2019年1月24日(木)よる9時放送
●300日にわたる本田美奈子.さんの闘病生活の真相に迫る!
1月24日(木)の『直撃!シンソウ坂上』では、およそ13年前の2005年11月に
38歳の若さで亡くなった本田美奈子.さんを特集。およそ300日にわたって
最後まで白血病と闘った彼女の知られざる闘病生活に迫ります。
1980年代、中山美穂さんや南野陽子さんらと同時期にデビューし、抜群の歌唱力からデビュー年に日本武道館でコンサートを開催するほどの人気を誇った本田さん。
彼女の足跡をたどるため、MCの坂上忍さんは、昨年9月に埼玉県朝霞市にオープン
した「本田美奈子.ミュージアム」を訪れます。そこで彼を迎えたのは、演歌歌手の
坂本冬美さん。坂本さんは、かつて同じレコード会社に所属していた縁から
本田さんとはデビュー以来の友人で、くしくも本田さん、坂上さん、坂本さんの
3人は同じ1967年生まれです。本田さんの思い出話に花が咲く2人。
坂本さんからは、本田さんの圧倒的な声量に隠された謎が明かされます。
●本田美奈子.が、入院中の心境を吐露した音声を公開!
「本田美奈子.ミュージアム」内に展示されている本田さんの楽屋を忠実に再現した
スペースでは、本田さんの母・美枝子さんが坂上さんと坂本さんを迎えます。
美枝子さんからは、本田さんが「急性骨髄性白血病」と診断された2005年1月当時の本田さんの様子が語られます。微熱やめまいはあるものの、そこまで重く受け止めていなかった本田さんでしたが、病院での診断後、即入院し無菌室での生活を余儀なくされます。激痛を伴う治療が続いても、抗がん剤治療によって毛髪が抜け落ちても、本田さんはいつも明るかったと語る美枝子さんから、入院中の本田さんの様子が
明かされます。また、無菌室での生活を続ける本田さん自身が心境を吐露した
音声も公開されます。
●福山雅治から送られたメッセージとは!?
入院から3カ月、記念すべきデビュー20周年を病室で迎えた本田さんの元に、1本のビデオテープが届きます。そこには、歌詞のない楽曲を歌い上げる福山雅治さんの
姿がありました。実は福山さんのファンだった本田さん。このビデオテープは、
彼女を励まそうと関係者が企画し、福山さんも賛同して作成されました。
なぜ楽曲に歌詞がないのか、そこには福山さんをはじめ、この企画に賛同した
アーティストたちの深いメッセージが込められていました。
福山さんたちから送られた本田さんへのメッセージとは果たして!?
●本田美奈子.の闘病日記を独占初公開!
さらに、番組では「さい帯血手術」により一時は劇的な回復を見せ、退院する際に
お世話になった医師や看護師に「アメイジング・グレイス」を披露する本田さんの
歌声を録音した音声、抗がん剤治療で髪の毛が抜けた姿を隠すため常に頭に巻いて
いたバンダナを外し、ありのままの姿を撮影した貴重な写真、さらには本田さんが
最後に歌声を披露した場面を撮影した貴重な映像などを紹介します。
そして今回、独占初公開を許されたのが、母・美枝子さんでさえ読んだことがなかったという本田さんの “闘病日記”。「苦しいのはもう嫌!」「私は歌を通して希望を
与えることができたらと思っているのに、神様は歌わせてくれないのですか?」。
いつも笑顔だったという本田さんですが、闘病日記には、読み上げる坂上さんが
思わず涙でむせぶほどの、過酷な闘病生活の真相がつづられていました。
さらに、生前のまま残された、本田美奈子さんの部屋も独占初公開。
自宅には、闘病生活の壮絶さが伝わる、ある物がそのまま残されていました。
【本田美奈子.の生き方】マネジャーが忘れ物を取りに
病室に戻ると…闘病中にみせた彼女の優しさ
配信 デイリー新潮
天使のような歌声だった
聴く人の魂を揺さぶるような見事な歌唱力。透明感がありながらパワフルな歌声は、多くのファンを魅了しました。本田美奈子.さん(1967~2005)。38歳での別れは、ファンだけでなく多くの人の驚きと悲しみを深くしました。朝日新聞の編集委員・
小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週は本田さんの人生に迫ります。
「元気です。順調に回復しています」
ひたむきに努力を積み重ねてきた人だった。物事に突進するエネルギーは
すさまじかった。「天使になった歌姫」。没後、そんな言葉で称賛されたが、
素顔の彼女は傷つきながらも絶えず立ち上がり、自分と向き合う「戦士」だった。 2005年11月、急性骨髄性白血病のため38歳で亡くなった歌手・俳優の本田美奈子
さん(04年11月に改名後は本田美奈子.=本名・工藤美奈子)。 あどけない顔立ちと驚くほど華奢な体。にもかかわらず、3オクターブを行き来したという透明感のある
パワフルな歌声で多くの人々を魅了した。まるで自らの使命を全うする覚悟を決めたかのような迫力を私は感じた。 「元気です。順調に回復しています」病室から送った笑顔をたたえたメッセージが、亡くなる前にテレビ番組で流れたこともあったが、「血液細胞のがん」と言われる白血病の何が生と死を分けたのだろう。
当時の報道を振り返ると、前年の04年暮れぐらいから体のだるさを感じ、年が明け、「念のため」とに病院で診察を受けた結果、急性骨髄性白血病とわかった。
「どうして私が……」。のちに自分の姿をカメラで映すほど気丈に振る舞った
本田さんだったが、医師から病気を告げられた当初は納得できなかったに違いない。あまりのショックで、その場で泣き崩れてしまったそうである。デビュー20年目。「さあ、これからだ。頑張ろう」と思っていた矢先に発覚した衝撃の事実である。
即入院。この病気は、がん化した白血球が増殖し、抵抗力が極度に弱まり、ほかの病気に感染しやすくなる。そこで、厳重に管理された無菌室での入院となった。
入院当時は落ち込んでいたようだが、少しずつ元気を取り戻す。「退院したら、
あれもしよう、これもしよう」と考えを切り替えることで、自分への励ましにも
なったのだろう。ファンから送られてくる応援メッセージ、手紙やFAXは、1日に
70~80通。本人はそのすべてに目を通したという。それにしても、せっかく験担ぎをして、姓名の画数を一つ増やすべく末尾に「.」を付けて改名したのに、38歳の若さで旅立ってしまうとは、何のための改名だったのか。疑問を感じてしまう。
回復の兆しも一時あったというが、容体が急変したという。
死の前日には、友人でもある歌手の岩崎宏美さん(65)、同じく俳優の南野陽子さん(56)が病院に駆けつけた。「ありがとう」と本田さん。目に涙をいっぱいたたえ、まばたきを繰り返したそうである。彼女自身も周囲も、絶対に舞台に復帰すると
思っていたが、奇跡は起きなかった。 「悔しいです。絶対に生きると思っていた」
告別式の会場で、南野さんが涙をこらえながら集まった報道陣に対して
言葉少なに答えた。悲しいに決まっているのに、「どんな気持ちですか?」。
無神経なまでに尋ねるマスコミには、正直、腹が立つが……。
人にやさしく
そういえば、あるとき、こんなこともあった。埼玉県朝霞市の本田さんの出身
小学校で開かれた「しのぶ会」で、マネジャーが披露した話。 「『また明日ね』と
見送られ、外に出たが、携帯電話を忘れているのに気づいて取りに戻ると、
背中を見せてわんわん泣いていた。人にやさしく、人を思うことの大切さ。彼女と
出会えたことは、とても大切な思い出です」(朝日新聞埼玉県版2009年3月7日)
つらい話ばかりが続くが、私は「病院」という場所は、病気を治療するだけの場所
ではないと思っている。そこは人間と人間が交流する場。人としての温かさ、
ぬくもりに接する場ではないか。本田さんのエピソードをこうしてつづりながら、
改めてそう感じている。さて、ここで本田さんの経歴について簡単に振り返ろう。1967年7月、東京都生まれ。85年に歌手デビュー。「Temptation(誘惑)」で日本レコード大賞新人賞を受賞し、「1986年のマリリン」もヒットし、アイドル歌手として不動の地位を築いた。ミニスカートにヘソ出しルックで踊っていたこともあった。ひとりでステージに立っても存在感があった。時代は60~70年代の高度成長期を
経て、日本経済がバブルへとひた走った80年代。アイドル人気も熱かった。特に「花の82年組」と呼ばれた歌手は、世代を超えて高い知名度を誇り、「豊作」だった。
中森明菜(58)、小泉今日子(58)、石川秀美(57)、早見優(57)、シブがき隊、堀ちえみ(56)、三田寛子(58)……。私もレコードを買いあさったことを覚えている。アイドルの誰もが、昭和特有のエネルギッシュなパワーを兼ね備えていた。本田さんはやや遅れてきた世代だが、やがて転機を迎える。それが英国発の
ミュージカル「ミス・サイゴン」日本版(92~93年公演)のオーディション。
ヒロインのキムには、約1万2000人が応募した。実は審査の早い段階から、
英国スタッフは「日本版の適任者」として本田さんに注目していたという。
「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのものだ」という声もあった。
地声が豊かな本田さん。課題は裏声を使った高音域の表現だったが、注意した個所は次には必ず直してきた。「どれだけ練習したことか。できそうでできない偉大な
こと」と関係者は振り返る。課題を克服したことで、「アベ・マリア」などを
収めたクラシックアルバムの制作へと新しい道も開けた。冒頭に書いたように、
やはり努力の人である。 「ミス・サイゴン」の中の1曲に「命をあげよう」がある。あの歌のように、自己犠牲の愛の歌が得意だった。舞台でセットに右足を挟まれ、
指4本を骨折しながらこの曲を歌い上げたこともあったという。
故郷を大切にしていた
さて、亡くなった翌月の12月16日、夜9時からフジテレビが「天使になった歌姫・本田美奈子.」というドキュメンタリー番組を放送した。見た人も多かったと思うが、病状が回復に向かっていた時期、フジは完全復帰までのドキュメンタリーを制作しようと取材を始めたという。彼女が残した約5時間にわたるテープと、家族が撮影した
写真から、これまでの歩みと闘病を振り返った番組だった。本田さんは同じ病院に
入院していた知人を元気づけようと、毎日のようにメッセージをテープに吹き込み、最後に歌を贈った。アカペラで歌いあげる「アメイジング・グレイス」。
力強くて心のこもった歌声だ。本当に歌うことが大好きだったんだなあ。そのことがひしひしと伝わってくる秀作の番組でもあった。東京生まれの本田さんだが、2歳から埼玉県朝霞市で育っただけに、「ふるさとは埼玉」と言っていいだろう。歌手デビューし、ミュージカルなどで幅広く活躍するようになっても、地元を離れることはなかった。朝霞警察署の一日署長を引き受けるなど、地域とのつながりを大切にした。
2001年4月の朝日新聞のインタビュー(埼玉県版)でも「土いじりをきっかけにした地域の人たちとのふれあいがたまんない」と屈託なく語っていた。東武東上線朝霞駅の南口には、本田さんのモニュメントがある。「ふるさと朝霞を愛した功績を
たたえて」と地元商工会が市に提案。特殊加工で本田さんの顔写真が埋め込まれ、
ボタンを操作すると澄んだ本田さんの歌声が流れる仕組みだ。2007年に完成した。
除幕式には、友人代表としてタレントの早見優さんらが参加。母親の工藤さんは
「感無量です。駅に降り立つ皆さんに元気を与えてほしい」と語った。
27歳で夭逝した俳優の夏目雅子さん(1957~1985)のように、スターはいつまでもいつまでも語り継がれる。まさにスターとは、真昼の明るさの中では見えなくても、陽が落ちて暗くなると輝き始める星のような存在なのだろう。
寂しくなったとき、夜空を見上げてみよう。本田さんはいつも私たちのそばにいる。
次回は「燃える闘魂」のキャッチフレーズで人気を呼び、2022年に79歳で亡くなったアントニオ猪木(1943~2022)。ボクシングの世界王者モハメド・アリ(1942~2016)との異種格闘技戦など時代を先取りしたアイデアと抜群の行動力。ショー的要素が強いプロレスとは決別し、「ストロングスタイルのプロレス」をめざした猪木。病魔に冒されても、闘魂の魂は燃え尽きなかった。
小泉信一(こいずみ・しんいち) 朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載や
コラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。 デイリー新潮編集部
本田美奈子さんのマネをして髪型をソバージュにしていた人が多かったです。
私も、この時代ソバージュにしていました
本田美奈子さんのような良い人がなぜこんなに早く亡くなり、悪い人が死なないのか?神様は本当にいるの?と思う時があります。こんなに頑張っていて、悪い事もしていない人が・・・これから、もっと自分のしたい仕事をして、みんなを喜ばしたり感動させたりできる人なのにと。
病院で入院している時に、看護婦さんと入院している患者さんに向けて
「アメイジング・グレイス」を歌っている姿を観て感動したのを覚えています
亡くなる時に苦しまないで良かったです
最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去 / 復刻
< 日刊スポーツ:2005年11月7日付 >
◇ ◇ ◇
「1986年のマリリン」などのヒット曲で知られ、ミュージカル女優としても活躍
した歌手本田美奈子.さん(みなこどっと、本名工藤美奈子=くどう・みなこ)が
6日午前4時38分、急性骨髄性白血病のため、都内の病院で死去した。38歳。
今年1月に病気が判明して緊急入院。過酷な闘病生活だったが、
「きっと元気になってみなさんの元に帰る」と信じて、最期まで闘い続けた。
本田さんは、家族や親類、所属事務所関係者らが見守る中、息をひきとった。
関係者は「文字通り、静かに眠るようでした。最後に天使みたいにほほえんで、
全員から『わぁーっ』と感動の声が上がったほどでした」と振り返った。
埼玉県朝霞市の自宅に帰った遺体は、1階の居間に安置され、家族が寄り添って
いるという。所属事務所はマスコミ各社に送ったファクスで「10カ月の闘病生活を
送っていましたが、きょう永眠致しました」と悲報を伝えた。
過酷な闘病生活の一部始終を見てきた事務所の高杉敬二社長は「明日は治るという
希望のもと、勇気ある戦いをしていました。感動と勇気をもらったし、こういう
アーティストに出会えて本当に良かったです」と話した。
本田さんが緊急入院したのは今年1月13日。風邪のような症状で診察を受け、
病名が判明した。3度の化学療法と臍帯血(さいたいけつ)移植手術を受けた。
7月30日に一時退院し、翌31日の誕生日を自宅で迎えるなど快方の兆しもみえて
いたが、8月31日に再び染色体の異常が発見され、再発が判明した。
米国から取り寄せた新薬も試みた。
今年がデビュー20周年。節目の年の復帰を信じて、新アルバムを企画していた。「病室とレコーディングを行き来してつくろう。まだ20周年に間に合う」と
先月から詩の創作も始めていたが、容態が急変した。高杉氏は「僕が最後に聞いた
美奈子の言葉は『レコーディング頑張ろうね、ボス』でした」。
アルバム発売、ミュージカル出演、20周年コンサートなどすべてをキャンセルした
闘いだったが、本人はいつも「負けない」と前向きだった。抗がん剤の副作用で
髪が抜け、毎日デザインが違うバンダナを巻いて自分を励ました。
病床では、ファンや友人の手紙を毎日ながめ、励みにしていた。
移植手術後の5月には、ファンに向けた直筆メッセージを発表。「現実を受け入れ
病気と闘わなくてはいけないと思っていても、涙が止まらないのです。泣きたい時は我慢しないで泣いています」と不安な心境もつづったが「きっと輝く健康な自分が
待ってくれていると信じています」と自分を奮い立たせるような言葉で結んだ。
普段は「たくさんの人に支えられて私は生きている。そのことが病気になって
初めて分かった」と繰り返し語り、不安や希望をノートに書き留めてもいた。
亡くなる数日前には「自分の舞台を見たい」という本人の希望で、
出演ミュージカルのDVDが届けられた。
10月半ばに電話で話した関係者には、明るい声で「私は元気よ。あなたこそ元気なの?」と話し、笑っていたという。ミュージカル共演以来の友人、歌手岩崎宏美は、5日に病室を見舞ったときの様子をこう語った。「意識はなかったけど、
大声で呼びかけると『ああ』と答えてくれました」。
細身の体から繰り出す歌声同様、その生きざまは最期まで力強かった。
◆本田美奈子. 1967年(昭42)7月31日、東京都生まれ。85年に「殺意の
バカンス」でアイドル歌手としてデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。
92年に「ミス・サイゴン」のキム役でミュージカルデビュー。以後「レ・ミゼラブル」「屋根の上のヴァイオリン弾き」などに出演し、ミュージカルを中心に活躍した。04年11月に姓名判断で「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」といわれ
名前の最後に「.」をつけて改名した。163センチ。血液型O。
◆急性骨髄性白血病 骨髄や血液で、未熟な白血球が異常に増殖する病気。
造血、免疫機能が低下し、貧血や発熱などの症状がある。白血病細胞の種類で
急性骨髄性と急性リンパ性に大別される。発症は10万人あたり約6人。
骨髄性の治療法は、まず化学療法で細胞を寛解(かんかい=消滅させること)させ、維持療法か骨髄移植を行う。臍帯血移植は、へその緒の血液に大量に含まれる、血液のもとをつくる造血幹細胞を使う。細胞が5%以下になった状態を完全寛解と
いうが、井上外科胃腸科病院の井上毅一院長は「1度寛解しても油断はできない。
若いと病気の進行も早い」。医療ジャーナリスト祢津加奈子氏は「化学療法にうまく反応せず、完全寛解までに時間がかかると再発する場合が多い」と説明する。
同病では、女優夏目雅子さんが85年に27歳で亡くなった。
※記録と表記は当時のもの
亡くなった翌月の12月16日、夜9時フジテレビが「天使になった歌姫・本田美奈子.」というドキュメンタリー番組を放送して、その番組を観ていました
彼女を励まそうと関係者が企画し、福山雅治さんも賛同して作成されました。
なぜ楽曲に歌詞がないのか、そこには福山さんをはじめ、この企画に賛同した
アーティストたちの深いメッセージが込められていました。
井上鑑さんが、みんなに声を掛けて実現したと記憶しています
知人の書かれていますが、番組では岩谷時子とやり取りしていたと言っていました
作詞家・岩谷時子さん追悼秘話 「第2の越路吹雪」として
育てようとした本田美奈子. 2013.10.29 夕刊フジ
越路さんは1980年11月7日、胃がんのためこの世を去った。実は、岩谷さんが後に「第二の越路」として育てようとしていたのが、歌手の本田美奈子.さんだった。
本田さんはアイドル歌手からミュージカル女優へと脱皮。「ミス・サイゴン」への
出演をきっかけに訳詞を担当した岩谷さんと子弟のような仲になった。
「岩谷さんは、越路さん亡き後、封印していた『愛の讃歌』を本田さんに歌わせる
ほど目にかけていました。本田さんはアイドル時代の歌唱法を変え、ポップスと
クラシックの垣根を越えたクラシカル・クロスオーバーの分野に進出。岩谷さんの
後押しで日本のサラ・ブライトマンになるはずでした」(レコード会社関係者)
ところが、本田さんは2005年1月、急性骨髄性白血病との診断を受け、闘病の末、同年11月6日に38歳の若さで亡くなった。越路さんの死に続くショックだった。
本田さんは入院する数カ月前、夕刊フジのインタビューで
岩谷さんに認められたことを興奮気味に語っていた。
「かわいがっていただいて、とても光栄です。先生は言うんですよ。
『あなたの(歌の)中には、天使と悪魔がいる』って」
師弟は今、何を語り合っているのだろうか。
越路吹雪さんが亡くなったのは、1980年11月7日で、本田美奈子さんが亡くなったのは、2005年11月6日。そして、私の誕生日が8日です。偶然?
天国で、みんなと音楽の話や楽しい話でもしていますか?
ご冥福をお祈りいたします。
本田美奈子を襲った白血病…死の直前「痛くて痛くて
息もできなかった」証言 Asagei+ 2022年7月7日
「家族とわれわれと、みんなで小さなケーキを作り、本人が『鍋が食べたい』と
いうので鍋パーティーをやりました。『自分で作りたい』と水餃子をふるまってくれてね。8月中は、食欲も旺盛だったんですが…。亡くなる一週間前の週末も、本当は
帰れる予定だった。ところが水が溜まり始め、肺炎を起こしたということでした。
痛くて痛くて息もできなかったほどで…。風邪による合併症です」
2005年11月6日、急性骨髄性白血病のため、38歳の若さで
この世を去った本田美奈子。
2日後の8日、通夜を終えた本田の所属事務所社長で、彼女の育ての親でもある
高杉啓治社長は、そう言って唇をかんだ。
アイドルから本格的なミュージカル女優に転身、大活躍していた彼女に病魔が
襲いかかったのは、この年の1月である。風邪のようなだるさが続き、病院で検査してみると、なんと「血液のガン」である白血病と判明したのである。
本田にとってこの年は、芸能生活20年目という節目。3月からは東京帝劇で
「レ・ミゼラブル」、5月には青山劇場で「クラウディア」、6月にはNHK大阪ホールと、公演が目白押し。秋には記念アルバムの発売も予定されていた。
そんな矢先の衝撃──。(中略)
白血病になると抵抗力が極度に弱まり、他の病気に感染しやすくなるめ、無菌室での入院が続いていた。一時、ガン細胞は5%以下にまで激減。無菌室から一般病棟へと
移ると、5月には臍帯血移植手術を受けて好転。7月30日には一時退院が許され、
翌31日の誕生日を自宅で迎えることもできた。
しかし──。9月7日に再入院。10月末には容体が急変した。そして11月6日。
痛みから解き放たれた彼女は、同時に「歌」という生きがいも奪われることに
なってしまった。
私は生前、一度だけ本田を取材したことがある。
彼女が「MINAKO with WILD CATS」なるバンドを結成した時のことだ。
アイドルからの脱皮を試行錯誤していたのだろう。「自分が変わっていくことが
面白くて仕方がない」と、熱く語ってくれたことを覚えている。
葬儀の際、彼女の遺影にはカレンダー用として前年に撮影された写真が
用いられていた。頬に手をやり微笑みかける、そのアイドル然とした表情は、
天使のように輝いて見えた。
(山川敦司)
占い師の母がこの年の9月 or 10月頃に「あんたたちに、かまっている暇はない!
早く、早苗にパワーを送らないと」言っていたことを思い出しました
本当は、本田美奈子さんにパワーを送っていたのは、あの姉妹だった
この年の5月頃に急に母が倒れて韓国で入院したと聞きました。
その1か月後に回復へ向かって話せるようになっていました
松田優作さんも1989年11月6日に亡くなっています。偶然にも同じ日でした
純ちゃんに嫌な事をしてこないで! 咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、
体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、
思考低下させないで!体などを痛くしない。 トイレ関係も。脅さないで!
【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、
「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!
その技術を使わないで!
TV等の撮影やスタッフに付いて行って、ロケや取材等の邪魔をしないで
束縛、嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて 中枢神経を触って来ない。頭を重くしないで!人の感情やパワーを抑えない、
口のろれつが回らないようにしない。唇を痺れさせない。人をコントロールしないで 首を痛くしないで、身体を熱くしないで
全責任は、お母さん達に取ってもらう。 もちろん本人にも取ってもらう!
人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこない、フリーズが出たので止めて
長女のパワーを使わない! 上記に書いていることは、みんなのことを指す
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。
アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して
( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )
契約書を読んで!約束を破るとペナルティーが、母との勝負を忘れないで
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました
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