亡くなった現在も多くのファンを持つ尾崎豊さんは、1992年4月25日の早朝、足立区千住河原町の民家の庭に傷だらけで倒れていたところを住人の小峰さんが発見。
通報で病院に運び込まれ、一時は自宅マンションに戻るのですが、午後になって
呼吸が止まっているのを妻の繁美さんが気づいたのです。その後、救急車で
日本医科大学付属病院に搬送。しかし、その日のうちに死亡が確認されたのです。
まだ20代という若さで急逝した尾崎豊さんの死因は、事故ではなく「肺水腫」。
当初、肺水腫の原因は極度の飲酒によるものと発表されたのですが、
後に覚醒剤の多量摂取による「急性メタンフェタミン中毒」が引き起こしたものと
結論付けられています。しかし、尾崎豊さんの没後も死因や遺体 (死体) について、
さまざまな憶測を呼んでいるようです。
理由は、フライデーが掲載した尾崎豊さんの遺体 (死体) 写真には、
暴行リンチを受けたような傷や右目のアザが写し出されていたから。
その記事により、死因の理由に他殺説が浮上。犯人については、生前の尾崎豊さんが関わっていた人物を疑う声もあがっているのです。ただ警察は、当時の状況や
司法解剖の結果から「事件性なし」と判断して捜査を終了。やはり、遺書も
見つかっていることを考えると、尾崎豊さんの死因は自害だったのでしょうか?
そこで今回は、尾崎豊さんは何で死んだのか?
死因や遺体(死体)に残された謎のアザ、他殺だった可能性を検証してみました。
尾崎豊の死因と死亡年齢は?
尾崎豊さんが死亡した時の年齢は26歳。
また、死亡後には、遺書2通の全文が公開されています。
1通は尾崎豊さんが亡くなる直前まで肌身離さず持っていたセカンドバッグから。
もう1通は本人の血でつづったとみられる遺書で、尾崎豊さんの母親の遺影の側で
見つかったそうです。ただ、見つかった遺書は、ほんとうに尾崎豊さんが
自ら命を絶とうとして書いたものかどうかすらわかっていません。
生前の尾崎豊さんは、気分が落ち込んでいるときなど、
急に遺書のようなものを書くことがあったとか。
父親の健一さんいわく、「そのときに書いた可能性もある」と話しています。
そして、死因の理由について憶測を呼んでいる「他殺説」ですが、
これは亡くなった2年後の1994年に「死体検案書」が一部のマスコミに
流出したことから報じられるようになったのです。
死体検案書には、致死量の2.64倍以上の覚醒剤が体内で発見されたことや、
「外傷性くも膜下出血」と記載。そういったことなどから「誰かに大量の覚せい剤を投与されて殺された」とマスコミが報じ出したのです。
また、ある雑誌の記事には、尾崎豊さんの妻・繁美さんが
「遺産目当てに暴力団に殺害を依頼した」と掲載したこともありました。
要するにマスコミは、尾崎豊さんの死因を他殺としたのです。この報道に対し、
妻の繁美さんはマスコミを相手取り、東京地裁に名誉毀損訴訟を提起。
そして、2000年2月、東京地裁は遺族への名誉毀損を認め、マスコミに500万円の
支払いなどを命じる判決を下したのです。(2002年の上告棄却で遺族の勝訴が確定)
尾崎豊の遺体 (死亡) に他殺説
尾崎豊さんは、高校時代からディスコに入りびたり、18歳の時に妻の繁美さんと出会います。出会った場所は当時、六本木にあったディスコで、尾崎豊さんの一目ぼれ
だったとか。その後、交際が始まるも、22歳だった1987年12月に不祥事で逮捕。
覚醒剤で逮捕された尾崎豊さんは、その後、東京拘置所に勾留されるのですが、
交際中の繁美さんに手紙でプロポーズをします。
そして、東京拘置所から釈放された後の5月12日、2人は結婚。
翌年の1989年7月24日、尾崎豊さんが23歳の時に息子の裕哉が誕生したのです。
(妻の繁美さんと息子の裕哉)
それから3年後、謎の死に方をするわけですが、生前の尾崎豊さんと妻の繁美さんは
宗教団体の信者だったのです。また、父親の健一さん、兄の康さんも宗教に
入信していたのですが、1991年11月、 父親の健一さん、兄の康さんが脱会。
一方、尾崎豊さんも父親や兄にならって宗教団体を脱会するのですが、妻の繁美さんだけは残ることに。信者に裏切られた宗教団体は、その後、脱会者に対して
有り得ない嫌がらせを実行したとされています。
それから半年後の1992年4月25日、尾崎豊さんが死亡。
遺体には暴行リンチを受けたようなアザもあり、死因がきわめて不自然であること
から「宗教関係者による犯行」、すなわち他殺説が噂されることになったのです。
尾崎豊は何で死んだの?(亡くなった)
当時、尾崎豊さんが倒れていた民家は、没後「尾崎ハウス」と名付けられ、
ファンが集る有名な場所となりました。
しかし、その尾崎ハウスも現在は取り壊され、建て直されています。
また、住人だった小峰さんによると、発見時、尾崎豊さんは「素っ裸で倒れていて、右目は卵半分くらい膨らんで腫れ上がっていた」と証言しています。
今なお多くの謎を残している尾崎豊さんの死因ですが、
真実は一体どこにあるのでしょうか?
死因は「肺水腫」なはずなのに、なぜ体中がアザだらけで右目が黒ずんでいたのか?
理由は謎ですが、実は犯人と名乗る人物が「俺が尾崎豊をリンチして殺した!」と
語り、何で死んだのかを雑誌のインタビューに答えているのです。
【補足】
フライデーが掲載した尾崎豊さんの顔と体のアザの写真
長文になりますが、以下が暴力団員による何で亡くなったのかについての話です。
1992年4月25日あの日、尾崎に一体何が起こったのか?その男との待ち合わせは
相手側の指定した某シティーホテルだった。ひっそりとしたホテルの廊下で男の部屋のドアをノックすると、痩せぎすで青白い顔をした男が窓際のソファーに座り外を眺めていた。「まあ、座ってください」それだけ言って柔和な顔になった男に促され、私は汗を拭いながら正面に座った。男の名前は後藤ひろし(仮名/48歳)。
詳しい素性は本人の意向で話せないが、後藤は当時都内の某暴力団組織に属して
おり、特に興行目的のトラブル処理に当たっていたという。身長180センチを超える大男だ。私が自己紹介をしようとするとそれを遮るかの如くいきなり向直り、
「これからあの日(尾崎豊が死亡した日)の真実をあんたに話す。だけどいいか、
同じ質問に二度は答えない、それと今から話す事はあくまでも俺の ”単なる戯言”
だと思って聞いてくれ、それから録音も写真も一切ダメだ、絶対に嘘は書かないで
欲しい」これが彼が提示した彼の告白 < 原文は告発 > においての条件だった。
その時の男の蛇の様な目を見て私は身動きが取れなくなってしまった。そして同時にこの男の目からは真実に対する切なる意思が感じられた。男と話しにいく前に、
まずはまとめておかなければいけない彼の死に関する疑問がある。
1).検案書では同時にメタンフェタミン中毒と記されている事。
2).尾崎の公式に発表されている死因は肺水腫だが、先に述べた週刊誌記事には
明らかに誰かに殴られた痕が残っており、死体検案書には「外傷性くも膜下出血」と記されている事。
3).さらに尾崎がなぜ尾崎ハウスと呼ばれるあの場所で、しかも全裸だったのかという疑問点。これらに対して男は口を開く。「あの日俺は、いや俺らは尾崎をあの民家の近くのある場所に呼び出した。はっきりした関係は明かせないが、尾崎と俺はそれ
以前から面識があったから尾崎にしてみても俺らと会うこと自体は普通の事だった
から当然『分かった。すぐ行く』ってなったわけだ。だからあの日あいつ(尾崎)はあそこにいた」医師や警察の公式発表によれば、尾崎の体からは多量のアルコールと死因「肺水腫」の原因ともなった致死量の2倍にも達する覚醒剤が体内から発見されている。つまり尾崎の体の中は酒と覚せい剤だらけだったことになる。この男に呼び
出された時点での尾崎は、すでにこの状態だったのだろうか…。「あの日俺らは
尾崎を呼び出したって言ったけど、『 お前を殺すから来い 』って言っても来るバカはいないよな。だから俺らは『 酒を呑む 』を前提としてあいつを呼び出したんだよ」
記者「では、体内から発見された覚せい剤は…?」「あの日、尾崎は完全なシラフ
だったよ、俺らと会う前はね。その話をする前にあんた覚せい剤やったことある?」
記者「もちろん、無いですけど…」「普通、酒とシャブの両方一緒にやるとどっち
かの量が減るもんなんだよ、二つ同時に死ぬまでやるなんてことは物理的に絶対に
無理な話。公式の発表にも有るけど酒もシャブも両方半端な量じゃなかった訳だけど、その場合普通なら心臓麻痺で死ぬよ。シャブは必ずしも自分の意思で入るとは
限らねぇだろ…例えばアンタが一緒に食事している人間を毒を盛って殺すとしたら
どうする?飲み物の中に大量の毒を入れるでしょ。ずいぶん回りくどくなったけど、これだけ言えばわかるよね」直接的なことは煙に巻いて喋っていたが、これまでの
男の話をまとめると、あの日尾崎は「自分が尾崎を殺した」と語る後藤という男と
その仲間に東京・足立区の「尾崎ハウス」近くの酒場に呼び出された。
ここからは男が断言しないため推測も含めるが、そこで酒に大量の覚せい剤を
混入され、それを尾崎が飲んだ、ということになる。そしてこの後、
男の口からは ”尾崎暴行” に関しての衝撃告白が飛び出した。
◆リンチの後、「帰りたい…帰りたい」と尾崎は虫の息になりながら呟いていたこれまでの後藤の話を仮に真実だとして、冒頭で触れた「リンチ」に関しての真相に触れてみる。この騒動の最大のミステリーは尾崎の死因が肺水腫であるにも関わらず、全身に暴行痕があり、事実、それにより外傷性くも膜下出血を引き起こしていたこと。尾崎死亡騒動当初は、「酔っ払った尾崎が近所のチーマーに絡んで返り討ちに
なった」などという説も都市伝説的に出たが、真相は今の今まで謎である。
「俺らがリンチして殺した!」と語る後藤という男ならその謎を知っているのだろうか…。「アンタあのフライデーの写真見たって言ったよな? ありゃどう見ても殴られたとしか思えねぇよな、その上で、これまでの俺の話を聞いてどう思う?」
記者「それはどういう事ですか?」「あの日、酒場の後ふらふらになった尾崎と一緒に店を後にした。その時尾崎は本当に意識が無いくらい錯乱状態だった。それこそ酒かシャブの影響なのか体をふるわせて踊り狂っていたのさ。そんな尾崎を人目につかない場所に誘導し、その後サンドバックのようにボッコボコに殴り倒したのさ。ふらふらで立ち上がれない尾崎を無理矢理起こして何度も、何度もこの拳で殴ったよ」
記者「なぜそこまでして暴行する必要があったんですか。それになんであの民家で…?」「その理由に関しては事情があって語れない。だけど俺らがあいつを呼び出した目的は始めから”殺る”事。それだけだった…。けどあの民家(現在尾崎ハウスと呼ばれる家)でリンチはしてない。俺らが殴り倒した後、尾崎は虫の息になりながら『帰りたい…帰りたい』って何度も呟いていたのを今でも覚えている。そんな状態であいつは夜通し彷徨ってあの家の軒先で全裸で倒れ込んだんだろう。俺は今まで
何人もの人間を痛い目に遭<原文:合>わせてきたけど、そういう時誰もが決まって恐怖に震えるもんなんだよ、だけどあの時の尾崎から恐怖心はこれっぽっちも感じなかった…助けを請う言葉すら奴の口からは出てこなかったんだよ、ただ『帰りたい』それだけなんだ、小さな子供みたいにな」真実かどうかは断言できないが、男が語った話の上では尾崎は暴行された直後、大量の酒と覚せい剤、そして殴られた痛みの
熱を振り払うため自らの服を脱ぎ全裸になったのだろう。しかし、なぜこの男は
15年も経過した今になって、突然マスメディアに対し自らの大罪を告白する気に
なったのだろうか。「俺は先月医者からガンを宣告された。もって半年…だからと
いうわけではない。もちろん良心の呵責もある。だけど、あくまでも俺が話せる事は尾崎豊は間接的にしろ俺らの手によって死んだということだけ。それ以上の真相は
俺が墓ん中まで持っていく覚悟でいる」そう言うと男はそれ以上口を開かず、虚ろな表情で窓の外を見詰めたままだった。私もそれ以上は何も言えず、お礼だけを述べてホテルの部屋を後にした。自らも”単なる戯言”と前提する男の告白。それが事実か
どうか明らかになる事はおそらく無い。ただ事実と仮定して今年の4月25日で15年になる『尾崎豊殺人事件』は時効を迎える。だとしたら、良心の呵責として男が本誌
記者に告白したのであればタイミングが良すぎる気がしてならない。結局、男の口
からは聞き出せなかった『それ以上の真相』とはいったい何だったのだろうか…。
その事だけが気にかかる取材だった。
【補足】
2018.07.26
尾崎は運転手に「お前もカネかッ!」と叫んでは、車内に
一万円札をばら撒き、運転席を後部座席から蹴飛ばした。
7年後の1999年には、写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。
だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、
他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。
またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。
だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の
漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。
あの日…尾崎は後楽園の近くで夫人とパーティーに出席。
パーティーが終わった21時半ごろにホテルの喫茶室へ行くと、そこで偶然に旧友と
鉢合わせる。尾崎は子供ように喜び、「遊ぼう、遊ぼう」とはしゃいだという。
ここで夫人と別れて、尾崎は旧友たちと芝浦のバーへと飲みに繰り出している。
そこで日本酒を水のようにガンガンと煽り、かねてより報じられていたように
酒癖の悪さが出る。芝浦のバー店内で、通りかかった店員に殴りかかり、
仲間たちが慌てて尾崎を制止したという。
既に尾崎の目は据わり、いつもの酒乱のケが出始めていたという。
日付が変わって午前1時30分頃、芝浦のバーを出てタクシーに乗り込む。
ここでも尾崎はタクシーの運転手に絡んでいる。「今、通り過ぎた牛丼屋に戻れ」と尾崎が言うも、「Uターンは禁止だから」と断わったタクシー運転手に
腹を立てなじったという。尾崎は運転手に「お前もカネかッ!」と叫んでは
車内に一万円札をばら撒き、運転席を後部座席から蹴飛ばした。
【別の話では】
尾崎豊の死亡日の流れはこちらになります。
- 妻の繁美さんと後楽園近くのパーティに参加→ 21時30分ごろパーティが終了、喫茶店に入り旧友と再会。繁美さんと別れ旧友と芝浦のバー「OBAR」へ→ 尾崎豊は酔っ払い店員に暴行、午前1時半頃バーを出て尾崎豊はタクシーに乗り込む→ タクシーの運転手にも絡んでしまい、午前2時40分ごろ運転手は千住橋の警察署にかけ込む→ 尾崎豊は運転手に謝罪し、料金を支払い警察署を出る→ ここから1時間程足取りは不明、午前5時ごろに自宅から500m離れた民家で発見される→ 午前5時45分ごろ最寄りの大学付属病院に搬送される→ 病院側は「脈も体温も 正常」と答えるが「念のため専門医に診てもらったほうがいい」と告げ午前7時半頃かけつけた繁美さんと帰宅。午前10時ごろ瞳孔が開いた 状態で動かなくなり、空を切るような手振りで妻の繁美さんをパチリと叩き 「ごめんね」とつぶやいた後息を引き取った。
1992(平成4)年4月25日午前5時45分ごろ、尾崎は自宅マンションから約500m
離れた足立区千住河原町の民家の庭で転倒、全身創痍・全裸のままで住人に発見される。119番通報で墨田区内の白鬚橋病院に搬送、診察を受けるが、妻・義母と共に
自宅マンションに戻る。だが、10時頃に容体が急変、呼吸停止したため、11時9分に119番通報。搬送先の日本医科大学付属病院で治療を受けるが、午後0時6分に死亡。
死因は、致死量の2.64倍以上の覚醒剤 (メタンフェタミン)のオーバードーズ
(多量摂取)による肺水腫と診断される。春雨のそぼ降る中、東京都文京区の護国寺で執り行われた葬儀・追悼式におよそ4万人が参列。密葬は日蓮正宗で営まれる。
尾崎の死因については、様々な異論や疑惑が取りざたされることがある。なぜか?
発見当初は、事件性がないため行政解剖が行われる予定だった。だが、全身にすり傷があり、右目の上にコブもあることから、千住署、警視庁、検察庁が協議の末、司法解剖に切り替える。東京監察医務院の医師らが検視・解剖した結果、死因は肺に水がたまる肺水腫であると発表される。しかし、2年後の1994年、尾崎の体内から検出された覚醒剤に言及した司法解剖の結果を記載した「死体検案書」のコピーがマスコミに流出。当初の司法解剖の結果に疑念が生まれる。検死を担当した司法解剖医の支倉逸人によれば、死因の肺水腫の原因が覚醒剤中毒である事実は伏せられたが、内臓も覚醒剤を経口摂取した形跡があり、肺にも覚醒剤中毒の症状が見られたという。
また、他殺の疑惑もある。尾崎の遺体には全身に多数の擦過傷と打撲傷があった。
だが、検死した支倉逸人によれば、擦過傷と打撲傷を調べたところ、暴行によって
生じる傷害と異なる状態であり、頭部の外傷性くも膜下出血も極めて微量の出血の
ため、死に至るほどの重症ではないと結論づけている。支倉逸人によると、覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには酒と同じくらい不確実性が
高いと述べている(支倉逸人『検死秘録』より)。
さらに、2011年11月10日発行の文藝春秋に「遺書」全文が公開されるが、父・
尾崎健一は、尾崎の遺書である事に疑問を払拭できず、「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊じゃないからわからないけど、なんで
死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺を否定している(尾崎豊の遺書公開に実父「本当の遺書?」「自殺じゃない」 NEWSポストセブン2011年11月18日)。
何れにしても、このような様々な異論や疑惑は、確証するに十分な根拠に基づいて論証しなければならない。したがって、ネット上に流れる信憑性のない憶測や推定は、死因の事実を覆す明白な根拠がない限り、尾崎の死因は揺るがないだろう。
先立つ不幸をお許しください。
先日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、そんな事出来る
くらいなら死を選んだりしません。ただ死という状況が瞬く間に訪れるのです。
生と死を知り、生を葬るのです。
生と善意はあれど死を感ずるところ、ただ失意の如くに死に向かい今、
人の群棲を歩き、痛み、ただ雨の如し
思いう虻まだ浅き月日おも人の言う己を語り尽すには足らず。
最果ては全てを許したいけれど、その余り今なお生きる我に痛みの雨ぞ降りて折り、あなたの歌が聞こえてきます。
まだ若かった頃のあなたの声があなたのぬくもりが甦ってきます。
さようなら、私は夢見ます。
この遺書は尾崎豊さんのセカンドバッグから発見されたそうです。破ったB5の
ルーズリーフに書かれていたとか。いつ書いたのかは不明で、亡くなる3年前に自殺を図ろうとした時に書いたものではないかと尾崎豊さんの父はおっしゃっています。
今の悲しみに真のあなたの美しき綺麗な優しさを覚えます。
やがてこの暮らしを鏡として、そしてあなたを求愛し貴方を幸せに導きます。
私たちの愛に育まれる天使、裕哉を天命の元に敬愛します。
あなたは天命たる天女、そして天命たる女神、子はその道のもとに生まれたる天使。
やがて世の幸を待つ人々にとって使徒となるものたちが私たちの為に幸働く日が
来るでしょう。その日のためにあなたをこよなく愛します。あなたを生涯守ります。
あなたに世界、そしてこの世の全ての幸せとなる尾崎豊より捧げます。
天の女神、そして天の使徒を守る天の子、そして幸を待つ人々のために。
繁美、あなたは本当に女神なのですよ。
裕哉、あなたは間違いなく天使なのですよ。
私はただ、あなたを愛し続ける名の神であり続ける。
皆の言うことをよく聞いて共に幸になってください。
血判と『 愛してます 』と血で書かれた文字で結ばれているそうです。
この遺書は、死後1か月たって尾崎さんの自宅から発見されたとのこと。
この遺書を書いて自殺したのかは疑問があると、尾崎豊さんの父と兄はおしゃって
います。本当に尾崎豊さんが書いたものなのか、また、
いつ書いたものなのか確定はされていません。
尾崎さんに父の話では、尾崎豊さんが2度ほど自殺を図ろうとしたのは事実の
ようですね。感受性豊かで、強いようでいて繊細でもろい部分があったのでしょう。
薬物の過剰摂取が原因で引き起こされた中毒による
肺水腫外傷性くも膜下出血アルコール中毒に近い状態。
集団リンチを受けたようにも向けられることから他殺の説
苦しんで自分で転げ回ってできた傷と言う説
【補足】
元マネージャーの話によると母親の絹枝さんが逝去されてから、追い込むように
クスリをやり始めたようです。自分でもどうしようもできない心の状態を
誰かに止めて欲しい、そう見えたとマネージャーは話しています。
弁護士の兄が取材に?
尾崎豊さんの死について再捜査を依頼していた5つ年上の兄、尾崎康さん。
尾崎康さんは現在地元弁護士会の会長を務めており、
2023年11月に、初めて弟 尾崎豊さんについて語ったのです。
兄 尾崎康さんは「とにかく明るくて音楽が好きなやつ」と弟を思い出していました。
そんな豊さんが病院に運ばれたことを、知った尾崎康さんはすでに自宅へと
戻されていた豊さんの元へ駆けつけたのです。
その時は、お酒に酔っているような感じに思えたとコメントしています。
その時、豊さんは「勝てるかな?」とファイティングポーズをとったようで、
尾崎康さんは「勝てるよ」と返したと語っていました。
この会話が最後になったのです。
尾崎豊さんは、何かと闘い葛藤しながらも勝とうとしていたのでしょう。
彼は前日の夜に妻を伴いパーティーに出席、その後妻と別れ友達とバーへ向かいました。この行動への選択が、彼を死へと向かわせてしまったといえるかもしれません。
バーからの帰りに、タクシーの運転手ともめた彼は警察に注意を受けましたが、
その後の空白の時間は謎とされています。
占い師の母が「2つの別れ道に指しかかり、私が左の道に行った方が良いと言ってもあなたが右へ行けば、それは違った道へ行くでしょ」と言われたことを
思い出しました。いくら私が言っても、行動するのは本人
いがみ合い続けても幸せにはなれない
裕哉が歌手としてデビューしたのは、26歳のとき。豊が亡くなったのが26歳。
私がアメリカに渡ったのも26歳。偶然にも、それぞれの人生にとって、
26という数字は転機の時であったようです。
豊自身がフジテレビ系列の歌番組『 夜のヒットスタジオ 』に、最初で最後のテレビ
出演したときには、テレビの前で震える程の緊張を味わいましたが、裕哉がテレビ
デビューしたTBSテレビ『 音楽の日 』に生出演したときも、極度の緊張で心臓が
止まりそうでした。彼は『 I LOVE YOU 』と、私のために創ってくれた
オリジナル曲『 始まりの街 』を歌ってくれたのです。
実は裕哉がデビューしたとき、過去に散々いじめられた苦い想い出から、テレビ朝日(過去に名誉棄損などの訴訟を行っていたこともあり)だけには絶対に出て欲しく
ないと彼に話していたのです。にもかかわらず『 ミュージックステーション 』
出演を決めた理由を尋ねると、彼はこう答えました。
「ママ、僕は出たいんだよ。いがみ合っていても、そこから幸せなエネルギーは
生まれないよ」と。「母に捧げます」と、たったひと言だけ告げて歌う裕哉の姿を
見つめながら、あぁ、アメリカで私が息子に語り続けた「できるだけネガティブな
気持ちは持たず、いつも笑顔でいようね」という言葉は、確実にこの子の胸に
刻まれている、辛い思いも経験も、すべて光で返す子なんだなと嬉しく思いました。
タクシーの運転手さんと揉めて、近くの警察署に行ったという。
友達と別れた後、暴力団に呼ばれた間の出来事ですね
尾崎豊さんがブロック塀に頭を何度も打ち付けていたと、何かで読みました。
2024年4月にMAに勤めていたメイドさんが自宅マンションの壁に、
何度も自分の頭の後頭部を打ち付けていたのをXで観ました
尾崎が書いたという遺書2通の内、1通は誰かに書かされた物です。
そして、あの長女の自殺願望を持って来られていた。94年も
2通目が「殺されると思った」と言った後に書いた遺書が本物だと思います。
占い師の母が「暴力団に呼ばれて、薬入りのお酒を飲まされた後、
広場に連れていかれ、サンドバックのようにボッコボコに暴行された」と
上記に書いてある(投書)と同じ内容を聞きました
長く公にしなかった理由は、繁美夫人から「息子の裕哉が父の死を理解するまで
遺書は公表しないでほしい」と頼まれていたからだそうです。
無許可で明日11月10日発売の月刊文芸春秋に全文掲載されることが8日、須藤プロ
デューザーの連絡で繁美さんは知ったと、ゲンダイメディアを読んで分かりました。
その日は私の誕生日付近で、94年に繁美夫人を繰り返して取材し、死の20日前に
睡眠薬を飲み夫婦そろって死のうとした日が、純ちゃんの誕生日前日
占い師の母から「来世は生まれ変わっても、雨の一滴の雫か小石になると」と
言われました。=「雨垂れ石を穿つ」とは、小さな努力でも粘り強く継続させることが重要だと説いたことわざです。「雨垂れ」とは雨のしずくを、「穿つ」とは
穴をあけることを指します。つまり、「雨のしずく程度の小さな力でも、
何度も繰り返し落ちるうちに石に穴をあける」ことを表しているのです。
中国の漢書に由来する
「雨垂れ石を穿つ」の由来は中国の漢書といわれています。語源となったのは、
漢書のなかにある「枚乗(ばいじょう)伝」の章の一節で、「泰山の雨の滴りは
石を穿つ」、漢文では「泰山之霤穿石」と書かれていました。
これは、中央政府に反乱を起こそうと考えた小国の王に対して、
その企みを阻止するために家臣が出した意見書の一文です。
「小さな物事でも積み重なることで大きな災いになってしまう」ことを
たとえた言葉でしたが、結局小国の王は反乱を起こし、殺されてしまいました。
ライティングの武中さんが、2012年福山雅治冬の大感謝祭で担当をして、
この3か月前に開催した横浜スタジアムでのファン感謝祭で急に雨が降り、強風で
低予算だったので、他社から陰口を言われ、武中さんが「純ちゃん観ていて。
見返すから」と言って、NHKの紅白歌合戦で福山雅治さんが「家族になろうよ」を
歌った時に、天空の天女と言っていたライティングを披露したのを覚えています
この時、市川猿之助さんと中車さんの2人が白の歌舞伎衣装を着て
宙吊りになって舞っていました
この後、「Dear、家族になろうよ」は、翌日のWOWOWで放送されましたが、
新曲の「誕生日には真白な百合を」の曲に、このライティングを披露したのですが、TBSドラマ、佐藤健主演「とんび」の主題歌だったので、この曲はカットされました
この前年の沖縄LIVEから、武中さんからライティングの感想を聞かせてほしいと
言われて言っていたのを思い出しました
今まで、尾崎豊の死因は、なんだったのか?本当は、他殺なのか自殺なのか?
と言われていましたが、私は他殺だと思いました
尾崎豊さんの家族には、今まで人に言えなかったことが多くあったと思いますが、
豊さんは、本当に繁美さんと裕哉くんを心から愛していました。
何があっても、愛する2人を全力で守ると言っていたんですね
尾崎豊さんが歌う「 I LOVE YOU 」を聴いて分かりました。
繁美さんも豊さんのことを心から愛し、支えてきたのが分かりました
尾崎豊さんは若くして亡くなりましたが、豊さんの分まで生きて行って下さい。
心身ともに健康で、お仕事頑張って下さい
あまり変わらないので省略します。
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました