2015.06.23 週刊現代 本人がついに答えた
97年に起きたあの事件は、日本人の脳裏に深く刻まれている。「普通の中学生」が
どうしてあんなに酷いことを―その疑問に、本人がついに答えた。
彼の言葉を読んで、あなたは何を考えるだろうか。
32歳になった「元少年A」
〈脱衣所の扉を閉め、内側から鍵をかけると、ぐしょ濡れの衣服を脱いで洗濯機に
突っ込み、全裸になった。手提げバッグの中のビニール袋を開き、淳君の頭部を
取り出して脇に抱え、磨硝子の二枚折戸を押し開け、風呂場に入り、戸を閉めると、そちらも内側からスライド式のロックをかけた。この磨硝子の向こうで、
僕は殺人よりも更に悍ましい行為に及んだ〉
'97年2月から5月にかけて、当時14歳だった男子中学生が児童を次々と襲い、
山下彩花さん (当時10歳)、土師淳君 (同11歳) の尊い命を奪って3人を負傷させた
「神戸連続児童殺傷事件」。
酒鬼薔薇聖斗を名乗った元少年Aが、日本中を震撼させたあの事件から18年という
長い沈黙を破って6月11日に発表した手記『絶歌』が、大きな波紋を広げている。
出版元である太田出版で編集を担当した落合美砂氏によれば、
出版の話は元少年Aの側から持ち込まれたという。
「今年の3月上旬に弊社社長の岡聡が、仲介者を通じて本人と面会し、原稿を受け
取りました。その内容を社内で議論し、出版を決めました。プライバシーに配慮
しなければいけない部分以外、基本的にこちらから手を入れることはしていません。タイトルも、最初から本人が付けていたものです」
彼はなぜ凶行に及んだのか。医療少年院を退所した'04年以降、どんな人生を歩んだのか。これまで明かされなかった真実を、現在32歳となった元少年A自ら綴っている。
告白は、少年Aが逮捕された日からはじまる。
〈一九九七年六月二十八日。僕は、僕ではなくなった。陽なたの世界から永久に
追放された日。それまで何気なく送ってきた他愛ない日常のひとコマひとコマが、
急速に得体のしれない象徴性を帯び始めた日。
「少年A」—それが、僕の代名詞となった〉少し紹介しただけでも分かるように、
「手記」と呼ぶには文学的すぎる表現が目立つ。事件の動機について綴った「原罪」と題された章には、このように記されている。
〈 僕はこれから、精神鑑定でも、医療少年院で受けたカウンセリングでも、
ついに誰にも打ち明けることができず、二十年以上ものあいだ心の金庫に仕舞い
込んできた自らの〝原罪〟ともいえる体験を、あなたに語ろうと思う〉
少年Aが逮捕された当時から、犯行の動機として、小学5年生の時に最愛の祖母を
亡くしたことで人間の生死への感覚が歪んでしまったことと、彼が抱える異常な
性的衝動が注目されてきた。手記では、本人自ら、その性的衝動が殺人へと
結びついていった心の動きを語っている。
〈 祖母が亡くなってからも、僕はよく祖母の部屋へ行き、祖母と一緒に過ごした
想い出に浸った 〉彼は、祖母の部屋の押し入れから祖母が愛用した按摩器を見つけ、それを性器に押し当てたことで、精通を経験したのだと本書で告白している。
〈 僕のなかで、〝性〟と〝死〟が〝罪悪感〟という接着剤でがっちりと結合した
瞬間だった 〉彼は、自ら〈 冒涜の儀式 〉と名づけたその自慰行為に耽っていく。
そして同じ頃、〈 きれいに洗ったマーマレードの空き瓶にナメクジを集め始めた 〉。ナメクジの解剖に夢中になる少年A。
さらに祖母が遺した愛犬・サスケが老衰で死んだことが、多感な中学生の生死の
感覚を、揺さぶっていく。亡き愛犬の遺したエサを貪る野良猫に激昂し、
カッターナイフで惨殺。その時覚えた〈黒い性衝動〉が、彼を狂気へ導いていった。
「酒鬼薔薇聖斗」の由来
〈 僕は知らず知らずのうちに、死を間近に感じないと性的に興奮できない
身体になっていた 〉〈 次から次に近所の野良猫を捕まえては様々な方法で殺害 〉
していったが、〈 中学に上がる頃には猫殺しに飽き、次第に、「自分と同じ〝人間〟を壊してみたい。その時にどんな感触がするのかこの手で確かめたい」という
思いに囚われ、寝ても覚めても、もうそのことしか考えられなくなった〉
そしてページは、'97年3月16日、彼が女子児童2人を襲った日へと進む。
〈 ハンマーで頭を殴った彩花さん (当時十歳) は、頭蓋骨を陥没骨折する大怪我を
負い、意識不明の重体で病院へ運ばれ、そのまま回復することなく一週間後の
三月二十三日に亡くなった。彩花さんを襲った直後、別の女の子 (当時九歳) の
腹部をすれ違いざまにナイフで刺し、全治二週間の怪我を負わせた 〉この事件が
報道されても、誰も彼の犯行だと気づかなかったことが、事態を悪化させる。
〈 あれは夢だったのか?
僕は現実には何もしていないのか?
どこまでが現実でどこからが現実でないのかわからなくなった 〉
手記は、日本人の脳裏に刻まれた、あの事件へと続いていく。
〈 一九九七年五月二十四日、僕はタンク山で淳君を殺害した 〉
2日後、タンク山に隠した淳君の頭部を、家に持ち帰った少年Aは、
冒頭の「行為」に及んだ。〈行為を終え、ふたたび折戸が開いた時、僕は喪心の
極みにあった。精神医学的にどういった解釈がなされるのかはわからないが、僕は
これ以降二年余り、まったく性欲を感じず、ただの一度も勃起することがなかった〉
その日の夜、自室の天井裏に隠していた淳君の頭部を持ち出し、通っていた
中学校まで『スタンド・バイ・ミー』を口ずさみながら、自転車を走らせた。
正門に頭部を置き、「酒鬼薔薇聖斗」の名前を付した挑戦状を添えた。
〈「酒鬼薔薇聖斗」という名前は、猫殺しに明け暮れた小六の頃にせっせと描いた
自作の漫画に登場するキャラクターから取ったものだった。(中略)肝試しをする
ために真夜中に学校に集まった生徒たちを、酒鬼薔薇聖斗が奇怪な形状の斧で次々と殺戮するというB級ホラー映画のような内容の漫画だった〉
日雇い労働を転々と
須磨警察署での取り調べ、神戸少年鑑別所での精神鑑定の記憶が語られた後、
6年5ヵ月の少年院生活について多くを語らぬまま、手記は'04年に仮退院した後を
描いた第二部へと進んでいく。〈二〇〇四年三月十日。事件から七年目の
二十一歳の春、僕は六年五か月に及んだ少年院生活を終え、社会に出た〉7年足らずの更生期間がはたして十分なものだったのか、本人自身は言葉を記してはいない。
退院後、およそ1ヵ月間の東京でのホテル暮らしを経て、更生保護施設に入所。
派遣会社に登録し、最初に紹介された仕事が、オフィスでの荷物運びだった。
〈人生初の労働だった。キツかった。とにかくキツかった。
肉体的にも、精神的にも〉ビル清掃や廃品回収の仕事などをするうち、
更生保護施設内で「元少年A」であるという身元がバレて、身を隠すシーンもある。
そんな彼に大きな転機が来る。〈二〇〇四年五月中旬。僕は東京を離れ、
最終居住先である篤志家のYさんの家に移ることになった〉
しばらく後、プレス工として働きはじめ、'04年いっぱいで保護観察期間が終わって
からは、Yさんの家を出て職場の近くで独り暮らしを始める。もちろん、Aにとって
初めての独り暮らしだ。Yさん夫婦や弁護士のサポートを受けながら仕事をこなす
日々の中、〈ある抑え難い想いが、徐々に熱を帯び始めた〉。
〈事件から八年。僕は、他人が自分に着けた〝色〟をすべて刮ぎ落とし、
今度は自分で自分に〝色〟を着けるために、長い旅に出た〉
食事に興味がなく、カップラーメンと冷凍食品のみの食生活。休日はジョギングと
図書館通い。仕事を辞めた彼は、貯めたカネを持って独り暮らしをしたアパートを
出る。彼はアパートの退去手続きに来た不動産業者とのやりとりを詳細に
綴っているが、もちろん、その業者は相手が少年Aであったことを知らない。
カプセルホテルに泊まりこむ生活をしばらく続けた後、'05年の冬、寮付きの建設会社で契約社員として働き始める。しかし'09年6月、リーマン・ショックの余波を
受け解雇。〈突然解雇を言い渡された時にはさすがにショックを受けた〉。
その後は日雇い労働を転々とする。
〈この時期の記憶は断片的にしか残っていない。おそらくストレス性の健忘ではないかと思う。僕は過度にストレスがかかるとしばしば記憶がトンでしまうことがある〉
'09年9月、少年院で覚えた溶接工の仕事になんとか就いた。
そしてこの時期に、三島由紀夫と村上春樹を片っ端から読み漁ったという。
この手記の文体にも、その影響が色濃く表れている。
〈僕はこの時期から、自分の事件について本格的に〝勉強〟を始めた。
自分について書かれた本を集め、新聞や雑誌記事なども事件当時のものにまで遡ってほとんどすべてに眼を通し、自分だけではなく他の少年犯罪についても調べた〉
仕事もせずに執筆
仕事場には、頼れる先輩や、可愛い後輩もできた。しかし彼は、過去に許されない罪を犯した自分が、他人に受け容れられていいのか—そんな自意識に苦しんだと告白。結局、'12年冬、溶接会社に辞表を提出した。
〈 会社を辞めてからは、自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた。
記憶の墓地を掘り返し、過去の遺骨をひとつひとつ丁寧に拾い集め、繋ぎ合わせ、
組み立て、朧に立ち現れたその骨格に、これまでに覚えた言葉で丹念に肉付けして
いった〉そうして、仕事もせずに執筆したのが、『絶歌』だった。巻末には、
「被害者の家族の皆様へ」と題された、謝罪と反省の言葉が収められている。
〈自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の
自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。
それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います。本当に申し訳ありません〉
出版を受け、土師淳くんの父親・守さんは「今すぐに、出版を中止し、
本を回収してほしい」と語った。その声をどう考えるか、前出の担当編集者・
落合氏に訊ねたところ、以下のような答えが返ってきた。
「出版について事後報告になってしまったということのお詫びと、なぜ自分が
そうまでしてこの本を出すかということについて説明した著者の手紙と、
本そのものをご遺族にお送りしています。
本と手紙とを、合わせて読んで頂きたいと思っています。
もちろん、その上で差し止めなどの求めがあれば、改めて対応を検討したい」
初版10万部。各地の書店で売り切れが相次いでいるが、「印税の使い道は本人に
任せており、出版社からは何も提案していない」(落合氏)という。
自分が生きるために手記をまとめたという元少年A。手記が売れていることで
少なからぬカネも手に入るだろう。これで区切りは付いたとばかり、そのカネで
彼はこれまでと同様、素姓を隠して生きていく。
「週刊現代」2015年6月27日号より
この手記に書かれているのと、私達がされたことが似ているので書きます。
1、祖母の按摩器=Xのhideが凄い肩コリだった。私も肩こりで、マッサージ器で
よく肩をほぐしてました。
2、祖母が飼っていた愛犬の名前がサスケ=野良猫がゴミをあさって、
よく散らかしていたので、純ちゃんが戦っていました。その名前がサスケでした。
3、中学校まで『スタンド・バイ・ミー』を口ずさみながら、自転車を走らせた。=
1996年夏頃に、私が実家に帰ったときに、愛犬フローレンスも一緒だった。
その時に、お母さんが自転車にフローレンスを連れてどっか行ってました。
この事件やこの前に起こったことがあり、1997年に占い師の母とあの姉妹と勝負を
して母が勝ちました。それは、やしきたかじんさんのLIVEがあり、私達が行くか行かないかを賭けた勝負だった。いろいろ迷って、結局は行かないと決めました。
その前年の4月末と10月5日たかじんさんの誕生日で、凄く感動して又行こうと
決めていたので、そんな勝負をしていたなんて知りませんでした
一度upしたのに、また消された~あの長男とあの子、あの姉妹、いい加減にして。
そして人のブログをコピペしないで、自分で調べて書いて
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました