プライベートではTBS「水戸黄門」で共演した白坂と結婚した。
【補足】
76年には花登筐原作のドラマ「あかんたれ」で船場商人の主人公を熱演し、
人気を博した。
占い師の母から「大阪船場で占い師をしている菅沼さん」を紹介されたことを
思い出しました。この人から、ジクソーパズルを勧められてやったおかげで
柔軟に物事を考えられたり、頭の回転が速くなったと思います
( クイズ番組を観て、勘を磨きなさいと言われた記憶が・・・ )
志垣太郎さんの訃報が他界後9カ月以上経過してからに
なった理由 公開日: 日刊ゲンダイDIGITAL
二枚目俳優の志垣太郎さんが仕事先の佐賀県で3月に亡くなっていたことが
今週になって発表になった。死因は心不全だった。享年70。
他界後9カ月以上たってからの訃報は芸能界でも記憶にないほど。
家族にとってはあまりの突然の出来事で、長男で元俳優の匠は「私と母は現実を
受け止める事ができない状況が続いておりましたが故、発表が遅れてしまいました」と自身のツイッターで報告した。志垣夫人は元女優の白坂紀子さん。
6年前に匠が日刊ゲンダイのインタビューコラム「おふくろメシ」に登場し、
家族について語ってくれた。こんなくだりがある。
< セレブな印象がある志垣家だが、意外なことに両親のことは「とうちゃん」
「かあちゃん」と呼ぶ。志垣さんが舞台「巨人の星」の星飛雄馬役で
デビューしたため、劇中と同じ「とうちゃん」と呼ばせたことが始まりで、
今も「とうちゃん」「かあちゃん」だ。
家での呼び方は「とうちゃん」「かあちゃん」
「とうちゃんは、かあちゃんに一目惚れし、6年越しの思いを実らせて
結婚したそうです。今も家では仲がよくて、とうちゃんや僕の健康のことは
本当に気を使ってくれる」>
そのとうちゃんの急死をかあちゃんと匠が受け止めることができないのは
納得、無理もない。
おふくろメシを聞くと鶏の唐揚げ。締めくくりはこうだった。
<「僕もとうちゃんもリビングで空揚げが出るのを首を長くして
待っていることも多い。とうちゃんはワインやビールを飲みながら」>
志垣さんは無類の酒好きだった。インタビューコラム「涙と笑いの酒人生」には
2度ご登場いただいた。2度の登場は長期連載の中で数えるほど。
ちなみに5年前の2度目の時は赤ワインを飲みながら、だった。
勝新太郎、石原裕次郎らスターが健在だった頃に芸能界の酒豪番付では「東小結」とくに勝新にはかわいがられ、競うようにブランデーを飲んだこともあった。最高は3時間で日本酒を4升半飲んだというから、飲みっぷりは大関か横綱クラスだったかも。
陽気にグラスを傾ける志垣さんの姿が目に浮かぶようだ。
(文=峯田淳/日刊ゲンダイ)
3月に死去した志垣太郎さん…20代での “酒豪伝説”
「ブランデーを水のようにゴクゴクと」
公開日:日刊ゲンダイDIGITAL
俳優の志垣太郎さん(本名・河村稔=享年70歳)が3月5日に心不全で
亡くなっていたことを、長男で俳優の匠(34)が6日、自身のツイッターで伝え、
ネット上でも《 若々しくきりりとした二枚目で、時代劇が似合う俳優さんでした 》
《 70歳はまだ若い。残念です 》などと悲しみの声が広がっている。
1971年に日本テレビの「おれは男だ!」で、主役の森田健作(72)のライバルを
演じて人気となり、二枚目俳優として活躍。「天才・たけしの元気が出るテレビ !!」(日本テレビ)などバラエティー番組にも多く出演した志垣さんだが、日刊ゲンダイ(2017年6月15日付)の「今だから語れる涙と笑いの私の酒人生」では、
20代の頃の “酒豪伝説” について語っていた。
今から40年以上前、週刊誌が「酒豪番付」を作成していた時代、「横綱」だった
大スターの勝新太郎さんや石原裕次郎さんがバリバリだった頃に、志垣さんは
「東小結」に番付されていた。故人を偲び、当時のインタビュー記事を再録して
紹介したい――。
《 当時はいったん飲み出したら1日3本。ビールじゃないよ。ジン、ウオツカ、
日本酒……、お酒なら何でもボトルで3本は空けていたね。》
今と違ってあの頃は、みんな仕事が終わるとお酒を飲んでワイワイやって
いましたね。とくに僕はスタッフと飲むのが好きで、現場の後片付けが
終わるまで待っていたくらい。飲み始めはだいたい撮影所のスタッフルーム。
みんな時間もお金もなかったのでなかなか飲みに行けない。
だから、監督が冷蔵庫に用意してくれているビールや日本酒を飲んでいた。
僕の出番が早く終わった時には、先にひとりで撮影所の近所の焼き鳥屋で
飲んで待ちました。今みたいに携帯電話とかがないから、ちょくちょく様子を
うかがいに戻って、助監督に何時くらいに終わりそうか聞くわけですよ。で、
「あと30分くらい」と言われたら、焼き鳥屋に戻ってそこの親方に50本くらい、
差し入れ用に焼いてもらう。そこから終電に間に合う時間まで約2、3時間、
スタッフルームで飲んだ後、帰る人は電車。僕を含めた帰らない人は朝まで飲みに
行くわけです。高級クラブなんかじゃなく、安い赤提灯みたいな飲み屋です。で、
気がつくと3本くらい飲んでいました(笑い)。
そうやって飲んでいたおかげで、スタッフや子役の頃から憧れていたスターの
方々に可愛がっていただきました。漫画家の上村一夫さん、憧れの沢田研二さん、
俳優の佐藤允さん……。尊敬していた勝新太郎さんもそのひとりです。
ある舞台で中村玉緒さんとご一緒した時に、勝さんが見に来られました。
■勝新太郎さんに「おごってやる」と言われて…
その夜、勝さんが役者やスタッフ60人くらいを有名料亭に招待してくれたんです。「今日は玉緒が世話になりました」って。僕はまだ坊やだったし、2次会には
呼んでもらえないかなと思っていたら、「おい、おまえも来い」って言って
もらえて、朝までご一緒しました。
ある時、勝さんから、「1本おごってやる」と宿泊しているホテルに呼ばれたこともありました。フロントで「いる?」と聞くと名前も言わないのに「いますよ」と。
フロントが勝さんの部屋に電話で「志垣さん、到着しました」と電話すると
「俺の部屋に来い」。部屋に行くと勝さんがブランデーを水のように飲んでいる。
だから、こっちも負けずに飲みました、水のようにゴクゴクと。
僕があまりに底なしに飲むので、ある時「どこまで飲めるかやってみよう」と、友人に見届け人を引き受けてもらって日本酒を飲み続けてみました。ぐいぐいぐいぐい
3時間で4升半飲んだら、まだ酔っていないのにお腹がいっぱいになってやめました(笑い)。それが自己最高記録だと思います。
■妻と出会って飲み方を変えた
30歳くらいまではそうやって楽しく飲んだくれていましたが、女房(女優の白坂
紀子さん)と出会ってから、そんな飲み方はスッパリやめました。今も毎日飲みます
が、ワインのミニボトル1本。食事しながら女房についでもらって家飲みです。
結婚後に大酒を飲んだのは森繁(久弥)先生の舞台の座員の時だけ。
森繁先生へのお祝いで優勝力士が使うような漆塗りの大杯が届いた時、
「誰がこれで飲むんだ?」と聞かれ、周りが「太郎以外にいません」と。
先生も「いけ!」と言うので大杯に一升瓶のお酒をついで、先生の前で
ゴクゴクと飲み干して、「先生、最高の器でございます」(笑い)。
今、思い返しても若い時の勢いで飲み続けていたら、僕は50歳くらいで野垂れ
死んでいたと思います。今も元気で楽しくいられるのは本当に女房のおかげです 》
◇ ◇ ◇
ご冥福をお祈りします――。
2003年6月18日コンフェデレーションズ杯で日本 VS ニュージーランド戦で
占い師の母とあの3姉妹と、お互いの引退を賭けて勝負したのを2日前に聴いて、
母が勝ち、その試合を見届けたのが私達2人でした。2点目を65分でゴールするいつ引退するの。人にずーっと嫌な事をしてくるけど
1998年6月におばあちゃんが亡くなった後、数年後。1度だけ近くの焼き鳥屋さんへ。
炭火で10本焼いてもらい、美味しく食べたのを思い出しました
以前住んでいたマンションで、3Fの部屋の人の玄関先に小さい赤提灯が何個も
飾ってありビックリして、管理人のおばちゃんに聞いたら十手があり、
大杯があると(見せてもらったと)言っていたのを思い出しました
志垣太郎さん死去に「五人会」も悲痛
田中健「皆悲しむ」、西田敏行「未だ信じられず」
2022.12.08 デイリー
俳優の志垣太郎(本名河村稔=かわむら・みのる)さんが3月5日に遠征先の
佐賀県で心不全のため亡くなっていたことが7日までに分かった。70歳。
6日に長男で元俳優の匠(34)が自身のツイッターで報告。
突然の逝去を受け止めきれず、死去から9カ月後の発表となったことを説明した。
志垣さんは若手の頃、田中健(71)、西田敏行(75)、松崎しげる(73)、
柴俊夫(75)と「五人会」を結成し、夢を描きながら遊んでいた。
メンバーの訃報を受け、それぞれが寂しがった。
田中はブログで「ニュースに驚いて明け方から一斉にLINEを、、皆悲しむ
だろう、、、、、、」と9カ月も死を知らなかったショックを隠さなかった。
その上で「太郎ちゃんは旅先では、まず枕元に家族の写真を並べる程の家族好き。
家族が単位で、家族と一緒にいる時間が一番幸せそうだった。
ご家族の報告が遅れたこと、お気持ちが察せられます、、、」とおもんぱかった。
さらに「空高く、安らかに過ごしてますか? ご家族を心配してそうだけど
きっと大丈夫だから。どうぞ安らかに。どうぞ安らかに。」と天国に呼びかけた。
松崎は所属事務所を通じて「僕の学校の後輩でもあり、五人会のメンバーでも
あった志垣…今日の発表を聞いて驚きを隠せません…我々の青春時代の仲間であり、志垣とは数多くの思い出があります…彼の結婚式では司会進行をやり、歌も歌い
ました…安らかにお眠りください…ご冥福をお祈りいたします…」と追悼。
西田も「志垣太郎兄 逝去 未だ信じられず 合掌 ただただ 合掌」とした。
【補足】
志垣さんの出世ドラマ「おれは男だ!」に主演した森田は「大変驚きました」と
突然の訃報に衝撃を受けた。志垣さんは同作で森田のライバルとなる転校生を熱演。撮影で頭にけがしたときのことを振り返った森田は「志垣さんが転校生で来て、
彼の話でドラマが展開して私の負担が軽くなり非常に助けられました」と感謝した。
同作でヒロインを演じた早瀬も6日夜に訃報を聞いた。同作のほか「旅番組に
森田健作さんと3人でご一緒したり、突撃で、議員会館を見学しに行ったり…
思い出がたくさんあります」と記憶をたどり、「ハンサムな顔に似合わない、
テンション高めな、よく喋る面白い方でした」と生前の姿を思い浮かべた。
陶器人形を作る趣味を持つ早瀬は、30年前に作品を志垣さんに贈ったという。
3年前に対面した匠から「今でも飾ってありますよ」と教えてもらったといい、
「感激しました。大事にしててくれたんだなあ、と改めて優しさが心に残ります」と心遣いに感謝した。
3月に心不全で急逝していた志垣太郎さん、
元事務所に「志垣さんに貸した金が返ってこない」
“債権者” からの電話、抱えていた借金トラブル
2022/12/12 週刊PRIMS
《 父 志垣太郎が、2022年3月5日に遠征先の佐賀県において、
急な体調異変による心不全により帰らぬ人となりました 》
志垣太郎さんの息子・匠が自身のツイッターで突然の報告をした。
「匠さんは投稿でも、《 あまりに突然の出来事であり、私と母は現実を受け止める
事ができない状況が続いておりましたが故、発表が遅れてしまいました 》と、
9か月もたってからの報告になったことを説明。
葬儀は一部の近親者だけで内々に済ませたといいます」( スポーツ紙記者 )
東京都出身の志垣さんは1969年に『芸術座』の舞台でデビュー。
1971年にはドラマ『おれは男だ!』(日本テレビ系)で森田健作と共演。
25歳のときには東海テレビ制作『あかんたれ』で主演を務め、二枚目俳優として
脚光を浴びた。声優としてもアニメ『 ベルサイユのばら 』で “アンドレ” の声を
演じるなど、多岐にわたって活躍した。「1985年には、TBS系ドラマ『水戸黄門』での共演をきっかけに、当時女優だった白坂紀子さんと結婚。その3年後には、2日間に及ぶ難産を乗り越えて長男の匠さんが生まれました。志垣さんは1週間の “産休” を
取って病院に泊まり込み、陣痛の際は自分の手が腫れるほどずっと紀子さんの
背中をさすり、出産にも立ち会ったと聞きます」(芸能プロ関係者)
『 噂の!東京マガジン 』を突然降板
匠は2013年に『和音匠』という芸名で映画デビューし、父と同じ演技の道へ。
若いころの父を彷彿とさせる端正なルックスでバラエティー番組などでは
父子共演も果たしていたが、志垣さんは人知れず悩みを抱えていたという。
「志垣さんは50代以降、ドラマの仕事が激減。バラエティー番組などのオファーも
減り、レギュラー出演していたTBS系『噂の!東京マガジン』も2014年に突然降板となりました。その後は、地方のPR雑誌でのインタビュアー業などをしていました」
( 同・芸能プロ関係者 )
志垣さんがインタビュアーを務めていた雑誌の担当者に問い合わせたところ、
「今年の1月にお仕事させていただきましたが、元気な様子でした。仕事ぶりも、
協力的だったのを覚えています」と、特に異変は感じなかったとのこと。
12月6日、文章とともに生前撮影したツーショットを投稿して
父・志垣太郎さんの死を報告した匠(Twitterより)
しかし、志垣さんは陰で “借金問題” を抱えていたとも報じられている。
複数人からそれぞれ数百万円単位、合計で数千万円もの借金があったというのだ。
お金を貸したのに返ってこない
たしかに週刊女性が取材を進めたなかでも、こんな話が。
「“志垣さんにお金を貸したのに返ってこない” と、彼が当時、所属していた事務所
にも電話がかかってきて、大騒ぎになったこともあったそうです。しばらく
たってから、志垣さんはその事務所を急に辞めたと聞きます」(テレビ局関係者)
志垣さんは2015年のインタビューで、家族について《 3人が一緒に一日も長く
いられれば 》と語っていた。「佐賀に行く前日にも “俺は100歳まで生きる” と
匠さんに語っていたようです」( 匠の知人 )
その言葉からは想像できない、あまりにも早い別れとなってしまった。
天国の名優は今、何を思う……。
小さい時から、「おれは男だ!」「あかんたれ」「水戸黄門」などを観ていました。
「ベルサイユのばら」は、大好きで観ていましたが、アンドレ役の声優をしていた
とは初めて知りました
いろいろ調べて分かりました。まさかこんな前から、いろんなことがあったとは 残されたご家族は、志垣太郎さんの死を中々受け入れなれなかったのは分かります。
おばあちゃんも数時間前まで元気だったのに、急に倒れて1週間後に亡くなったので。
( その時は、自宅に1人でいたので発見が遅かった・・・ 76歳 )
だからじゃないですが、多少気持ちは分かります。今年3回忌だったんですね。
家族想いの優しい良い人で、奥さんと出会って酒豪も控えて健康に気を使って
生きてこられたんですね。だから、急に亡くなってビックリしたのも分かります。
これからは、心身ともに健康で志垣太郎さんの分まで長生きして下さい
ご冥福をお祈りいたします。
いつもと同じなので省きますが、重要な事だけ書きます。
人の思考を低下させないで、近視老眼も、人をコントロールしてこないで
憑依して、人に自分の言いたいことを言わさないで、唇を痛くしないで
人の後ろに憑かないで、嫉妬、妬み、執着は止めて
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました