信楽高原鉄道事故で大破した車両=平成3年5月14日
平成3年5月14日午前10時35分に滋賀県信楽町(現甲賀市)で、信楽高原鉄道(SKR)の4両編成の列車と、乗り入れていたJR西日本の臨時列車(3両編成)が
単線上で正面衝突し、事故から丸30年を迎える。わが国の鉄道史に残る大惨事。
節目にあたり、当時、大津支局員として現場取材にあたった記者が振り返った。
混乱を極めた1週間
--第一報は?
野瀬吉信(大津支局長)記者3年目に入ったばかりで県政を担当していた。
当時、県庁の隣にあった県警の広報官室でたまたま雑談をしていて、発生を知った。一報は「信楽高原鉄道が転覆」だった。すぐに支局のデスクに電話連絡した。
鮫島敬三(大阪運動部次長、前大津支局長)県警の記者室で一報を受けた。時間帯
からJRの臨時快速がからんでいたら大惨事だと思った。その通りになってしまった。
岩田智雄(大阪編集長)夕刊の締め切り直前だった。大津市政を担当する駆け出しの記者で、現場に行く時間はなく、支局でJRや信楽町役場に電話をかけまくり、
事実関係の把握に努めた。列車が大破する中、現場の様子がわからずに苦労した。
平岡康彦(大阪地方部次長)大津地裁で刑事裁判を傍聴していた。ポケットベルが
鳴って退室した。他社の記者が退室していくのを見ていたので、事件か大きな事故
かと緊張したのを覚えている。内田透(大阪編集局総務)4月に入社したばかりの新米記者で、大阪府警曽根崎署で社会部の先輩記者から研修を受けている最中だった。記者室のテレビに映し出された事故現場の光景は今も大きな衝撃とともに胸に残っている。見たことのない惨状にあぜんとした。半月後、大津支局に赴任し、以降4年
近くにわたり、捜査や遺族の活動などを取材した。
--発生から1週間は?
野瀬 会期11日を残しての陶芸祭の「中止決定」や地元のイメージダウン、
補償問題など主に行政の動きを取材した。
鮫島 ほかの記者は事故にかかりっきりだったため、事故以外の原稿の出稿に忙殺
された。当時は事前組みの第2県版という紙面があり、その記事を一人で書く日々が続いた。
岩田 連日、車で現場に向かい、取材した。事故列車は何日も現場にそのままの状態で保存されていた。SKRの列車は前2両が大破し、盛り上がった状態で、特に1両目は押しつぶされ、どこにあるのかわからなかった。衝撃的な状況で、線路脇の道路を
通行するドライバーが運転しながら手を合わせる姿をよくみかけた。
平岡 犠牲者の顔写真を集め、遺族の話を取材していたが、あまり覚えていない。
運輸省(現国土交通省)など行政関係者が次々と信楽駅を訪れ、原稿化した。
現場には自称鉄道関係者や鉄道に詳しいという人もやってきて、原稿にしていいか
わからないこともあった。とにかく混乱していた。
難航した捜査の取材
--事故から1カ月後に合同慰霊祭が営まれた
野瀬 平成3年6月16日に合同慰霊祭が営まれ、少し落ち着いた。その後は運行再開と補償問題を主に取材した。信楽高原鉄道(SKR)とJR西日本が同17日に
「信楽高原鉄道ご被災者相談室」を設置し、具体的な補償交渉が始まった。
内田 遺族に対する当初のJR西日本側の態度は不誠実だった。合同慰霊祭で、
当時のJR西日本社長は遺族に謝罪しないまま会場を立ち去ったばかりか記者会見で、
「おわびというのは悪いことをしたときにいう表現。今は悪いことをしたか、しないかわからない(段階)」と言ったという。「妻はJRの切符を買い、JRの列車に乗って事故に遭った。どうしてJRに責任がないのか」と事故で妻の佐代子さん=当時(53)=を亡くし、遺族の会の世話人代表を務めた吉崎俊三さんは何度も語っていた。
原因がどうであれ、まずは真摯(しんし)に向き合うべきJR西日本のトップが、
「SKRからのもらい事故」という態度を崩さなかった。吉崎さんらの怒りは当然で、最悪の対応だったと今でも思う。
--捜査の取材は難航した
内田 新人記者にとって、捜査取材ははるか高くそびえる壁だった。苦い思い出は忘れたいという本能からか記憶がまだらだが、正直、個人的には「抜いた、抜かれた」というより、「抜かれ、抜かれた」という印象だ。
岩田 最大の謎はなぜ正面衝突したかだった。早い段階で刑事部長が会見で「JRの
運転士が信号は青だったといっている」と明らかにした。この時点で、SKRに
何らかの落ち度があったのだろうという推測が成り立っていた。
内田 信楽駅の出発信号が赤で固定されていたにもかかわらず、SKRの列車が見切り発車したことが第1の要因だった。ただ、この赤信号固定はJR西日本がSKR側に無断で設置した遠隔操作設備「方向優先テコ」が原因で、後に民事訴訟でJR西日本の過失が認定される根拠となった。この設備の存在は他社のスクープだったと記憶している。ニュース番組で、普段、記者室で机を並べている顔見知りの記者が現場で
リポートしていて、たまげた。
平岡 JR西日本の事故車両の内部がさっぱりわからない状態が続いていた。それが、捜査で車両を動かすことになり、接近できるチャンスが訪れた。コンパクトカメラを持った手を先頭車両に突っ込んで無我夢中で撮影した。つぶれ、ねじくれた車両は
エネルギーのすさまじさを物語っていた。普段は鑑識課員の取材をしていた。
捜査員は信号機のメーカーに出張して鉄道システムの勉強をしていた。捜査は長引きそうだなと感じていたが、警察幹部に「システムの故障の可能性は」と尋ねた際、「今回の事故は人の問題」と断言され、記事にしたのを覚えている。
--関係者の逮捕は事故の翌年だった
内田 平成4年12月3日、県警がSKR側の3人を業務上過失致死傷などの容疑で逮捕した。このときも2紙にスクープされた。逮捕の動きをキャッチし、予定原稿も用意していたが、力不足、経験不足から「きょう逮捕」の原稿出稿に踏み切れなかった。未明に本社からファクスで届いた他紙の1面トップ記事をみて、気を失いそうになった
岩田 結局、JR西日本の運転士は青信号に従ったということで、最後まで刑事責任を問われることはなかった。
以前にも書きましたが、この年の12月に占い師の母が和歌山市に純ちゃんを探しに
来ていたのを思い出しました。たまたま、忘年会の帰りに純ちゃんの友達の上地さんに声を掛けて「あなたの友達に手塚くんいてるでしょ」と詳しく言うので・・・
(中略)そして、純ちゃんと母と連絡を取り合って、「苦労しているけど、良い子と出会うよ。その子に骨を取ってもらいなさい。その子しかいていないよ」と言われ、
本当に母が言った通り、数ヶ月後に私と出会いました
--民事裁判ではJR西日本の過失責任も問われた
野瀬 遺族がJR西日本の法的責任を明らかにしようと提訴した裁判の控訴審判決が
平成14年12月26日、大阪高裁であった。当時、司法担当キャップをしていたが、JR西日本の責任を認めた判決に事故で妻を亡くした原告団団長の吉崎さんが「事故から約12年間、JRの謝罪を求めて苦痛の中、戦ってきた。(JR西日本)関係者の起訴ができないのは残念だが判決に安堵(あんど)した」と話していた。同30日にJR西日本の南谷昌二郎社長(当時)が上告断念を表明したが謝罪はなかった。事故後、初めて謝罪したのはこの2カ月半後の3月15日、「遺族の会」の場だった。事故から12年。
当時のJR西日本の体質だろうが、「遅すぎる」という思いはぬぐえなかった。
内田 JR西日本が責任を認め、トップが遺族に謝罪するまでに費やした歳月は長すぎた。吉崎さんが「もっと早く責任を認めて謝罪をしていただければ、私たち遺族は
これほど長く苦しむことはなかった…」と話していたのが今も忘れられない。
今、改めて思うこと
--当時、取材した方々の消息は?
平岡 まったく聞かない。県警の関係者もすでに引退している。
野瀬 夫=当時(63)=と孫=当時(2)=を事故で亡くし、自らも半月意識不明の重体だった中島イトさん=当時(66)=に、発生から10カ月後に病室で話を聞いた。「おじいちゃんとぼんを返してほしい」といいながら、「私だけが犠牲者ではない
ので強くもいえない」という言葉に今も頭が下がる思いがする。
--信楽高原鉄道(SKR)の事故後もJR福知山線脱線事故(平成17年4月25日)
など大きな列車事故があった
平岡 SKR事故は法令順守の意識の低さが原因。福知山線事故は運転士が主な原因
だが、過密ダイヤに安全面の危機感を抱けないJR西日本の警戒心の緩さにも原因が
ある。福知山線事故に至るまで、JR西日本に何かしら緩みがあった気がする。
鮫島 福知山線事故も大惨事だが、SKR事故のわずか4年半前に余部鉄橋(兵庫県香美町)列車転落事故が起きている。国鉄時代だが後のJR西日本管内。風速25メートル以上になれば列車を止めるという規則を守らなかったため、回送列車が橋から転落し、下の水産加工場で働いていた従業員5人と車掌の計6人が死亡した。
列車指令長ら3人は業務上過失致死傷罪などに問われ、有罪判決が確定した。
安全を最優先する当然の考えが、このころからなかったのではと感じる。
内田 福知山線事故後、SKR事故で妻を亡くした吉崎俊三さんの自宅を訪ねた。「思わず信楽のことがよみがえり、テレビの前で泣いてしまった。本当に安全第一を考えていれば、こういう事態にはならなかったはず」。妻の遺影の前で語る吉崎さんは「信楽の事故が教訓になっていなかったといわざるを得ない」と悔しそうだった。
この年の2月には、SKR事故の遺族を中心とする民間機関「鉄道安全推進会議(TASK)」の活動に二人三脚で取り組んできたTASKの初代会長、臼井和男さん=当時(65)=が急逝され、吉崎さんにはそのショックもあった。「一心同体、兄弟のようにやってきたから、彼が亡くなったときはいいようのない喪失感があった。情熱的な彼だからこそできたこともたくさんあった」と吉崎さんは寂しそうに語っていた。その吉崎さんも平成30年5月2日、84歳で亡くなった。「何年たっても妻は帰って
こないし、悲しみは消えない。だからこそ、悲惨な事故を二度と起こしてほしく
ないんです」。悲痛な言葉が心に残っている。
岩田 産経新聞では今年、福知山線事故から16年の時期をとらえ、検証記事を掲載した。原因は、直前の停車駅でミスをした運転士が懲罰的な「日勤教育」を恐れるあまり、自分のミスを報告する車掌と指令員の無線のやり取りに気をとられ、ブレーキ操作が遅れたことだとされる。取材に当たった記者はJR西日本に「ルール順守が金科玉条ではないことをどこよりも知る企業として、正しいルールへの向き合い方を社会に示してほしい」と書いた。事故を未然に防ぐための厳しい取り組みの先に別の事故があったとは皮肉な結果だ。
【補足】
1986年12月28日、兵庫県香住町(現・香美町)の旧国鉄山陰本線余部(あまるべ)鉄橋で、回送中のお座敷列車(8両編成)が突風にあおられ、機関車を除く客車
7両が約40メートル下に転落した。客車はカニ加工工場を直撃。工場で働いていた
女性従業員ら5人と客車にいた車掌1人が死亡し、6人が重傷を負った。
列車が鉄橋にさしかかる前、鉄橋で風速25メートル以上の強風が吹いていることを
示す警報装置が2回作動し...
この時に、もっとしっかり教育なりルールを徹底させて事故が起こらないように
するべきだったのに、怠るからまた悲惨な事故が2回も起きたのでは
--今、改めて思うことは
平岡 いわゆる事故調査委的な内容の出版、データを集積した失敗学会、
ウィキペディアなど、事故を俯瞰(ふかん)できる媒体を今は見ることができる。
こうした媒体が広まるきっかけになった事故の一つ。
死傷者の出る事故はいたましいが、立ち止まって考えることが必要だ。
内田 取材を通じて強く心を揺さぶられたのは、戦後最大級の鉄道事故に直面した
遺族が、消えることのない大きな悲しみを抱えながら滅私の行動で再発防止のために力を尽くし、事故当時はなかった第三者調査機関(現運輸安全委員会)発足への道筋をつけたこと。「一つの事故の被害者が国のシステムを変えるきっかけを作った。
信楽事故の遺族の頑張りがなかったら、何もできていなかったかもしれない」。
かつて、TASKの事務局長を務めた弁護士が語っていた通り、信念の強さ、足跡の
尊さを、今も感じずにはいられない。
鮫島 JR乗り入れに際し、列車の行き違いができる小野谷信号場が開設されたが、事故で使用中止となった。撤去工事が進み、今年度で信号やレールはすべてなくなる。交換設備の線路があったスペースには敷石が残るだけで、30年の年月を感じさせる。甲賀市の担当者によると、「SKR事故の風化を防ぐため、信号場を残しておいて
ほしい」という声は特になかったという。
岩田 大津支局に勤務していたのだから自分が事故に巻き込まれていても不思議はない。福知山線事故も、事故の数年前は沿線に住んでいて通勤に利用していた。どちらも忘れることができない。こうした事故や事件が起きるたびに「今後に教訓を生かせ」という指摘がある。今、世間は新型コロナウイルスの感染拡大から教訓を得ようとしている。事故の衝撃が人々の記憶から薄れつつある中、「教訓」という言葉を
改めてかみしめ、こうした事故を二度と起こしてはならないと考える機会にしたい。
野瀬 一人でも多くの方がこの企画を読み、事故で亡くなった方々の無念に思いを
はせていただければ、それに勝ることはない。
信楽高原鉄道事故に学んでいたか
わずか12ページ。それが42人の犠牲者を出した事故の調査結果として国が提示した答えだった。平成3年5月14日、滋賀県で起きた信楽高原鉄道(SKR)とJR西日本の
列車衝突事故。「列車運行にかかる規定が順守されていなかった」との結論のみが
書かれ、組織的な背景への言及はなかった。「なぜ事故が起きたのか」という
疑問を抱える遺族を、当時の警察や検察は「捜査に関わる」と突き放した。
JR西は「責任はすべてSKR」との態度に終始したという。運輸省(当時)の
役人は通路でしか面会しなかった。あまりに冷たい仕打ちだった。
血の通った事故調査
事故から2年後、遺族と専門家は「鉄道安全推進会議」(TASK)を立ち上げる。
それに先立ち、遺族や関係者は、米国の国家運輸安全委員会(NTSB)を視察して
いた。後にTASKの副会長となった国府泰道(こくふ・やすみちみち)弁護士(66)も参加しており、「遺族のために調査結果はすべて明らかにする」という
NTSBの姿勢に衝撃を受けた。
事故で長女を失い、TASKの初代会長に就任した臼井和男さん(故人)は、
TASKの目的を後にこう語っている。「人間の血の通った事故調査組織を
設置しなければならない」そして13年、TASKの活動に促され、わが国でも
鉄道分野を対象に含めた国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会(事故調、
現・運輸安全委員会)が発足した。事故発生から、実に10年の月日が流れていた。
【 補足 】
報告・情報伝達体制の未確立
信号システムの供用開始前からトラブルはあったものの上層部への報告はなかった。また閉塞取り扱い違反や信号故障、列車遅延ならびに運休について、所轄の運輸局への報告が義務付けられているにもかかわらず、両社は必要な報告を怠った。輸送力増強の要請を受けた直後から乗り入れにあたり、JR西日本と信楽高原鐵道は会合の場を持ち、それに必要な契約は交わしたものの、写しを現業部門に交付することもなく、また契約の詳細に至るまで乗務員に周知徹底されることはなかった。それに加え両社の運転取扱心得の比較対照も行われなかったことが、後に裁判において指摘されて
いる。教育訓練の拙さもあり、JR西日本の運転士の中には「信楽高原鐵道線内での
運転取扱心得はJR西日本のものと同じ」という言葉を信じたままの者もいた。
教育訓練が不十分な中で信号トラブルが相次いだが、彼らは信楽高原鐵道の信号
トラブルも、また職員の代用閉塞取扱の規定違反も上役に報告することなく、
その場限りとなってしまっていた。
運転指令と各列車間の連絡手段については列車無線の周波数が違うことから、JR西
日本の乗務員と信楽駅ならびに対向する信楽高原鐵道の乗務員とでは、無線通話が
行えなかった。このためJR西日本側では、信楽高原鐵道線への入線時に無線の電源を切り、代わりに車載の可搬式の列車電話を使うこととなっていた。ところが小野谷信号場で赤信号のまま待たされた運転士が、実際に連絡用の列車電話機を使おうと線路に降りると、接続箱が施錠されていて使えなかった。そればかりか信号の停止措置が取られないまま、小野谷信号場にて赤信号を表示していた上り出発信号機が突然青信号に変わり、直後に赤信号に戻るという現象を現認したにもかかわらず、その異常
事態が報告されることはなかった。さらに事故前の5月7日には、亀山CTCの指令員が出発信号機のテコを定刻になっても引かず、また運転士も出発信号機の赤信号を見落としたまま発車してしまい、自動列車停止装置(ATS)が作動した。貴生川駅を出てすぐのところにある虫生野踏切が閉鎖されていないことから誤出発だったと運転士は認識し、貴生川駅員の誘導により列車を後退させたが、既に対向列車が小野谷信号場に接近しており再出発できず、この列車を運休とした。列車の運休は所轄の運輸局への事後報告が必要であるにもかかわらず、両社はその前の5月3日にあった信楽駅での信号取扱ミスによる遅延ともども、近畿運輸局に運休の報告はせずうやむやにしてしまっていた。これらのJR西日本の情報収集及び報告体制の不備による過失も、裁判において認定されている。
遺族と加害企業、同じテーブルに
「信楽高原鉄道事故の教訓を、JR西が学んでいたら」。17年の福知山線脱線事故で長女を亡くした藤崎光子さん(81)は背景をそう見ていた。そんな中、藤崎さんらが結成した遺族らのグループ「4・25ネットワーク」のメンバーは、JR西が24年に
設置した「安全フォローアップ会議」に参加した。加害企業と被害者遺族が
同じテーブルで安全を議論する「歴史的」ともいわれる会議体だ。
終わりなき責務
臼井さんは事故調が発足する見通しとなった13年4月、万感の思いで参院の
委員会に出席し、こう述べている。「どんな調査をしても、どんな規則を作っても
必ず事故は起こります。最後の最後まで、われわれは欠陥を持った人間で、ヒューマンファクターです。だから、一生懸命われわれは安全に向かって前進したいと思う」
信楽の事故から今年5月で30年。遺族の声を届けたいと活動を続けたTASKは
一昨年、その役目を終えたとして解散した。信楽の事故から、さらに多くの犠牲を
出した経験を踏まえ、事故の教訓をどう後世に伝え、風化を防いでいくのか。
JR西の責務に終わりはない。
◇
野々山暢、小川原咲、中井芳野、藤木祥平が担当しました。
痛みと恐怖いまもなお 30年を経て語る信楽高原鉄道事故
毎日新聞2021/5/13 09:00(最終更新 5/13 09:00)有料記事2661文字
すし詰めだった乗客が衝撃音と共に折り重なった。漂う燃料の臭いに恐怖感は増す。助け出された母の手を握ると脈は止まっていた――。滋賀県甲賀市(旧信楽町)で1991年5月14日、信楽高原鉄道(SKR)とJR西日本の列車が正面衝突して42人が
死亡、600人以上が負傷した事故。自らも重傷を負って生き延びた女性は当時の光景をまざまざと思い出す。あれから30年。関係者の高齢化が進み、亡くなる人も相次ぐ中、風化を懸念する遺族らと、教訓を受け継ぐ人たちの声を聞いた。
世界陶芸祭の楽しみが一転
「おばあちゃんが守ってくれたからお母さんがいて、あなたが生まれたのよ」
事故で母の吉崎佐代子さん(当時53歳)を亡くし、自身も重傷を負った久仁子さん(55)=兵庫県=は、事故の6年後に生まれた長女(23)にそう伝えてきた。
明るく、友達のように何でも話せた母。細やかな刺しゅうが得意で、結婚する時に
色とりどりの花をあしらった作品を持たせてくれた。
「孫の顔や成長を見せたかった」と今も思う。
あの日。久しぶりに親子で出掛けようと、信楽で開かれていた世界陶芸祭に
母と姉と3人で向かっていた。「車で行くより列車の方が安全だから」と鉄路を選び、
SKRに直通乗り入れしていたJRの先頭車両に京都駅から乗車。車内は陶芸祭を目指す人であふれていた。途中で姉の気分が悪くなり、手すりを持てるようにと母が立つ位置を代わった。「あとどれくらいで着くのかな」「楽しみだね」。そんな話をしていたら、突然「ドーン」と大きな音がした。同時に身動きが取れなくなった。
隕石のような衝撃 折り重なる乗客
信楽鉄道事故31年 教訓まとめた冊子、
非公表 背景にJR西批判
毎日新聞2022/5/13 06:30(最終更新 5/13 23:28)有料記事1936文字
滋賀県甲賀市(旧信楽町)で1991年5月14日、信楽高原鉄道(SKR)とJR西日本の列車が正面衝突し、42人が死亡、600人以上が負傷した事故で、SKRが教訓を総括
した冊子を作製したものの、10年近く外部に公開せず「塩漬け」となっていることが関係者への取材で判明した。専門家は「貴重な資料で、公表して社会で役立てる
べきだ」と指摘する。SKRは自ら事故を省みた記録をなぜ明らかにしないのか。
冊子は「惨事をのりこえ 走り続けるために~信楽高原鉄道列車事故の総括~」。全222ページ(A4判)で、事故に至る経過や当日の状況のほか、事故原因や裁判の
過程などを当時の写真を交えて詳細にまとめている。序章では「加害者である
SKRが事故を忘れることは許されない。事故を総括し、教訓を引き出し、
SKRの未来に生かさねばならない」とうたう。
事故後にSKR社長となり、長年対応に当たった北川啓一氏(2017年に92歳で死去)はあとがきで「運転士は事故を忘れることのないよう、いつも本冊子を携え、
安全を心の中に刻みながら業務を遂行してくれるものと信じている」と記した。
しかし、その願いは実現しなかった。関係者によると、11年に補償での負担割合を
巡るJR西とSKRの訴訟が終結し、両社と滋賀県、甲賀市が安全を誓う共同メッセージを出したのを機に、SKRの顧問となっていた北川氏が「次にすべきことは、SKRと
しての総括だ」と冊子の作製を提案した。当時の社長、今井恵之助氏(83)の下、
北川氏とSKRの訴訟代理人だった島田和俊弁護士(71)を中心に編集。
700部程度印刷し、関係者や図書館などに配布する予定だったという。
社長「この内容では公表できない」
ところが13年6月に就任した正木仙治郎社長(70)=甲賀市副市長=は、
原稿を見て「この内容では公表できない」と判断。島田弁護士らの働きかけで、
今井氏が社長だった同年3月の発行として最終的に70部が印刷されたものの、
作製に携わった関係者や社員の手にのみ渡り、冊子の存在は社外には秘された。
なぜそのような判断をした…
本当に、1986年12月と1991年5月、2005年4月の電車事故、この教訓を踏まえて
二度と同じ過ちを犯さないで、教訓やルールを徹底して活かしてほしいです。
亡くなられた犠牲者の人達、ご遺族の人達のためにも、お願いします
ご冥福をお祈りいたします。
ブログを作成している時に、思考を低下させたり邪魔をしてこないで。
早く終わるのものも、終わらなくなるでしょ
契約書や約束は必ず守って。特にあの3人
人の後ろに憑かないで、憑依して人に変な事を言わなさないで
人の記憶を消さないで、しつこく、いろんなことを言ってこないで
水晶で人の過去を見て脅してきたり、マウントを取って来ないで
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました