてあるところまでの通路で、
クロべエが突然、不自然な大きな咳ゴッホ~ンとしたのを観ていたので
高杢さんが書いた本を読まなかったのは、正解だったと思います。
占い師の母が「人それぞれ立場があるから」と言っていたので・・・。
もし、この本をメンバーが読んでいたら、もっと確執や溝ができたと思います。
クロベエが亡くなる1か月前に七夕の短冊に「みんなが仲良く、
人間関係がうまくいきますように」と書かれていたのを読むと、
最後の最後まで、みんなのことを思っていたのが分かります。(心配していた)
この願いが近い内に叶いますように。そう願うファンも多いはず。
いろんな事をクリアーしなければいけませんが・・・必ず叶いますように
( チェッカーズ再結成を願います )
ご冥福をお祈りいたします。
人に執着や嫉妬、妬みをしないで、コントロールしてこないで
毒舌、高圧的な態度禁止。プレッシャーをかけてこないで
思考低下され頭が回らないので止めて。中枢神経を触らないで、記憶が出来ない
事故責任と連帯責任と母さんに全責任を取ってもらう
いろんなことを言ってこないで、仕事の邪魔をしないで
人の感情やパワーを抑えないで。唇を痺れさせない。人の嫌がることをしないで
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました